「アスナ…姉さん?」

その言葉は、周りを驚かすには充分な威力があった。
一緒にいたカムイは、その女性とアイチを見比べ「へ?」と間抜けな声を洩らす。
そして、女性_アスナは小さく笑みを浮かべると、軽く手を振った。

「久しぶり、アイチ。9年振りかな」

軽くアスナは笑うと、三和は「9年?」と驚いたように言った。
そんな話は聞いたことのないものなので、周りが驚くのも無理はないものだ。
アイチは困ったように溜め息を吐くと、近くの椅子に腰掛けた。カムイもそれに倣い、アイチの隣に座る。

「僕が小学生に入学してから、アスナ姉さん…叔母がずっと音信不通になっていたんです」
「あ、あははは。音信不通だったっていうのは、放浪の旅に出ていたからなんだけど…。……あとでシズカには、言い訳しておかないとなぁ」

アスナは驚いたように笑った後、ぼそりと呟く。そして呆然としていた皆を置き去りに、その場から立ち上がった。

「それじゃ。ミサキちゃん、お水ありがとうございました。アイチ、僕は先に家に戻るから」

そう言い残すと、腕にレジ袋を提げながらアスナは行ってしまった。
ふぅ、と安堵したかのように吐息を洩らしたアイチに、カムイは不思議そうに訊ねた。

「アイチお兄さん。あの人、お兄さんの知り合いなんですか?」
「あはは。うん、一応。僕の叔母で、小さいときは凄く可愛がってもらってたんだ」

えへへ、と頬を少し赤らめるアイチに、相当彼女に会えたことが嬉しいことが察せられた。
だが、アイチが彼女を一向に追い掛けないのは、取り敢えず放置していても良いということなのだろうか。

「…ファイトするか?アイチ」

ごたごたというよりか、ちょっとした出来事に区切りが付いたところで、櫂はアイチに訊ねる。アイチは満面の笑みで「うん!」と言い、櫂と向かい合える椅子に移動しようとしたそのとき、

「…あれ?」

ふわり、と。
アイチの身体が、傾く。
それを敏感に察知した櫂が動き、アイチを支える。
アイチはすぐに体制を立て直すと、「ごめんね!」と慌てたように謝罪した。

「お前、冷たいな」

櫂がそう言い、アイチは自分の心が冷たいと受け取ったのだろう「へ?!ご、ごめんなさ…!」と再び謝罪しようとするが、櫂がアイチの額に手をやったことで、アイチの謝罪は止まった。

「飯食ったか?体温が低い」

櫂の表情はあまり変わらないが、声音がどこか心配げになっていた。
三和もアイチの顔色を窺うなりすると、「確かに」と櫂に同意を示した。

「冷え性にしちゃ低いし…。貧血、か?」
「うーん…そうかな。大丈夫ですよ、さっきまで平気でしたし」

朝起きた時も、今ここにカムイと共に来たときも、特に異常はなかった。だが、時々くらくらするときがアイチにはあった。それがあったのは、ここ最近のことだ。そんなことがあるたびに、エミや母であるシズカが心配したのを、アイチは印象強く覚えている。

(でも、すぐ収まったし)

そんな大袈裟なものではないだろう。そう判断し、アイチは三和の言葉に「そうですね」と返した。

「貧血…だと思います。心配かけて、すみません」

アイチが小さく謝ると、櫂は特に気にしていないように言った。

「ならいい。体調管理くらい、しっかりしろよ」

櫂の言葉に、アイチは頷く。
そんな会話が終了し、森川と井崎がいつものように騒ぎ立て始める。それからはすぐに雰囲気が元に戻った。時に井崎が、

「あのアスナさんって人、アイチにそっくりだよなぁ」
「そ、そうかな?前に、お母さんにも『似てる』って言われるけど…」
「確かに似てたよなぁ。なー?櫂」
「…あまりそうは思わなかったがな」
「おい井崎ィ!!俺と早くファイトしろぉい!!」
「ったく、うるさいよあんたたち!」

