小説 | ナノ

逆行Lion

 鏡舎の中央に置かれた光り輝く鏡には、どこかで見たことがあるような景色が映っていた。

 取り立てて特徴のない家と自動車、街道沿いに並ぶ店、そこを歩く人々。俺たちのように獣の耳や尻尾がある奴らこそ見当たらないが、それでもそこは俺たちの世界とさして変わらないように見えた。
 あいつの故郷、あいつを育んだ世界。幾度か思い出話を聞いたことはあったが、なんとなく想像していた通りのつまらなそうな世界だった。

 1年ぶりの故郷を映す鏡を覗きこむ女の顔はここからでは見えない。出会った頃よりも伸びた黒髪がうつむきがちな横顔を隠していた。女を囲むように立った1年坊主どもがなにかをしきりに話しかけている。最後の別れの挨拶、といったところだろうか。思いつくまま好き勝手に口を開く馬鹿どもの声に紛れて、俺の耳ですら律儀に答えているはずの女の声が拾えなかった。

「アンタは混ざりに行かないの?」
「ハッ、なんで俺が」

 隣に並んだ影に顔を向けないまま笑い飛ばすと、肩をすくめるように気配が動く。

「ふぅん、そう。彼女のこと、さっきからずっと見てるからなにか言いたいことでもあるんじゃないかと思ったんだけど」
「ねぇよ、そんなもん」
「薄情ね。祝福の言葉でもかけてあげればいいじゃない」
「祝福だと? くだらねえ、俺の流儀は去る者追わず、だ。去っていく奴に情を向けてなんになる、損をするだけだろ」
「……アンタって、」

 さっきからなんなんだ。やけに絡んでくるヴィルに苛立ちを感じながら視線だけで横を見る。驚いたように見開かれた目が一瞬だけ憐れむような眼差しになって、それもすぐに逸らされた。

「ま、アタシには関係ないけど。後悔なんて無様な真似、するんじゃないわよ」

 する訳ねーだろ、と反論する前にひらりと手を振ったヴィルはそのまま一直線に女のもとへ歩いていく。いつの間にか女を囲む輪の顔ぶれにはハーツラビュルの寮長を始め他学年の男どもまで入り混じっていて、あの黒髪は人だかりに埋もれてすっかり見えなくなっていた。

 ……まったく、ご大層な人気者ぶりだ。なんとなく辟易して頭を掻き、もたれていた柱から背を離す。

 もともとここに来たのはあの女の帰る異世界とやらに興味があったからだ。遠目からでもそれが確認できた今、これ以上ここに居座る理由は無かった。ヴィルのように絡まれるのもうぜえ。サバナクローに戻る為に自寮へ続く鏡の前に立ち、慣れた手順を踏む。その最後、光る鏡へ向けて手を伸ばしながらなんとなく後ろを振り返った。だれかに、名前を呼ばれたような気がしたのだ。

 振り返った先で、男どもの間から覗く黒瞳とそのとき確かに視線が絡んだ。きゅっと噛み締められた赤い唇がほどけて、ちいさくなにかを呟く。

「レオナさん、わたしは、」

 その言葉には続きがあるはずだった。咄嗟に身体を動かしたが鏡の魔法は既に発動している。

 なにもかもが、手遅れだった。

 唇の動きを最後まで読みとるよりも早く俺は鏡に吸い込まれて、再び鏡舎へ引き返した時には女は元の世界に戻っていた。
 そうして、あの女とはそれっきり。言葉の続きを確かめる術もない。

 もう、何十年も昔の古ぼけた記憶だ。


*****


 目が霞むことが増えて、聞こえない音が多くなった。匂いを嗅ぎわけることが難しくなり、些細な味の違いが分からなくなった。体力、魔法力の衰えを感じてー……血を吐いてようやく、己の死期を悟った。

 医者からは適切な治療を受ければ完治とまでいかなくても十分な延命は出来ると言われたが、定められた死を伸ばすことなんかに俺が価値を見出すはずもない。学園を卒業しても俺にくっついてそのまま王宮へ就職したラギーはどこから嗅ぎつけたのか、医者の口を割って俺の病態を知ったらしいが、いくら説得されようと俺の意志が変わることはなかった。

