今こうして考えてみれば、きっと私の家庭はおかしかったのだと思う。 誰かに言われるまでもなく、私は知っていたし悟っていた。 もともと、私の容姿は母様によく似ていてお父様や(双子であるが戸籍上兄の)アルトにとても可愛がられている。自分で言うのもなんだが、事実だ。 私の家族は、多分幸せなのだと思う。結論からして、幸せなのだろう。そう言う事しか、私にはできない。 だって私は、お母様もお父様も大好きだし、無論アルトも大好き。お父様もお母様もとても仲が良いし、アルトとも関係は良好だ。むしろアルトが鬱陶しいくらい。 でも、私は『外』に出たい。 私は何一つ不自由していないし、それに本で読んだ『家庭』よりも裕福なことを知っている。それでも私は、この屋敷から出たい。 お父様はきっと許してくれない。アルトも、きっと。そんなの、わかりきっているのだけれど。それでも、外に出てみたかった。外に出て、外の空気を吸って、外がどんな場所なのかを知りたかった。 お母様、ねぇ、お母様。私は臆病者だから、こんな紙切れにしか自分の思いを残せないのだけれど、もしも、私が「外に出たい」と言ったなら、
お母様。あなたは許してくれますか?
(とある箱娘の母への日記)
とある部屋で、少女は青髪の女性と共に談笑していた。 それはとても幸せそうな風景で、どこにでもあるようなものだ。しかし、そこで交わされている会話は、幸せとはあまりにかけ離れたものだった。
「お母様、ねえ、お母様」 「どうしたの?アイル」
女性_アイチは少女_アイルに微笑みかける。アイルは父であるアルと同じヘブンリーブルーの瞳を瞬かせて、窓を覗いた。 窓の外は太陽の光が辺り一面に輝いており、まさに晴天というに相応しい天気だった。それを確認し、アイルはその幼い容姿に似つかわしくない悲しい微笑をすると、アイチの方へと向き直った。
「どうして、お母様の腕は傷ついているの?」 「…」
その問いに、アイチは答えようとしない。しかし、アイチが自分の手首を見て摩るのを見、それが返答だとアイルは気付いた。
「ずっと疑問だったの。お父様はあんなに優しいのに、どうしてそんな傷があるの?」
いつもはポンチョで見えないが、時々見える手首がアイルにとって気になって仕方なかった。 綺麗な白い肌に赤黒く残っている、掴まれたような痕。アルトは気づいていなかったが、少なくともアイルは気づいていた。一番近くにいる父親のアルはその手首を見ているはずなのに何も言わない。独占欲の強い父親のことだから、こんなのを見つけたら怒り狂うのではないかとアイルは予想していたが、その予想は見事に外れたのだ。だからこその、疑問だった。
「これはね、お母さんがお父さんの『モノ』である証なの」 「もの?お母様はお母様でしょ?ものって、なぁに?」
年齢的に幼いからか、アイルにはよく理解できなかった。なので、首を傾げることしかできず、「ものってなぁに?」と質問を繰り返す。アイチはその様子に微笑みながら、アイルの頭をなでる。その微笑みに、アイルはどこか虚しさを感じた。 いつも優しく微笑んでくれている母に、なぜこんな気持ちを覚えるのかわからない。生まれてこの方、こんなこと思ったことはなかった。アイルには、まだ理解できない感情だった。 アイルはふと、空を見上げる。そこには、清々しいほどの蒼が広がっていた。 この窓からでしか、見たことのない景色。ここから出たら、もしかしかしたら_
「お母様。私、ここから出たいの」 「…?」
アイチは目を丸くし、唐突に何を言い出すのか、そんなことを言いたげにアイルを見ている。 もともと、外に出たかったというのは本当だった。アイチから、父であるアルに内緒で様々な話を聞かせてもらっていた。初恋の話、仲間の話、ヴァンガードの話、それらは全て昔話であり、思い出であると彼女は語っているけれど、それを語らう時の母の姿が、アイルは好きだった。一番好きだと言っても、過言ではない。 だからこそ、話の影響を受けたからこそ、アイルはその場所に行ってみたかった。 連れて行って、そう一言父にそう頼んでおけばいいだけかもしれない。だが、頼んではいけない、絶対に。そう、アイルの本能が告げていた。言おうとするたびに、頭の警鐘が鳴るのだ。やめて、やめて、やめて、だめ、だめ、ダメ、ダメ。どうしてかは分からない、ただこのときだけは、その言葉に従おうと思った。しかし今は、その要因だと思われるアルがいない。だからこそ、今がチャンスだとアイルは考えたのだ。
本で見たような世界を見たい。アイチの、母の話を私も体験してみたい。
子供らしい純粋な思いは、膨れ上がった先に結局破裂したのだ。一種のわがままだと言ってもいい。しかしその思いは、子供にはありふれたもの。それを読み取ったのか、アイチは微笑みを浮かべた。
「どうして出たいの?」 「私ね、お母様。出てみたいの、このお屋敷から。確かに、アルトと一緒にいるのも楽しいし、リオンさん達も優しい。お父様だって、優しいよ。このお屋敷には、いっぱいの本もあるし、ヴァンガードもあるけれど。でも、見てみたくて。外を見てみたくてね、」 「うん、そうだね」
納得するように微笑み頷くアイチだったが、しかしすぐにその微笑みは悲しげに歪められる。 それを見たアイルは、アイチの返答が透けてみえた気がした。
本当に?いいの?後悔するかもしれないよ?
