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イイコにしてろよ

 ぱしゃん、と弾けてきらきら光る水飛沫をぼんやりと眺めていた。

 わあわあと青空に響く声はどれも楽しそうで、ツンと鼻をくすぐる塩素と水の匂いを懐かしいとすら思う。
 この世界の夏は記憶のなかのどの夏よりも乾いていて、こうして日陰でじっとしている分にはそれほど苦にならない。蝉の声がない夏、というのはなんだかおかしな気分になるけれど、静かに乾いた夏の日々も慣れてしまえばこれはこれで好ましいものだった。

「監督生は今日も見学なんだな」

 ふいに掛けられた声に驚いて振り返ると、すぐ傍にデュースが立っていた。
 さっきまで泳いでいたのかぽたぽたと青い髪の先から水を滴らせていて、濡れたままの真っ白な肌がすこしだけ眩しい。さっきよりもずっと濃い、塩素と水の匂いがした。

「うん……」

 曖昧に頷いた私にデュースの顔が曇る。
 あ、まずい。なにか話題を、と探す間もなくデュースの口が開いてしまった。

「最近ずっとだよな? エースには止められたんだが、特別体調が悪いって訳じゃなさそうだしどうしたんだろうって思ってさ。責めてるとかじゃないぞ、その、監督生って僕たちの中で一番真面目だからグリムと違ってサボるとも思えないし、泳ぐのも好きって前に言ってただろ。だから、なんというか……心配なんだ」

 デュースの言葉は彼らしくどこまでも真っ直ぐに飛びこんでくる。だからこそ余計に居た堪れなくて、つい視線を落としてしまった。

 わあわあと楽しそうな笑い声はここからでは現実味がないほどに遠い。陽の光を遮る影のなかにいるというのに、その優しさが今はなんだか息苦しくて。

 第一ボタンまで閉めたシャツの胸元をぎゅっと握りしめたのは、きっと無意識だった。

「なにか、あるんだな?」

 デュースの確信を得たような声にはっと顔を上げる。

「ううん、なんでもないよ」
「誤魔化さなくていい。僕に言えないならエースでも、グリムでもジャックでもいい。なにかあるなら頼って欲しいんだ」

 真剣な眼差しと声にはどちらもデュースの優しさが込められている。

「僕たちはダチだ、そうだろ?」

 付け足すようにそう言って、ちょっとだけ照れ臭そうにしながらも気遣わし気に注がれる青い眼差し。

 ……これ以上、拒めない。

 そう思った。もしかしたら、何か、何かがどうにかなるかもしれないとも思っていた。うまく言葉に出来ないのに何か予感めいたものがあって、確かに私はあの人が怖かったのだ。

 もつれそうになる舌で唾を飲みこんで、「あのね、」と必死に言いかけた言葉は―……頭の上にポン、と乗せられた大きな掌にぐしゃりと握りつぶされた。

「なんだよ、揉めてんのか?」
「キングスカラー先輩」

 デュースの視線が私の後ろに注がれている。彼の眉がきゅっと寄せられて、声がすこしだけ尖った。

「僕たち、いま大事な話をしているんです。すみませんが後にしていただけませんか」
「大事な話、ねぇ。それなら俺にも聞かせろよ、仲間外れは寂しいだろ?」
「これは僕と彼女の話です、あなたには関係ない。それに、先輩と僕はダチじゃないので!」

 キッパリと言い切ったデュースに対して低い笑い声が上から降ってくる。グルグルと鳴る喉の音は機嫌の良い猫を連想させるけれど、音もなく私の太腿に絡み付いた尻尾の先はゆらゆらと獲物を狙う蛇のように揺れていた。

 ああ……。とうとう瞼を閉じた私の名前をデュースが呼ぶ。頭の上に乗ったままの手は優しく私の髪をすいて、耳朶を擽ってくる。分かっているだろ、と言われている気がした。ぱっと目を開けて、デュースへ笑みを見せる。

「ごめんデュース、ほんとに何でもないの! ちょっと夏バテ気味だから見学させてもらってるだけだよ、心配してくれてありがとう」
「……監督生、」
「あ、ほらバルガス先生が呼んでるみたい。次デュースの番なんじゃない? ここから応援してるから、頑張ってね!」

 物言いたげなデュースに笑顔のまま手を振ると綺麗な青い瞳が傷ついたように揺れた。唇を噛み締めたデュースが私の後ろを睨んで、そのままプールの方へ踵を返す。

 ……ああ、行ってしまう。

 遠くなる白い背中をぼうっと眺めていると後ろから伸びてきた腕に手を取られた。

「いつまで振ってんだ? そんなにあの生意気な坊主と大事な話とやらが出来なかったのが心残りなのか」
「レオナさん、」
「本当のことを言ってやれば良かっただろ。この肌を、見せられないだけだって」

 ぬるい息とともに低い笑い声が耳に吹き込まれてぞくりと震えてしまう。私の手を抑えている手とは別の手が私の顎から喉をゆっくりと辿って、指先がシャツの襟をぐいっと引っ掛けた。第一ボタンがぎちりと鳴る音が、喉が絞まる感触よりも生々しく恐ろしい。

「やだ、やめてください……」

 力で勝てるはずもなく、私に出来ることは懇願することだけだった。頭上を振り仰ぐと私を写した翡翠色の瞳が弓なりに細くなって、くるりと身体を反転させられたかと思うと壁に押し付けられる。

「じゃあイイコにしてろよ。そうしたらいつものように、ご褒美だけお前にくれてやる」
「っ、」

 間近で見る翡翠色にはぎらぎらとした欲が浮いていた。太陽よりもずっと残酷な熱が私を蹂躙して、何もかも奪い尽くすのだろうと予感させる、そんな瞳。

 なんで、いつから、こんな風になったんだろう。

 馬鹿みたいに暢気な感傷が頭を過る。狂っている、間違いなくそう思うのに私の身体からは力が抜けていた。

「そうだ、それでいい」

 諦めたのか、受け入れたのか。自分でも分からないまま瞼を閉じた私を、日陰よりもずっと濃い影が覆い尽くした。

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