 そのうちに諦めた顔で俺の後継育成に力を入れるようになったラギーは、それでも時折恨めしそうな目で俺を見てくるが知ったことではない。兄貴が死んでチェカに王位が継承されたのと同じように、俺も宰相の位を誰かにくれてやる時期が来ただけのことだ。

 医療の発達した現代でこの歳で死ぬのは若い分類に入るのかもしれないが、そう短くも、長くもない生だった。特別な感慨もない。ただ、ああ、死ぬのかと。それだけを思って真っ先に考えたのは、仕事の引き継ぎや身辺の整理でもなく、懐かしい女のことだった。

 たったの一年学園生活を共にしただけの女だ。365日をすぐ傍で過ごすような間柄だった訳でもない。寮も学年も違う、生まれた世界すら異なる奇妙な草食動物だった。俺が見てきたなかでも飛びぬけて滅茶苦茶だった入学式から季節がちょうど一巡したあの日、元の世界へ戻った女はあの頃学園に在籍して関わりを持った野郎どもの記憶にそれぞれ強く印象づいている。なにかの折に顔を合わせると草食動物の話になることも珍しくなかった。

 懐かしい、ただ懐かしいだけの女。

 俺にとってもそれだけの女だったなら、きっと思い出すことすらなかった。埃だらけのガラクタ入れのなかで女は静かに眠り続けていただろう。
 けれどそうではなかったから、俺はこの国を発つと決めた。なにをする訳でもない、目標や夢なんて欠片も持ち合わせていない最後の旅だ。


 秘密裏に身辺整理を済ませたあと、ようやくチェカに離別を告げた。

「旅に出る。俺はもう、この国には戻らない」

 言うべきことはそれだけだった。唐突な言葉に聞こえただろう俺の言葉に目を丸くしたチェカの顔はやっぱり兄貴によく似ている。

 ラギーには反対されたが、この時までずっとチェカには病を患っていることを隠し通してきた。散々手を焼かされた意趣返しのような意味合いもなくはないが、知られれば面倒なことになるのは間違いなかったからだ。

 案の定、幼い頃のように狼狽した様子で考え直すように強く求められたが今更改めるような殊勝さは持ち合わせていない。俺の名を呼ぶ声に背を向けて執務室を出ると、そのまま王宮の出口へ向かった。チェカは追いかけて来ない。事前に仕込んでおいた後継や兵どもがうまく足止めしているのだろう。

 人生のほとんどをここで過ごしてきたが、これで最後になるというのにやはり特別な感慨はなかった。通り過ぎて行く廊下や部屋の扉、頭を下げてくる廷臣の顔ぶれを眺めながら歩みを進める。広大な敷地の外れまで来れば見るべきものはすでになく、見送りは不要と伝えていたために人の姿すらない、……そのはずだった。

「レオナさん、本当に行くんスね」
「ラギー……てめぇ、仕事はどうした」
「ししっ、レオナさんと違ってその辺りは抜かりないッスよ」

 門の脇に寄りかかりながらあの頃と同じ笑みを見せるラギーに溜息を吐く。

「見送りは要らねえって言っただろ」
「禁止とは言われなかったんで」
「ああクソ、同じだろうが。口の減らねえ奴だな」

 がりがりと頭を掻く俺にラギーは飄々とした態度を崩さない。どうしてこうも癖のある奴らばかり俺の周りに集まるんだ。
 ……まあ、面白がって傍に置いていたのは俺だが。

 引く気のないラギーに舌打ちをすると、青みがかった薄い色の瞳が俺を真っ直ぐに見た。その目元に刻まれたシワが過ぎ去った年月を教えてくる。

「レオナさん、俺、屋敷を増やしたんスよ」
「は?」
「まあ、すっげえ辺鄙な場所なんで早々行くことは無いですし、ぶっちゃけほとんど廃墟なんですけど。これからレオナさんは勝手気ままな無職になるんですし、俺の代わりに掃除しといてくれると助かります。ってわけで、はいドーゾ!」
「ちょ、オイ!」

