「あなたがもとの世界へ帰る方法が見つかりましたよ」
率直に告げた私の言葉を、彼女はずっと待ちわびていたはずだった。
「は、」
なにを言われたのかわからない。
そんな様子で見開かれた瞳はただ揺れるばかりで、喜びに紅潮すべき頬は痙攣するように引き攣った。どんな面倒事が降ってくるやらと言わんばかりにへの字に結ばれていた口の端が、しばらくの沈黙のあと中途半端に緩む。
笑おうとして失敗した、見るも無残な微笑みを浮かべて。
「じょうだん、ですか?」
「イヤですねー! 流石にそんな悪趣味じゃありませんよ、私。なんせ優しいので!」
デスクの上のソーサーからカップを摘み上げて口元へ運ぶと瑞々しい果実のような豊かな香りが鼻孔を満たした。すき通った琥珀色に口をつけると喉元から胃の腑までぽかぽかと温めてくれる。紅茶特有の渋みや雑味はなく、桃に似たほのかな甘みとスッキリとした後味がとーってもエクセレント。
うーん、さすがサムくんオススメ薔薇の王国ロイヤル御用達茶葉! 一味も二味も違いますねえ。
くふくふ至福気分に浸っている間も、ふかふかソファに座っている彼女の顔は強張ったままだった。まさかソファの座り心地が気になっているわけでも、おすそ分けで淹れてあげた紅茶が嫌いなわけでもないだろう。
それなのに彼女は微動だにせず、置物のようにただ呆然としている。
「嬉しくないんですか?」
私がこーんなに苦労して探し出してあげたというのに。
カップをソーサーに戻しながら尋ねると、彼女のまぶたがぎこちなく動いた。
「い、え。うれしい、うれしいです。ただ、突然だったから驚いてしまって……」
「そうですか、それは良かった! まあね、こういったことはそもそも都合よく予兆や前兆なんて起こるものじゃありませんから。ユウくんだって突然ツイステッドワンダーランドに現れたんじゃありませんか。それなら、帰る時だって突然なのは当然です」
「突然、帰る?」
「はい、そうですよ。あなたが帰れる日は一週間後」
「っ一週間後!?」
「あー!!! 私の紅茶がッ!!」
顔色を変えて勢いよく立ち上がった彼女の足が応接机をガツンと蹴飛ばした。そのせいで二つのカップの中身が派手にブチまけられてしまう。まだ全然飲んでいなかったのに!
なんてことを、とヨヨヨと泣く私にユウくんはおざなりに「すみません」と口にしたが至極どうでもよさそうなのがヒシヒシと伝わってきた。ホントこの茶葉高いんですからね! せっかくユウくんにも出してあげたのに! どうでもよくないんですけど!
「なんで一週間後なんですか?」
「魔力のないあなたに説明したところで理解できるとは思えませんが」
ぷんすこぷんすこ! フンッと鼻を鳴らしながらこぼれた紅茶を魔法で片付け、ついでに引き寄せたティー・ポットから新しい紅茶を注ぐ。もちろん私の分だけですが、なにか。
「うわめんどくさ……」
「ちょっと! 聞こえてますよ!」
まあったく図太い子!! キィーッと怒る私をユウくんは「それよりも」と言って蹴飛ばしてしまう。
「学園長、本当にあと一週間しかないんですか」
いつも通りのようでいて、その声が最初からずっと震えていることには気付いていた。
「ええ、その通りです。あなたが帰りたいと望むなら今日からちょうど一週間後のその日に帰らなければならない。このタイミングを逃せば、あなたはもう二度と帰れないかもしれません。それほど条件がピタリと重なった日は百年先にもないんですよ」
「……そう、ですか」
それ以外の言葉を知らないかのように、彼女はもう一度「そうですか」と口にした。鴉の目から見たって、喜んでいるようには到底見えない。
そのうちストンと身体の力が抜けたようにソファへ戻った彼女は萎びた花のように俯いてしまった。流れた黒髪が目元を覆い隠して、泣いているのか笑っているのかさえ分からなくさせる。
……湿っぽいのは苦手なんですけどねえ。この状態の彼女にさらに追い討ちをかけなければいけないとは、なんとも心が痛みます。私、優しいので。
「あユウくん? 実はお伝えしなければいけないことが、もう一つありまして」
のろのろと顔をあげた彼女は、意外なことに泣いてはいなかった。ぼうっとした眼差しがゆっくりと仮面を捉えたことを悟って、こちらもできる限りやわらかく、小鳥の歌声のように軽やかに聞こえる声音で「確実な話ではないんですけどね」と前置く。
「あなたがもとの世界に帰ったら、きっとこの世界のことをなにもかも忘れてしまうはずです」
「どうやって記憶を失うのかは分かりません。もとの世界に帰ったらただちにすべて忘れてしまうのか、徐々に忘れてしまうのか。いずれにしても、夢のなかの出来事をいつまでも記憶に留めておけないのと同じように、きっとあなたはすべてを忘れてしまう」
「もちろん、根拠もなくこんなことを言っているわけじゃありませんよ。異界から戻ってきた人物に関する文献にはどれも異界で過ごした記憶の喪失、という症例が記されていました。ま、つまりあなたの世界風に言いますと、『行きはよいよい、帰りは怖い』でしたっけ? どの時代も帰るのって大変なんですねえ。ああなんて可哀想なんでしょう!」
「それでね、ユウくん」
「ここで過ごしたすべての記憶を失うとしても。それでも、あなたはもとの世界に帰りたいですか?」