小説 | ナノ

01

「そのネックレス、綺麗だね」

 そう言ってくれたのは友人に誘われて行ったサークルの新歓コンパで、たまたま向かいの席に座っていただけの知らない女の子だった。酒精のせいかほんのりと赤らんだ頬とは対照的な切れ長の黒瞳が印象的で、声を張り上げている風ではないのに騒がしい居酒屋のなかであっても彼女の声は不思議とよく通る。

「あ、ありがとうございます」

 場の雰囲気に馴染んでいる様子といい、先輩だろうか。前触れなく褒められたことにドキドキしてしまって、お礼だけをなんとか絞り出した私に彼女は屈託なく笑った。赤い口紅で綺麗に縁取られた唇から白い歯が見え隠れするほどの、取り繕ったところのない自然な笑みだった。

「ああ、急にごめんね。ネックレスに付いてる石……宝石? が綺麗だなって思ってさ。照明に当たると虹みたいに色を変えるんだね。なんとなく真珠っぽくも見えるけど、なんていう名前の石なの?」

 興味津々、といった様子で瞳を輝かせて尋ねてくる彼女は懐っこい猫のようだ。突然褒められて驚いたけれど、どうやらお世辞で言ったわけでも、会話のダシにされたわけでもないらしい。
 こんなにワクワク聞かれているのだし答えてあげたいところだけど……どう返事をしたものか。考えながら、いつもの癖で石を撫でる。涙型にカットされた小指の爪ほどの大きさの石が指の間でやわらかく色を変えた。

 この煌めきを彼女は虹と喩えてくれたが、私には古い硝子の欠片のように見えた。

 今にも砕けて粉々になってしまいそうな、夏の終わりの蛍のように儚い光。

「あれ、もしかして聞いちゃまずかった?」

 返事を忘れてつい石を眺めてしまっていた。
 その声でハッと我に返ってあわてて顔をあげると、不思議そうな黒瞳と目が合う。なんて言おう、とその瞬間も考えそうになったけれど、私が口にできる答えは結局のところ一つしかない。

「いえ! その、名前はわからないんです」
「そうなの? じゃあ買ったお店とかは?」
「それもわからなくて……」

 「ごめんなさい」と謝ると彼女は残念そうに唇を尖らせた。よほど気に入ってくれたらしい。

「そっかー、綺麗だから私も欲しいと思ったんだけど。忘れちゃったなら仕方ないよね」

 ウンウンと一人納得したように頷く彼女に合わせるように曖昧に口元を緩めた。忘れてしまった、というのはその通りなのだ。

 高校一年生の秋のこと、私の記憶には一週間分の空白がある。

 虫に食われたかのようにぽっかりと抜け落ちたその期間をどう過ごしていたのか、私はおろか両親も友人もだれも知らない。いつものように就寝の挨拶をして自室に行ったはずの私は翌朝には部屋からいなくなっていて、帰ってきたのは一週間後のことだったという。

 帰ってきたと言っても、気付いたら私は自分のベッドでただ眠っていただけなんだけど。
 いなくなる前と同じようにお気に入りのパジャマを着て、いつものようにベッドで眠っていたのだ。家にいた両親に気付かれることなく。

 私が帰ってきたその日の騒ぎはよく覚えている。
 誰かの叫び声に飛び起きた直後、泣き顔のお母さんにぎゅうぎゅうキツく抱きしめられて、騒ぎ声に慌てた様子で飛び込んできたお父さんも、わけが分からなくて困惑している私を見て珍しく泣いたから。

 どうしていなくなったのか、どこにいたのか、どうやって戻ってきたのか。だれにどれだけ聞かれても覚えていることはなに一つなかった。
 私はいつものように眠りについて、いつものように起きた。そうしたら一週間経っていた。

 そんな感覚でしかなかった。

 だから地方新聞の小さな記事に『現代の神隠し』だなんて胡散臭い記事を勝手に出された時も、怒る両親や周囲をよそに私はどこか他人事のように受け止めていた。

 それでも、なんとなくだけれど私は確かにどこかへ行っていたんだ、と思えるのはこのネックレスのせいかもしれない。
 だれかに贈られた覚えも、買った覚えもないこのネックレスを、私は何故か固くかたく握りしめていたから。