そんな眼差しが、アイルに突き刺さる。いつも穏やかな母からこのような眼差しを受けるのは、アイルは初めてではなかった。アイルがふと、『外は一体どうなのだろう』や『お母様の知り合いに会ってみたい』などと駄々をこねた際に向けられた視線だ。その視線を受けるたびに、アイルは窘められた気分になってしまい、気持ちも一時的ながら冷めてしまうのだ。アイチからの怒りを、アイルは滅多に(これはアルトにも言えたことだが)買ったことがなかったが、きっとこの視線は警告なのだろうと、アイルは思っている。 いつもならそれで引くのだが、しかし今日のアイルは一味違った。
今日はお父様やアルトがいないんだ!でも、本当はアルトにいてほしかったけれど…。だけれど、これはチャンスだもん。外の世界に、行ってみたい。
そう心に言い聞かせ、アイルは口を開いた。
「私、外に出てみようと思うんだ」 「…」 「だから、私、「ダメだよ」
アイルの言葉に、アイチの静かな声が重なった。 唐突に告げられた拒絶。視線でなんとなくわかってはいたものの、いざ言われてしまえば胸がずきずきと痛み出し、ショックを受けてしまう。今まさにその事態に陥ったアイルは、「どうして…?」と目に涙を溜めながらアイチに訊ねた。 アイチは暫く黙ったままだったが、じきに口を開いた。
「ごめんね。だけど、お父さんに言われているの」 「お父様に?」
父に言われたから。そう、アイチは語る。どうしてなのかは、アイルにはよく理解できなかった。 そんな娘を目にアイチは立ち上がると「お昼ご飯、何にしようか」そう言いながら、そのまま外へと出て行った。 アイル一人になった部屋に、静寂が訪れる。 時計すらない、母の部屋。時計なら自分の部屋に行けばあるが、この部屋だけにはなぜだか設置されていない。時計のない部屋。音楽機器も、自主的に音を立てるモノは一つだって存在していなかった。そしてそこはまるで、時の流れを紛失させてしまったかのように静かで、深い眠りにでもつかされるかのように、意識は夢と現を漂っては自分の世界へと入れてしまう。そんな、何かから切り取られたような、異質な一部屋の中で、アイルは天井を仰いだ。
「どうして、なのかな」
どうしてそこまで拒否されるのか。どうしてそこまでして、外の世界を見せてくれないのか。アイルにはさっぱり、理解できなかった。 アイチの考えも正直に言えば、アイルはあまり理解していなかった。小さいゆえ、というものではない。ただ、理解できなかった。それだけだった。何か、アイチの感情はなんとなく察することができるが、だがそれでも、考えまではわからなかった。そしてその考えも、アイチは話そうとしないために、アイルにはアイチの考えなどわかるはずないのだ。
だからこそ、自分の思いである探究心は抑えることができない。
アイルはその晴れた空を一目見ると、そのまま部屋を出た_______
晴れたその空は、屋敷で見るよりも、窓越しで見るよりも、やはり外から見たほうがいい。 それが、アイルが『初めて』外に出た時の感想だった。初めて見る風景。初めて感じる空気。初めて聞く騒音。初めて見る大きな建物。初めて身体全体に浴びる陽光。何から何まで初めてで、そして空気や建物の豪華絢爛さを比べてみれば、それは『仮宮邸』にはとても劣っているけれど、しかしそれはどこまでもアイルの探究心を煽っていた。 『仮宮邸』に住んではいたが、しかしそこをあまりアイルは知らなかった。決してその場所が嫌いなのではない。けれど、動き回ることをアルに封じられていたから、わからなかったのだ。わかったとしても、図書館や両親と兄の部屋しかわからないだろう。そんな何の意味のない自信が、アイルにはあった。 歩いていれば、誰かとすれ違う。見知らぬ他人な、多くの人と。時には乗り物や、動物にも。そんなことさえも、アイルは今この瞬間まで知らなかったのだ。 清澄された空気。豊かな自然。見知った人間しかすれ違うことのない廊下。いついかなる時にもそばに存在し、アイルが(これは『仮宮邸』にいるアイルの知り合いにも言えることだが)何をすることなく、何かをしてくれる侍女。いつでも食べられる温かなご飯。疲れるという感情さえ沸き起こることのないその空間は、不自由なんて言葉とは無縁の、あまりに多幸溢れるものであったがしかし、それが完全なる幸福ではないことを、アイルは幼いながらに知っていた。 無知であることが間違っているとは言わないが、それでも、これは知らなくてはならないと、そんな不思議な使命感に駆られていた。どこに行くでもなければ、時間も何も気にしてもいない、そんな自由な時間を堪能するように、アイルはとてとてとその道を進んでいた。
