▼ 幸福の残滓
誰かに名前を呼ばれたような気がして、モミジは浅い眠りから目覚めた。眠りの余韻か、発熱の影響かぼうっとする頭で辺りを探ると、すぐそばの窓枠にシ=オンが腰掛けてじっとモミジを見下ろしているのを見つけた。モミジの濡れた睫毛がふるりと震える。
「しおん……?」
掠れた声でモミジが問うと、シ=オンが笑ったように彼女には見えた。
「うん。ずっと寝込んでたんだろ、大丈夫なのか?」
「……もう少し休めば、治ると思う。いつものことだから」
シーツに肘をついてモミジが上半身を起こそうとすると、シ=オンは窓枠から消えて一瞬のうちにモミジの傍らに現れた。「いいよ、起きなくて」と言うと、モミジの起き上がりかけていた上半身をゆっくり倒して元の体勢に戻してしまう。
「やっぱ、驚かないんだな」とシ=オンが呟くと、モミジは困ったように笑った。
「ね、それよりシオンはいつからそこにいたの?」
「ちょっと前。……わかってると思うけどさ、オレ、話があって来たんだ」
シ=オンが静かにそう告げると、モミジはなにかを諦めるように眉根を寄せて、瞳を閉じた。しばらくの沈黙のあとで、「うん」とモミジが首肯する。
「オレ、孤児院を出るんだ。ラズロっていう、へんなオッサンのとこに引き取られることになった」
「うん」
「モミジと会えて、よかったんだと思う」
「うん」
「……楽しかった、し。また会えそうなら、会いにくるから」
モミジの黒目がぱちりと瞬いて、シ=オンを見つめて「うん」と笑った。寂しそうな切なそうな、嬉しそうな。全ての感情が詰まった、モミジ特有の白く透明な笑い方だった。シ=オンの言葉が止まらなくなる。
「おまえってさ、ホントはモミジじゃなくて、モ=ミジなんだな」「予知能力って、ホントかよ」「そういえばあのオッサンも、オレのことシオンって呼ぶんだ。へんな奴だよな」「……な、モミジは、オレのこと最初から知ってたのか?」「この先ぜんぶ、知ってるのか?」
モミジはシ=オンのどの言葉にも答えることはなかった。モミジの潤んだ黒い瞳はシ=オンを透かしてどこか遠い地を夢見るように、ぼんやりとまどろんでいる。
「しおん」
ふいにモミジが彼の名前を呼んだ。
「なに?」
「わたし、本当はモミジじゃないの。***っていうの、忘れないでね、いつかまた必ず会いにいくから、***を忘れないでね」
モミジの赤い頬を大きな目からこぼれ出た雫が伝っていく。モミジの涙とそのセリフの唐突さにシ=オンは怯んだが、結局その必死な様子に気圧されて訳の分らないままに頷いた。そうすると余計にモミジは涙が止まらなくなったらしい。激しく嗚咽を漏らして泣き始めるモミジに、半分悲鳴のようにシ=オンが叫んだ。
「そ、そんなに泣くなよ! また熱が上がるだろ!」
慌ててモミジの濡れた頬を服の袖でシ=オンが拭いてやると、モミジは束の間、幸せそうに笑った。