「じゃあさ」

 赤い液体で満たされたカクテルグラスを細い手が持ち上げる。たぷりと揺れた液体の底へ、丸いさくらんぼが縁から滑り落ちて沈んでいった。

「名前のない石と、その出会いに! 乾杯でもしよっか」

 うふふ、と赤い唇がはしゃぐように笑い声をあげる。見るからにご機嫌そうだ。

 ……この人はもしかしたら、それほど顔に出ていないだけで結構酔っているのかもしれない。

 そう思いながらも彼女の優しさが嬉しくて、私も烏龍茶が入ったグラスを持ち上げる。腕を伸ばして互いのグラスにぶつけると、カツンと涼やかな音が鳴って、すぐに周囲のざわめきに呑みこまれた。





 そんなこともあったなあ、と思い出したのは合法的にお酒を飲めるようになってしばらくした頃だった。

 スーパーで食材を買うついでに気が向いて缶チューハイを眺めていたら、一際鮮やかな赤いラベルに目が留まった。さくらんぼと一緒に描かれた気が抜けるようなゆるい猫のイラストに既視感を覚えて一本だけ買い物カゴに放りこみ、そのままピッピッとレジにてお会計。重たいビニール袋がガサガサと音を立てるのを聞きながら夕暮れに沈む帰路をのんびり歩いて、傾いた陽の光のまぶしさにぎゅっと目をつむった、ら。

 明るいような暗いような闇のなかで、急にポンっとその時のことを思い出したのだ。

「なんでいま?」

 このタイミング?

 記憶の蓋が突然開くことはよくあることではあるけれど、それにしたっていきなりだなあ。一年、いや二年前だろうか。懐かしいと振り返るほど昔のことでもなく思い入れも薄いのに、完全に忘れ去るにはすこし惜しいと思うようなひと時だった。

 とはいえ、彼女とはあのコンパの夜を最後に言葉を交わしていない。
 私があのサークルに所属しなかったせいもあるし、やっぱり他学部の先輩だったらしい彼女とは接点を持ちようがなかった。だから、それっきり。彼女はとっくに私のことなど忘れているだろう。

 手持ち無沙汰でなんとなく、自由な方の手で首元で揺れる石を撫でる。この石のことを綺麗だと言ってくれた人のことを忘れるのは、なんとなく嫌だと思ったのだ。

 人がいないのをいいことに、はあ、とため息を吐く。

 失踪から戻ってしばらくして、行方不明だった期間の手がかりになるかもと警察に取り上げられたネックレスは結局産地不明・材質不明という不気味な結果とともに手元に戻ってきた。
 気味が悪い、捨てなさいと両親に言われても、大学進学を機に実家を出るまで小さなお菓子の缶に仕舞って隠し通した。

 それぐらい、私はこの石に執着している。それがどういう感情によるものなのか、うまく言葉に出来ないのに。

「私はなにを忘れてるのかな」

 そもそも、思い出したいんだろうか。

 それすらもわからないまま、長く伸びた影のようにどこまでもまとわりつく感傷を振り切ろうと足を進めた。その刹那、

「っユウ!!!」
「うわっ?!」

 だれかに勢いよく腕を掴まれて、ぐいっと引っ張られた。だれもいないと油断しきっていたせいもあって腕にかかった力に逆らえず、そのまま地面へ倒れこみそうになる。痛みを覚悟して咄嗟に目をつぶったけれど、感じた衝撃は予想よりもずっとやわらかくてあたたかいものだった。

 ……やわらかくて、あたたかい?

