▼ 魚にもなれなかったね
ぷつっ、とわずかに聞こえる音にも怯むことなく、シ=オンは淡々と花の茎を折っていく。赤、白、紫、黄色。様々な色を付けた花たちを無差別に、なんの感慨もなく手折るとそっと顔を上げて隣を見た。シ=オンの隣にはモミジがいる。けれどその手にはまだなんの花も摘まれていない。
「おい、モミジ。おまえが花を摘みたいって言ったんだろ」
花を摘みはじめてからずっと草花に固定されていたモミジの白い顔がシ=オンを振り返った。そしてシ=オンの手を見て、わずかに眉尻を下げる。
「……やっぱり、いい」
ぽつりと、ちいさく落とされた言葉をシ=オンは危うく聞き逃すところだった。ぷつっ、とまた一本花を手折ったところでようやくモミジの呟きが頭に入ってくる。
「いいって、おま、」
呆気にとられてモミジの顔をまじまじと見ると、白い顔は申し訳なさそうにしょんぼりと眉尻を落としたままだった。
「ごめんね、シオン。でも、もう、いいの。やっぱりいいの」
ちっとも事情を説明する気のないモミジの言葉に、シ=オンは眩暈を感じて目をぐるりと回した。わけがわからない。リアンたちから「サージャリム」の説明を受けた時にも思ったことが、その時とは違う意味で繰り返される。
「……せめて、なんで花を摘みたかったのかぐらい言えよ」
結局ムダになってしまったらしい手の中の花を持て余しながら、シ=オンは苛立ちを抑えて言った。
「おまえが花を摘みたいって言うから、摘んでやったのに」
つい拗ねたような口ぶりで文句を言ってしまってから、シ=オンははっとして「ちがう、やっぱいまのなし!」と慌てて訂正した。けれどモミジにはそのどれもが通じなかったらしく、ただ不思議そうに瞳を瞬いてこくんと頷いた。
……羞恥の感じ損だった、らしい。
シ=オンはなんだか急にどっと疲れたような気がして、乾いた笑い声をあげた。「どうしたの?」と聞いてくるモミジに、溜息を吐いて「なんでもない」とだけ答える。
「で、なんだったんだよ?」
改めて問うと、モミジは困ったように視線を彷徨わせた。
「モミジ」、咎めるようにシ=オンが呼ぶと、「リアンに……」と彼女は弱弱しく答える。
「リアン?」
シ=オンの黒い目がほんの少し温度を下げた。ふぅん、と呟いた彼の唇がいやな風に曲がる。リアンもサージャリムも、シ=オンにとってはひどく馬鹿らしい単語だった。
なんて、くだらない。
胸のうちで唱えると、さっきまでの笑いの名残が急速に消えていった。ほのかに温かかった感情もどこかに姿を消して、代わりにかじかんでしまう程冷えて鋭く尖った悪意がシ=オンの眼前に曝け出される。
「モミジ、おまえもサージャリムなんか信じてるんだな」
笑いを堪えたつもりだったが、シ=オンの小さな身体は震えていた。花をリアンに、と告げたモミジのどこが他の奴らと違うのだろうか。そう思った途端、弾けるような笑いと、冷たい感傷がシ=オンの胸で暴れ出した。
「おまえも、あのお気楽で能天気な奴らと同じなんだな」
一頻り笑ったあとで、シ=オンは曲げていた足を伸ばして立ちあがった。もうシ=オンはモミジに対して一欠片の興味も、関心さえも失っていた。おざなりに、じゃあな、と一方的な離別の言葉をぶつけようと白い顔を見下ろしたところで、シ=オンの口の動きが止まる。
見下した先のモミジの黒い目が、シ=オンをじっと見上げていた。静かな湖面を思わせるモミジの大きな、穏やかな瞳。一瞬呑まれそうになって、シ=オンは逃れるように慌てて視線を逸らした。
そうして、ほんのわずかな時間だったのだろうか。数秒にも満たない沈黙がシ=オンにはやけに長く感じられた。それを破ったのは、シ=オンのものではない草を踏む音だ。視界の端で動く白い人影を捉えて、モミジが立ちあがったことをシ=オンは悟った。
「シオン、それは違うよ」
風が草や花を撫でる音に混じってモミジの声がどこか遠くで聞こえてくる。
「わたしはサージャリムなんて知らない。神さまが本当にいるのかもわからない。だけど、運命はあるんだよ。必然はあるんだよ。糸はそらと人を結んで、人と人はそうして惹かれあうから」
「でもね、キセキは――……」モミジはさらに何かを言いかけたが、続きの言葉が紡がれることはなかった。初めて聞くモミジの饒舌な返事に、その内容にシ=オンが怒ったような顔をする。
「……リアンみたいこと、言うなよ」
それでもモミジを見ようとしないシ=オンに、モミジがそっと苦笑をこぼす。それはとても大人びた表情だった。
「うん。ごめんね、シオン」
モミジが普段と同じゆっくりとした口調に戻ると、シ=オンはようやく振り返って黒い目を合わせた。どこか戸惑ったような、困惑したような表情のシ=オンにモミジはゆったりと微笑みかける。
「時間だから、行くね」
「ばいばい」と歌うように紡ぎだすと、モミジは行きと同じように、どこか茫洋とした足取りであっさりと去っていく。別れの余韻はおろか、先程の不思議な言葉の意味さえシ=オンに残す気はないようだった。
呆けていたシ=オンは咄嗟に、風に揺れて膨らむ白い服を捕まえようと手を伸ばしかけて、草の汁に汚れた手と、それから掴んだままになっていた花の存在を思い出した。モミジに向けて、シ=オンはその場から動くこともできないまま声を張り上げる。
「モミジ! この花、どうすればいいんだよ!」
モミジが一瞬振り返って、確かにはっきりと笑った。強い陽射しを白い頬があかるく弾いて、細く長い髪がモミジ自身を縁取るように淡く輝く。どこまでもしろく光って止まない、命の鼓動を感じさせる明るい微笑み。その光景はシ=オンの死に際まで彼の記憶に残るほど鮮やかな、初めて見る、そして最後に見せた彼女の明るい微笑みだった。
「シオンにあげる!」
モミジの姿が小さくなって、完全に消えてしまうまでシ=オンは瞬き一つろくにすることが出来なかった。いまさら、モミジの類稀な美貌を認識して、心臓が猛スピードで暴れ出す。勝手に熱くなった頬と緩んでしまう唇が悔しくて、片手で隠しながらシ=オンは精一杯舌打ちした。
「オレが摘んだんだっつーの!」