 無理矢理手をとられて押しつけられたのはその屋敷とやらの鍵らしかった。ふざけるな、と怒鳴ろうとして、その鍵の形状に既視感を覚えた。

「これは、」
「ああ、言い忘れてました。懐かしのオンボロ寮の鍵ッス。あの子以降、寮に人が入ることはありませんでしたから、とうとうゴーストすらいなくなった寮を取り壊すことになったんスよ。でもまあ、あの寮って結構モダンな造りじゃないスか。ただ壊すぐらいなら改築するとか、保存するとか、まあそういう方向で考えた方が有益だろって提案して、結果俺が責任もってお買い上げーって感じになりました」
「……おまえ馬鹿か?」
「うっせーッス。レオナさんに言われたくねえわ」

 心底心外そうな顔を見せるラギーを鼻で笑いながら託された鍵を懐に突っ込む。馬鹿だ馬鹿だ、と思ってはいたが予想以上のバカだった。

「馬鹿を部下に持つと上が苦労するな。仕方ねえからテキトーに片付けといてやる」
「頼んどいてなんでスけど、レオナさんに片付けとかとくに期待してないッス。ので、まあ、ゆっくり休んでください」
「俺に廃墟で寝ろって?」
「嫌なら片付けてください」

 バッサリと切り捨てられた言葉が愉快でぐるぐると喉が鳴る。低く笑う俺を見上げたラギーの瞳がほそまって、その視線がちらりと俺の懐に向かった。まるでそこに隠したものを見透かしているかのような目だ。事実、知られているのだろう。いつから気付かれていたのかは知らないが、考えていたよりも不快ではなかった。

「行ってらっしゃい、レオナさん」
「ああ。じゃあな、ラギー」

 いつものように返事をする。
 互いにこれが最後になると分かっていたが、俺たちの別れはこれで良かった。俺の足はよどみなく門を潜り抜けて、そのまま振り返ることなく王宮を後にした。


*****


 ギィ、と錆びついた門があげる抗議の声を聞き流して緩やかな階段を上る。見上げた先の館は記憶以上にオンボロになっていた。本当に長い間人が住み着かなかった寮だ、こうして今に至るまで形を残している方が奇跡的なのだと分かっていてもあの明るい笑い声は二度と戻らないのだと、そう突きつけられたような心地になる。

 いやに感傷的になる頭を振って扉を開けた。蝶番が立てる酷い音が耳障りだ。開けた拍子にパラパラと埃が落ちてきて、細い陽の光が穴の開いた床を照らす。
 清め、修繕、保存。適当にマジックペンを揮いながら中を歩いた。廊下、談話室、そのどれもにあの頃の面影を感じる。調度品の類は記憶通りの配置のままそこで長い時を重ねていたようだった。棚に飾られた写真立てを取り上げて分厚い埃を興味本位で払ってみると笑い合う男女と獣の姿が出てくる。

「―……、」

 言葉になり損ねた掠れた息が唇から漏れる。黒髪の女の笑い顔を指先で撫でて、結局、もとの通り棚へと戻した。

 誰の意図が働いたものかは分からないが、この寮は本当にあの頃のまま歳月だけを積み重ねているらしい。そうでなければこんな古い写真をいつまでも飾っているはずがない。談話室を抜けて階段を上る。一番奥の部屋の扉を迷いなく開けると、曇った鏡が鈍く俺の影を映した。窓から射し込む西陽が部屋に舞う埃をきらきらと輝かせている。予想通り、その部屋は記憶の面影を残しながら静かに朽ちて最後の時を待っているかのようだった。

 くん、と鼻を鳴らしてみても埃とカビの匂いしか感じ取ることは出来ない。片手に握ったままのマジックペンを揮わずに仕舞って窓を開けた。眩しいばかりの夕焼けとともに風が入り込んできて埃がさらに舞う。かるく咳きこみながら、それでももう魔法を使う気はなかった。

「あークソ、本当にただの廃墟だな」

 悪態を吐いても聞きとがめる人間はだれもいない。靴すら脱ぐことなく、俺の身体にはすこし窮屈な寝台に身を投げると聞いたことのない音を出しながら辛うじて受け止められた。くせえし息がしづらい、窮屈だし汚ねえ。なにもかも不満だらけの寝床だというのに離れようとも、綺麗にしようとも思わなかった。