 ん? と不思議に思っておそるおそる目を開けると、黄金に光るなにかが、真っ先に視界に飛びこんでくる。西日を透かしてきらきらと輝いて見えたそれはだれかの髪のようだった。

 事態に追いつけずに硬直していると、「っぶね〜……」と聞き覚えのない声がすぐそばから聞こえる。釣られて視線を動かすと鼻先がこすれそうなほどの近さに白い肌があってー……それから、彼の後ろに見える茜雲よりもなお赤い、つややかな果実のような瞳と目が合った。

 私は、この瞳を知っている。

 それはほとんど確信だった。無意識にはくりと開いた唇のなかで舌がもつれるように動く。

「   」

 だけど、どうにか押し出したはずの声は形にならなくて。先の潰れた紙飛行機のように無様に地面へ落下して、黄昏色の闇のなかで見失ってしまった。

 ああ、どうしよう。失くしちゃいけないものだったのに。

「……なあ、大丈夫? うまくキャッチしたつもりだけど、どっか痛いとこでもある?」
「え、?」
「なんか、泣きそうだからさ」

 そう言って眉を寄せた彼の方こそ勝気に跳ねた眦が歪んでいて、いまにも泣いてしまいそうに見えた。

 やわらかそうな紅茶色の髪、兎のように赤い瞳、私よりもずっと白い肌。彫りの深い顔立ちは外国人そのもので端正だ。一度見たらきっと忘れられない。そう思うからこそ、知り合いではないという確信が深まる。

 私の記憶をひっくり返したってどこにも彼の姿は見当たらないのに。

 どうして、どうしてそんな、切なくなるほどの愛おしさが滲んだ目で私を見るのだろう。

 痛いところなんてなかったのに、胸の奥がぎゅうと痛くて。

「私たち、どこかで会ったことある?」

 気付くとそんな問いかけが口をついていた。

 ろくに返事をしないで問いに問いを重ねてしまったせいか、さくらんぼのように赤い瞳が驚いたように丸くなる。その変化を間近で見て、サアッと後悔と羞恥が混ぜこぜになって足下から湧き上がった。一昔前のナンパみたいな台詞だ、と思い至ったのだ。

 うわあ、変な女って思われたらどうしよう。違うの、なんとなくそう思ったっていうか…いやそれますますヤバい人だ! どうしよう!?

 一人で焦ってうまい言い訳をひねり出そうと必死になっていると、ふはっ、と空気が弾けるような音で我にかえった。気のせいかぷるぷると、細かな揺れが私の身体にも伝わってくる。

 あれ、そういえば私もしかして彼に抱きしめられてる……? ものすごく今さらな気付きを得た私がいつの間にか下がっていた顔をあげると、予想通り彼が笑っていた。破顔一笑。そんな風に朗らかに笑う横顔には先ほどまで影を落としていた寂しさの名残はどこにも見当たらない。

「っあ〜……笑った笑った」

 やがて笑いを収めた彼は口先だけでなにかを呟いた。すぐそこに彼の口元があるというのに私が聞き取れないほど小さく、ぽそりと。
 その言葉を聞き返すより前に、悪戯っぽく笑った彼が片目をつぶってみせる。パチン、と音がしそうなぐらい綺麗なウィンクだった。

「オネーサン、それもしかしてナンパ?」
「ち、違います!!!!」

 とっさに全力で否定するとまたまた〜と言わんばかりのニヤついた笑みが返ってくる。さっきまでの彼と別人? と一瞬馬鹿な考えが過ぎるほど急にチャラつきだすものだから温度差についていけない。
 もしかしてこっちが素なの? 目を白黒させる私をよそに彼は「なぁんだ」と大げさに肩をすくめた。

「オレに一目惚れしちゃったのかと思ったんだけど」
「っ一目惚れなんてしませんから!」
「うは、必死じゃん」

 「傷つく〜」と言うわりにけらけら笑う彼の吐息が髪に触れてこそばゆい。

 っていうか私はいつまでもたれかかってるんだ…!? あまりにも自然に身体を寄せていたせいでさほど意識していなかったけれど、そういえばここは道のど真ん中だ。だれが通ってもおかしくないところで知らない人とこんなにくっついてるなんて恥ずかしすぎる。