そんな会話が飛び交うようになり、一気にカードキャピタルはいつものように騒がしくなっていた。それからは、アイチには特に何の支障もなく、普通に過ごしていた。
だからこそ、アイチも含め皆は何も思わなかった。
ちょっと調子が悪かった。そんな程度のみしか、思わなかったのだ。
今日はアイチの調子が少し悪くて、ちょっとしたイレギュラーが現れた。彼らにとってはただ、それだけのことに過ぎなかったのだから。




「もう、__」




ドアの前で1人小さく呟いた彼女の言葉を、誰も聞くこともなく。
その柔らかな日差しはどこまでも、平和に満ちあふれたそのカードキャピタルを照らしていた。








××






アイチが家に帰ったのは、それから数時間後だった。既に夕暮れとなっており、もう夜遅い時間帯だ。

「ただいま」

そう言いアイチが玄関まで入っていくと、シズカの声がアイチの耳に入った。

「おかえりなさい、アイチ」

そう言いながら、シズカは帰ってきたアイチを出迎える。
そこにアスナの姿がなかったことから、アイチは首をかしげた。

「ただいま。お母さん、アスナ姉さ…アスナ叔母さんは?」
「…あぁ。今日、久しぶりに帰ってきたのよね。アスナ叔母さんなら、もう実家に帰ったわよ。それから、アスナ叔母さんからお土産を預かってあるわ。部屋に置いてあるからね」
「うん、わかった!」

アスナ姉さんからのお土産かぁ。なんとなくそうアイチが呟くと、シズカは「ふふ、そうね」といつもよりご機嫌、というような感じでリビングに戻っていく。
お礼を言わなきゃと思ったが、もうお礼を言おうにも実家に戻ってしまったようなので言えない。もしもいたら、お礼ついでにもっと話ができたと思ったのになぁ。そう落胆しながら、アイチはシズカと共にリビングへと向かった。
リビングに入ったアイチの目に飛び込んできたのは、自分のデッキを広げているエミの姿。きっと、どれをデッキに入れるのか迷っているのだろうか。エミはどこか気難しそうな顔をしていた。
だがすぐに、アイチの立てる物音を耳にしていたのか振り向いた。

「あ、おかえりアイチ!遅かったね」
「あぁ、ごめん。ちょっと、盛り上がちゃって…」
「もう、ちゃんと帰ってこないとダメでしょ!…あ、」

エミはキッチンに向かうシズカの姿を見ると、てきぱきとバラバラのカードを束ねた。
家事に積極的な妹のことだ、きっと今日の夕飯の手伝いに行くのだろう。
カードを束ね終え、キッチンのもとへと向かった。

「お母さん、私も手伝う!」
「ありがとう、エミ」

その様子を見届けアイチは微笑むと、デッキなどの荷物おき部屋へと足を進めていった。
部屋に入り、ドアを閉める。
ふと部屋を見渡してみると、見覚えのある袋が机の上に置いてあった。カードキャピルのだ。中を見てみれば、かなりの数のヴァンガードのパックが入っていた。

(アスナ姉さんも、ヴァンガードするのかな)

そんなことを思いパックを開けようとしたアイチだったが、なんだか疲れがドッと来たのか少しだるく感じた。
パックを開けるのは明日の朝にでも、と考えたアイチは荷物を置くと、そっとベッドに一息つくために端へと座った。