 夕焼けの草原からこの寮まで真っ直ぐに歩いてきたが、いささか無理をし過ぎたのかもしれない。とろとろと込みあげてくる眠気に欠伸をしながら懐から布切れを取り出す。なんてことのない安物のハンカチは俺のものではない。ずっと昔、返すことすら忘れていたものだ。端にちいさく刻まれたイニシャルをなぞって、なんとなく鼻に押し当てた。すぅ、と吸ってみても残り香すらどこにも残ってはいない。当たり前だ、持ち主のところで過ごした時間よりも俺が持っていた時間の方がはるかに長いのだから。

 は、と笑いが出た。

「未練がましいな、最期まで」

 そう短くも、長くもない生だった。特別な感慨もない。後悔だってないのだ。
 たった一つの、未練を除いては。

「あの時おまえは、俺になにを言いたかったんだ?」

 ただそれだけのことが気になっていた。
 傾いた西陽が頬にあたる。その眩しさから逃れるように瞼を閉じると、乾いた眠気が意識の端をどこかへと浚っていく。もう、還っては来れないと知っていた。

『どうか、良い夢を』

 祈りの言葉を聞いた気がする。誰の言葉だったのかは分からない。
 その祈りに報いようと、最後に残った力であがくように布切れを握りしめた俺の姿をあの鏡だけが鈍く光りながら映していた。


*****


「っ、ひあああああ!!!」
「?!」

 耳をつんざく悲鳴に身体が勝手に跳ね起きた。やわらかな寝台に手をついて床に足をつけた途端、ぐらりと視界が揺れる。

 なんだ、なにが起きた?

 咄嗟に踏みとどまったが、なにかが圧倒的におかしかった。思わず額に手をあてると視界を遮る髪をついでに払う。鬱陶しい、そう思いかけてまた違和感がある。

「あ、あ……? なんだあ、レオナさんかあ」
「は、?」

 妙に気安い女の声に振り返って、目を見開いた。

 さらさらと揺れるやわらかそうな黒髪、クリーム色の肌、安心したように緩む黒瞳と赤い唇。そのすべてを忘れるはずもなかった。

「もう、ビックリさせないでくださいよ! 勝手に人のベッドで寝て……うわわ、シーツもぐちゃぐちゃだし、え! 靴のまま上がったんですか?! うわあ信じられない、替えのシーツあったかなあ」

 ぶつぶつと不満そうに文句を言いながらクローゼットを漁る女の後姿は寸分違わずあの頃と同じだった。すん、と鼻を鳴らすまでもなく、この部屋には懐かしい女の匂いが満ちている。

「おまえ、なんでここに……」
「は? なに言ってるんですか、寝ぼけてるんですか? ここは私の部屋なんですからいるのは当たり前です!」
「違う、おまえはとっくに、」

 魔法、いや幻覚か?

 そう疑って一番強力な解呪の魔法を唱えてみても目の前に立った女の怪訝そうな顔は変わらない。

「全く、ラギーさんが心配しますよ。それとも本気で体調が悪いんですか? なんだか顔色も悪いですし、」

 意味が分からない。なにがどうしてこうなっている、ここはどこだ、この女はなんだ?

 答えを探して部屋の中を意味もなく見渡すと、ふいに壁にかけられた鏡に視線が吸い込まれた。鈍く光る鏡には黒髪の女とこちらを呆然と見返す若い男―……あの頃の俺がいた。

 なにかがストンと腑に落ちて、言葉だけが勝手に舌先から転がり出る。

「時間が、戻っているのか……?」


*****


 俺の渡したものは大きなお節介だったと分かっているけれど、それでも、あの人のために祈らずにはいられなかった。

 遠くなる後姿を瞼に焼きつけて、地面に膝をつけて額づく。

 式典のときぐらいにしか披露することのないこの国の最敬礼だ。王を迎え、送り出すときに行う礼。
 俺にとっては紛れもなく、あの人こそが王だった。懐かしいあの学園で偉そうにふんぞり返っていた頃からそうだったんだ。頭がキレるくせに卑怯者で、怠惰なくせに優しさを忘れられない王様。

 その生涯をかけてやるべきことをやりきって、たった一つだけその心に残ったものの為にあの人は旅に出た。

 見た目よりもずっとあの人の身体にはガタが来ている。いつ命の灯が消えるかも分からない。目的地に辿りつけるかも定かではない。

 だからこそ、その歩みを止めることはだれもしてはならない。
 あの人が望んだ安らかな眠りを妨げることはだれであっても許してはならない。

「どうか、良い夢を見れますように」

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