「あの、受けとめてもらってありがとうございました。だからその、」
「ん?」
「いえ、あの、そろそろ離してもらいたいんですけど……!」

 もぞもぞと身動ぎながらお願いすると、ようやく気付いてくれたらしい彼が「ああ」と頷いた。よかった、とホッとした瞬間、腰に回っていた腕がギュッと締めつけるように動いて、彼と私の間にあったわずかな隙間が埋まってしまう。え、なぜ。

「離してって言ったんですけど!?」
「ハグぐらい減るもんじゃないしいーじゃん。それにオレ、お礼は現物で受け取りたい派だし」
「いやそもそもあなたが私を引っ張ったからこうなってるんでしょ!」
「チッ」

 舌打ち!?
 あんまりな態度に怯えるよりも、はあ〜〜? という苛立ちが湧いてきて、絶対仕返ししてやる、と決心する。

 私が犬や猫だったらウーウー威嚇しているところだが、私の不機嫌さに気付いているはずの彼は離れるどころかますます距離を縮めて、勝手に首筋に顔をうずめてしまった。明るい茶色の髪がふわふわと耳朶をくすぐる感触にぞわりと鳥肌が立つ。顔がいいからってなんでも許されると思うなよ。

「っちょっと!」
「ごめん。……三秒だけ、お願いだから」

 警察呼びますよ、と半ば本気で抵抗しようとした言葉が、切羽詰まったような声に塞がれてしまう。腰に回された腕はいつまでもそこに留まったまま力だけが篭っていて、気軽なハグだとか、下心を感じるようなものではなかった。

 まるで、私という存在を確かめるような、縋るような、そんな抱擁。

 直前までのチャラさが嘘のように必死に抱きしめてくるから。

 ガッチリ締められて抜け出せないし、となんだかんだ理由をつけて、うっすらと星が見え始めた暮れかけの空を見上げて彼が言う三秒が過ぎ去るのを待つことにした。


*****



「で、落ち着きました?」
「あー……うん。てかお前もさ、まんざらでもなかったり?」
「本気で言ってます?」
「ハイ、すみませんでしたッ!」

 よろしい。
 言外に込めた感情を正しく読みとってくれたらしい彼の謝罪を笑顔で受け取ると、おっきなため息を吐かれた。「リョウチョウよりこえ〜……」ボソッと聞こえたつぶやきは無視して、足元に散らばってしまっていた買い物袋の点検を終えて立ち上がる。

 よし、拾い残しはなし。ただし、地面に落とした衝撃で卵がいくつか割れてしまっていたのが結構ショックだった。本日一番の目玉商品だったのに。

 チラッ、とすこし離れたところに立ったままなにをするでもない(彼の名誉のために付け足しておくと、散らばった食品を集める手伝いはしてくれた)彼を見ると、懐っこいスマイルを返される。

 ……こんなイケメンに1パック98円の卵が割れたので弁償してください、とかケチくさいこと言えない……。仕方ない、諦めるしか……!

 あーあ、と思いながらも己を納得させると、日本人の習慣に従って意味もなくペコリと会釈してそのまま彼の前を通り過ぎる。

 正しくは、過ぎようとした。

「っいやいやいや! 待てって!」

 二歩目までは順調だったのに、三歩目を踏み出すと同時に買い物袋を下げた手とは逆の腕を掴まれて引き止められる。なんとなくそんな気はしていたけれど、どうやらまだ私に用があるらしい。早く帰りたいんだけど、という感情を露骨に顔に出しながら嫌々振り返った。

「なんなんですか」
「っあ〜……だから、その、」
「なるべく手短にお願いしますね」

 毎週楽しみにしてるドラマが私を待っているので。
 ギリギリの優しさで理由は飲みこんだが、早くして〜という圧をこめて彼を見上げる。さっきまでペラペラと動いていたはずの唇は言いづらそうにもごもごと動いていたけれど、やがて覚悟を決めたのか赤い瞳が真剣な眼差しに変わった。

「おまえん家に泊めて欲しいんだけど」
「……は? だれを?」
「オレ」
「却下」

 間髪入れずに却下である。考えるまでもない。

「話しはそれで終わりですね。それじゃあさようなら」
「いや即答ってヒドくね? もうちょっと理由を聞くとかさ、なんか考えてくれてもいいじゃん!」
「いえ、理由を聞いたところで見ず知らずの方を泊めるとか無理なので。ほかにあたってください」

 逆になんで私に聞いた? 知人でもない、行きずりの他人ですけど?