「はぁ…」

そう無意味に溜息をつき、今日カードキャピタルに忽然と現れた叔母の姿を思い出す。
先導アスナ。9年前、音信不通となっていた叔母。
音信不通な彼女だった(実際には旅に出ていたようだったが)のだが、なぜ今更になって帰ってきたんだろうか。
なんとなく疑問に思ったアイチは、悩んだように小首を傾げる。
別にアイチは、アスナのことが嫌いなわけではない。むしろ、まだ幼い自分の支えになっていた女性だ。尤も、アイチは小学生となる頃には彼女は既に消えており、それがアイチの気弱で引っ込み思案な性格にも少なからず影響してくるのだが、この際それは置いておくとしよう。
アイチはこのアスナとの再会に、どこか不自然さを感じていた。
嫌ではない。ただ、身震いしたのだ。どうしてかは、わからないが。
ずき、と。アイチに大きな頭痛が襲った。感じたことのない痛みだった。
アイチは思わず、自分の頭を抑えた。しかし、なかなかその痛みは引いてくれない。
熱でもあるのだろうか。そう思って、アイチは自分の掌を額に当てる。しかし、自分で手を額に当ててもわかるはずもなく、アイチは項垂れるようにベッドに横たわった。
……それから、どれほどの時が経ったのか。実際には数分かもしくは数十分か。しかしどちらにしても、アイチには長く感じられた。
段々と、ゆっくりと、波が引くかのように収まっていく頭痛。
先程の痛みが嘘のように、アイチが起き上がった頃には完全に痛みは消え去っていた。
一瞬、アイチは気のせいだったのだと思いかけたが、額に感じる汗が先程頭痛に悩まされていた何よりの証拠だった。
初めて感じたその痛みは、いじめられていたときに受けていた傷の痛みとは全く違ったもの。鈍痛にも似た、なんとも形容し難い強い痛みだった。
アイチは思わず頭を抑える。だが暫くジッとしていても特に何もなく、ただ静寂な時間だけがアイチの部屋を支配していた。

「アイチぃ〜」

エミの声が聞こえた。アイチ
夕飯ができたのだろうか。どうやら、かなり長いあいだジッとしていたようだ。
アイチは立ち上がり、部屋から出ようとドアノブに手をかけたところで、アイチは一度動きを停める。
先程の頭痛を、お母さんに話すべきだろうか。
一度そのことが気がかりになり、アイチは眉を下げた。
きっと話しをしたら、母であるシズカは心配性であるが故にアイチを非常に心配するだろう。エミにも伝われば、もの凄い剣幕で大丈夫かなどと心配する様子が、アイチには容易にイメージすることができた。
…やめておこう、そう思った。

(暫く、様子見しよう)

アイチはそう思い、今度こそドアノブを回した。
階段を駆け下りリビングを覗けば、既に二人は席についていた。

「遅いよアイチ!」
「ごめんごめん」
「それじゃあ、いただきましょうか」

シズカの言葉を合図に、兄妹揃い「いただきます」と礼儀正しく手を合わせた。




それから食事や入浴を済ませ、アイチはリビングにてゆったりしていた。
そのあとからは、特に異常は起こらなかった。いつもと同じように行動でき、部屋にいたときに起こった出来事が嘘のように感じられる。

「アイチ?大丈夫?」

デッキ調整しているエミが、ぼーっとしていたアイチに訝しげに訊ねる。
アイチはふと思考を途切れさせ、エミに「ん?大丈夫だよ」と安心させるような口ぶりで微笑を浮かべた。
エミの心配そうな表情は和らいだが、しかしその瞳は未だ心配げに揺れたままだ。

「そ、そっか。ならいいんだけど…」
「?」

エミは不思議そうな表情をするアイチをよそに、カードを束ねて立ち上がった。

「アイチ、もう夜遅いし、早く寝ないとっ!」

ふと時計を見上げれば、既に寝ている時間が上回っていた。
アイチは「そうだね」とエミに同意を示し、エミと共に部屋へ戻ろうとすると、シズカがアイチを呼び止めた。

「どうしたの?お母さん」
「ちょっとね、アスナ叔母さんが部屋の整理の手伝いに来て欲しいって言っていたから、明日行ってきてあげてくれる?」
「あ、今日来たお姉さんのことだよね!叔母さんにみえなかったなぁ…」