 イライラとはするけど怒るほどでもない。えーとなんだっけ……バックパッカー? みたいな? そんな感じなのかもしれない。日本語ペラペラだから忘れてたけど、そういえば彼ってどう見ても外国人だし。

 テキトーなあたりを付けつつも曖昧に濁さずキッパリ断ると、髪と同じ色の眉毛が力なく下がった。

「……どうしてもダメ?」

 ……イケメンてずるい……ていうかこれは自分の顔の良さを自覚してる……。

 そう分かっていても思わず手助けしたくなるような、雨に濡れた子犬のごとき弱った表情で縋るように見つめられると、感じる必要のない罪悪感がチクチクと心を刺してくる。
 ……まあ、そうはいっても断るんですけど。だって私一人暮らしだし、流石にリスクが大きすぎる。

「ダメです。知らない人を泊めるなんて出来ないんですってば。たしか駅前にホテルがあったはずですからこの道を戻って、」
「ー……『知らない人』、ね」
「え?」

 妙にざらついた声が私の言葉を切り取って呟く。気のせいか、一瞬傷ついたような表情を見せた彼はすぐに取り成すように笑った。

「オッケー、しつこくしてごめんな。オレさあ、めっちゃ情けないんだけど財布スられちゃったから金なくて困ってたんだよね。でも女の子に泊めてくれ〜! なんて急に無理言って怖かったっしょ。ほんとごめん!」
「え、あ、はい……」

 彼のあっさりとした切り替えの早さについていけないまま曖昧に頷くと、「許してくれんの? やさしー」と軽やかに笑う。
 え、待って? いま財布スられたって言った?

「ちょ、」
「でさ、これで最後なんだけどこの辺りって公園とかあったりする? ベンチとかあるようなの」
「こ、公園? えっと、それならそこの道を行けばすぐのとこにありますけど……」
「ッシ、よかった〜なんとかなりそうだわ。いろいろあんがとね、オネーサン」

 「もう暗くなるし、気をつけて帰れよ〜」と言った彼がバイバイと手を振ってくる。口を挟む間も無くなごやかに見送られて、私もぎこちなく手を振り返して歩き出した。

 スーパーを出てからだいぶ経ってしまったせいか、あたりはすっかり群青色に染め変えられて、切れかけの電燈がジジジと微かな音を立てながら星の瞬きのように明滅している。首筋を撫でる風は夜の匂いを連れてきて、すこし肌寒い。季節の変わり目を肌で感じながらも、頭のなかは彼のことでいっぱいだった。

 泣きそうな顔、切ない瞳、両腕の力強さとぬくもり、楽しそうな笑い声。

 ぜんぶ知らない。
 『知らない人』、だ。それなのに、どうしてこんなに気になるんだろう。

 首元で揺れるちいさな石を撫でてみても落ちつかなくて。
 そろりと後ろを振り返ってみたけれど、影すらも呑みこむ青い闇がポツンと佇むばかりで、彼の姿はもうどこにも見つからなかった。


*****


 晩ご飯を作って、ドラマを観ながら食べて、お風呂に入って。合間にSNSをチェックしたりメッセージに返信したりして過ごしていると時間はあっという間に経ってしまう。
 ちょっと早いけど寝ようかな〜なんて考えた矢先、パラパラとなにかが当たるような音が外から聞こえてうっかりカーテンをめくってしまった。

「……雨」

 そういえば夜半から降り出すって言ってたっけ、と天気予報を思い出しながら、じっと窓の外を眺めてしまう。風に煽られながら降り出した雨は豪雨とは呼ばないまでも、それなりの激しさを伴っているように見えた。
 傘がなかったらちょっと外に出ただけでずぶ濡れになってしまいそうな、容赦無く体の熱を奪って冷たくしてしまう、そんな雨。