エミは悩むような素振りを見せると、アイチの腕を掴んだ。

「ね、私も一緒に行ってもいい?」
「え?うん。いいよね、お母さん」
「良いと思うわよ。きっと叔母さんも喜ぶと思うし」

シズカからの了承も貰い、すっかり上機嫌なのかエミは階段を駆け上がっていく。
シズカは「あ」と思い出したかのように声を洩らすと、立ち止まったままのアイチに言った。

「明日、お昼も持って行ってもらえるかしら?叔母さん、何かに熱中するとご飯も抜きにしちゃうときもあるから。きっと掃除とかするとき、熱中しすぎちゃうかもしれないわ」

ふふ、と笑うシズカに、アイチも笑い返した。

「うん、わかったよ。お休みなさい、お母さん」
「えぇ、お休みなさい。アイチ」

そんな会話を交わし、アイチは自分の部屋へと入った。
特に部屋ですることもなかったので、アイチは真っ暗な部屋にあるベッドへと転がり込む。
結局、あのときの頭痛はなんだったのか。カードキャピタルでもあったあの浮遊感も。
疑問は渦巻くばかりだが、アイチにはその答えがわかるはずもなく。
そのままアイチの意識は、微睡みの淵へと落ちていった___









***







アイチがふと気がつくと、そこはどこか不思議な空間にいた。
見覚えのない、その空間には現実ではありえないような虹彩が放たれている。とても綺麗な場所で、そしてそれはPSYクオリアが織り成す虹彩のような感じで…。

「PSYクオリア…?」
『アイチ』

名前を呼ばれ、アイチは振り向く。
そこには、自分と同じ顔をした少年がいた。そしてその正体を、アイチは知っている。

「…もう一人の、僕?」
『久しぶりだね、アイチ』

そうにやにやと笑う自分に、アイチは戸惑ったような表情をする。
前のように乗っ取られるのではないか、そんなことを思ってしまったのだ。

「どうして君が、」
『そう警戒しなくてもいいじゃない。別に、取って食おうってわけじゃないんだから』

くすくすと笑う彼にアイチはどことない安心感を抱く。
妖しげなその瞳は変わらないけれど、しかしどこか柔らかな雰囲気を持った彼。アイチには、それはとても優しいモノに思えた。
ふわふわと浮かぶこの空間は、自分の精神世界なのだとアイチはふと気づく。
それを察したのか、彼は『そう』と言った。

『ここは、僕と君の精神世界だよ』
「え…?でも、どうして僕はここに…」

すると、彼はどこか訝しげに目を細めた。

『わからないの?』
「え?もう一人の僕は理由を知っているの?」

そう質問で返せば、彼は黙り込んだ。その姿は考え事をしているように見えたが、どこか確信でもしたかのような、そんな雰囲気を漂わせていた。
仮にも同じ存在であるというのに、アイチには彼の心の内がさっぱりわからなかった。
そして彼は、納得したように視線をアイチに向けた。

『…そっか。君がそうなら、別にいいんだ』
「もう一人の僕?」

どこか悲しげな表情を見せた彼に、アイチも不安げな顔をする。彼が悲しげだと、それと同時にアイチもなんだか悲しくなる。同一な存在であるが故に、感情でもリンクしているのだろうか。

『アイチ』
「え?」

スッと彼は駆け寄り、そしてアイチを抱きしめた。どうしたらいいのかわからず、アイチは彼を抱き返すことしかできない。
彼に触れているとなんだか安心するような気がしたが、それと同時に言いようのない不安が襲ってくるのを感じた。アイチは初めて、彼の不安や闇を共有できたかのような気がした。

『やっぱり、アイチはあったかいね』

そう笑う彼はまるで猫のように擦り寄った後、するりとアイチの腕から抜け出た。

『もう朝になるね。今日はもう、会えないかな』
「そっか…」

そう言うと同時に、アイチの目の前は霞んでいく。
この空間はなくなってしまうのだろう。彼の身体も、段々と光の粒子へと変わっていっていた。

『アイチ』

少しずつ意識が遠のいていくのを感じながら、アイチは彼の呼びかけに応える。
彼はゆっくりと、口を開いた。

『気をつけてね』

そんな意味深な言葉が聞こえたところで、アイチの目の前は真っ暗となる。



その暗闇の空間で、彼がどこか警戒したような表情をしていたのを、アイチは知らない。









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