 脳裏に一瞬、やわらかそうな茶髪と赤い瞳が浮かんであわてて首を振る。

「いやいやいや、さすがに交番とか行ってるでしょ」
 
 それか親切な人に拾われてたり。日本語上手だし、ちゃっかりしてるし、顔は良いし。
 ウンウン、ありそう。

 あれこれと考えて、さて、と振り切ろうとしても、どうしても視線が剥がせなくて。窓硝子を濡らす滴がいくつも筋を作って滑り落ちていく。部屋の明かりを反射して鏡のようになったそこに、寒そうに体を濡らした私が情けない顔でこっちを見ていた。

「……っあ〜〜〜!! もうッ! 見にいくだけだから!」

 フラグじゃない、これはフラグじゃない!!
 パジャマを脱ぎ捨ててテキトーな服に着替えると、念の為バスタオルを何枚かと傘を二本引っ掴む。玄関の扉を開けると、夕方とは比べものにならないほど冷え込んだ、どこか土臭い夜気がヒヤリと鼻先を濡らした。

 せっかくお風呂に入ったのに、と悄気たい気持ちを振り払って傘を広げて歩いても、風に乗って吹き込む雨がすこしずつ体を濡らしていく。ペタリと肌に張り付く布の感触が煩わしくて、やっぱり寒い。

 もうすこし着てくればよかったかも。ていうか、なんで私がこんなことしてるんだろ……。

 今さらいろんな後悔をしながら、それでも早足で一直線に公園を目指す。

 こうやってわざわざ見に来ているけれど、本音をいうと取り越し苦労で終わりたかった。こんな雨に濡れていて欲しくない。もっと要領良く立ち回れるでしょ、とほとんど知りもしない、ぜんぜん知らない赤の他人にそう思ってしまう。いないで欲しい、いないで。

 ゆっくり歩いても五分もかからない間に頭のなかをぐるぐると回るのはそういう大きな不安だった。

 でも、そればかりじゃなくて。

 そう願う一方で、どこかでちいさく、また会えることを期待する自分がいる。ソワソワと浮き立つような気持ちになる理由が分からなくて、私って面食いだったの? と冷めた質問を投げてみても返ってくる答えはない。

 ワケが分からない。
 分からないまま、必死になっていた。

 気付いたら早足で歩いていたはずの足が速まって、水溜りを蹴り上げて走っていた。靴が雨を吸って足が重たいし、グジュグジュ音を立てて出入りする水の感触が気持ち悪い。なのに走ることはやめられなかった。

 ようやく見えた入口から公園に入ると、土がむき出しの地面はアスファルトで出来た地面よりもぐちょぐちょになっていた。泥が付くのも躊躇せず進むとそれほど広くない公園内はすぐに一望できてしまう。

 サッと見渡してー……一番奥のベンチ、電灯に照らされたそこで、傘もささずにポツンと座っている人影を見つけてしまった。

「っなんでいるかなあ……!」

 しかもベンチに。せめて遊具のなかで雨宿りしない?

 乱れた息を整えながら近寄ると、足音で気付いたのかすぐに人影が顔をあげた。それは予想通り、やっぱり彼で。赤い瞳を丸くして私を見上げる彼を、ついジト目で睨んでしまう。

「えっ、なんで、」
「なんでって言いたいのは私なんですけど! なんでこんな雨のなかでボーっと雨に打たれてるんですか!?」

 怒りが先立って、夜中だということはつい頭のなかからすっぽ抜けていた。叱りつけるように声を張る私にますます赤い瞳が丸くなる。

「雨?」
「そうですよ! もしかして気付いてなかったんですか!? ほら、こんなに濡れ……あれ?」

「濡れ、てない?」

 灯りに照らされた彼の服はちっとも濡れているようには見えなかった。ふわふわと跳ねた明るい髪の毛もやわらかさを保ったままだし、唇も血色が良いままで凍えて寒そうといった感じではない。

 なんで、だって、彼は傘をさしていないのに。

 理解を超えた現象に現実を疑ってつい瞬きをすると、さっきのは幻覚だったのだろうか。彼の服になかったはずの染みが、たしかにまだら模様に浮いていた。

 ど、どういうこと? 見間違い?

「あーっと、ほら、ここは木の下だからそんな濡れないんだよ」
「木……」

 言われて頭上を仰ぐと、たしかにそばの街路樹が立派な枝葉を彼の頭上に広げている。

 これなら濡れない……のかな? 違和感を覚えながらも、まあそんなに濡れてないならいいことか、と思い直した。濡れて欲しかったわけじゃないんだし。

 抱えていたバスタオルともう一本の傘を彼の胸に押しつけると、ほとんど抵抗なく受け取られた。その顔は不思議そうというか、キョトンとしている。いまだに私がここにいる理由がよくわかっていないらしい。

「なにコレ、どーした? あ、オレに会いたくなったとか?」
「ふざけたこと言ってないで、さっさと行きますよ」
「は、行くってどこに……」
「私の家! 泊まるとこないんでしょ?」

 「こんな雨のなかで放っておくほど冷たい女じゃないので」と早口で付け足すと、赤い瞳がぱしぱしと瞬いて、それからようやく事態を呑みこんだのか子供みたいにうれしそうに笑った。

 「はは、迎えに来てくれたってワケね。やさしーじゃん」と憎まれ口をたたく唇はやわらかな弧を描いているのに、白い頬に落ちた雨粒が涙のように滑り落ちていく。そのせいで泣き笑いのように見えて、なんだか落ち着けない。

 彼に押し付けた傘を開く気配がないから仕方なく、と言い訳して再び取り返すと代わりに開いてあげた。
 ポン、と空気を押し出すような音を立てて傘が開く。パラパラとビニールに当たる雨粒が奏でる音が二つ重なって、すこし緊張しながら再び傘を差し出した。

「……行かないんですか?」
「もちろん、行くに決まってるっしょ」

 ニカッと歯を見せて笑った彼が傘を掴む。その拍子に互いの指先がすこしだけ触れて、あ、と思う間も無くすぐに離れた。ほんの一瞬交わった指先だけ、ちいさな火が燈ったように熱く感じて。思わず指を握りこんで首を傾げた私に、「なあ」と彼の声がかかる。

 いつの間にかベンチから立ち上がっていた彼は、ジッと私を見つめていた。

「今のおまえとちゃんと『はじめまして』がしたいんだけど、いい?」
「あ、うん」

 なんだか不思議な言い方だ。でも、悪い気はしなかった。私もいい加減彼の名前が知りたいと思っていたところだし。

「オレはエース。エース・トラッポラ。どーぞヨロシク」

 後ろに音符でも付きそうなぐらいご機嫌な自己紹介につい笑ってしまう。
 エース、エースかぁ。何度か舌で転がしてみて、うんと頷く。どうしてかシックリとくる名前だった。

「なんかピッタリな名前だね」
「でっしょ〜? ま、名前通り優秀なんで」
「財布はスられるのに?」
「それは言うなよな……」

 拗ねたように唇を尖らせた彼が期待するように私を見る。そうだ、私も名乗らないと。

「私はユウ。『はじめまして』、エース」

 「これからよろしくね」と付け足すと、エースの赤い瞳がなにかを噛みしめるように、ゆっくりと細められた。


*****


「そういえばエースっていくつなの?」
「えーっと、一応十六、だったかな〜?」
「…………え?」
 
 妙に歯切れの悪い言い方よりもその内容の方が衝撃的だった。

 じゅうろく。
 十六歳……?
 思いっきり未成年じゃん?!?! 言われてみればたしかに顔が幼い……ような気がしなくもないけど、外国人の年齢なんか分かるわけない。

 どうしよう、と青褪める私の横顔を眺める視線には気付いていたけれど、この状況もしかして法律に引っかかるのでは? と慄いていた私はそれどころではなくて。

 だから、ぐるぐると考え事をはじめた私を見つめるエースの瞳が、心底愛おしいと囁くようなあまい熱を孕んでいたことなど知る由もなかったのだ。

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