最初は、外に出るという行為をしようとした瞬間、手足が震えて屋敷から出られなかった。しかし、いざ勇気を持って出てしまえば、呆気ないものだった。 誰も見ていなかったその瞬間は、幸か不幸だったのか。そんなことなど深く考えず、アイルは一度あの屋敷を振り返ってみた。とても美しかった外見だが、しかしなぜだか薄気味悪さを感じてしまっていた。 これが、今まで自分が、家族が住んでいた場所なのか。 そう思わず思ってしまったアイルは、なんだか悪いことをしてしまったようで、妙な罪悪感に苛まれた。そして、周りを取り囲んでいた森へと走ったのだ。走って、走って、走って。身体が葉にまみれるのも気にもせず、アイルは走ってそして辿りついたのが、この場所だった。 一生懸命走っていたからか、この場所がどこだか分からない。否、街の名前は書いてあったものの、漢字が読めずに分からずじまい、というのが正しいだろうが。確か、『うしろ』という字に何か『エ』のような漢字があった気がする。そう思い出しかけたが、アイルは『やっぱりわからない』と結論づけて溜息をついた。本当に、今はどこあたりなのか。 不安もあるが、それでも今この瞬間はとても楽しかった。アイルはこの瞬間を大切にするように、一歩一歩進んでいく。 この場所を、母と、父と、アルトと、一緒に歩んでみたい。 淋しさが、アイルの中でよぎる。 帰りたい。帰りたい。帰らなきゃ。母様が待っているのに。父様に黙って抜け出しちゃったから、怒られちゃう。そんなの、いや。怖いよ、助けて、アルト。 いつも一緒にいた兄が、急に恋しくなる。気持ちの奔流に流されながら、アイルは服の袖を握った。
「…アイル」
ふと、聞きなれた声が聞こえた。幻聴かもと思ったがしかし、アイルは振り向かずにはいられなかった。 自分よりも、少し低い声。真似しようとすれば真似のできる声。鬱陶しいとも感じていた、血を分けた片割れの声。
「アルト…?!」
アルと同じ、路孝茶色の髪。青空のように澄んだ、大きな瑠璃色の瞳。女の子のような容姿をしている、その少年は、アイルの双子の兄であるアルトで間違いなかった。 アルトは少し怯えたような表情をしていたが、すぐに明るい笑みを取り戻す。その笑みは、アイチととても酷似したものだった。
「やっぱりアイルだ!」
無邪気にはしゃぐアルトに、アイルはしっと人差し指を口に当てる。そして「五月蝿いよ、アルト」と少し慌てたように言うと、アルトはしゅん、と眉を曲げた。
「ごめん」 「いや、別にいいんだけどさ。それで、なんでここにいるの?」
家を出るときは、きちんと周りを確認したはず。つけられてはいないはずだ。アイルが少し顔を顰めると、アルトは困ったように俯いた。
「たまたま…」 「たまたま?」 「猫を、見かけたんだ」 「…猫?」
猫。そう言って、アルトは俯いた。
「とってもイタズラ好きみたいで、ぼくのカードを持って行っちゃったから、追いかけていったんだ」 「え?で、そのカードは?」
辺りを見回すが、猫など近くにはいない。カードはどうなったのだろう、そう思い訊ねてみると、アルトはポケットから一枚、カードを取り出した。
「うん、この通り!」 「よかったね。それで、猫を追いかけて、ここまできたの?お父様は?」
そう。ここにアルがいてしまえば、即刻連れ戻される可能性があるのだ。アイルとしては、それだけは絶対に避けたかった。するとアルトは、アイルの質問に首を振った。
「ぼくが迷子に…なっちゃったから…」 「…」
自分も同じ状況のために、何も言い返せない。黙り込んでしまったアイルに、アルトは心配そうにアイルの瞳を覗き込んだ。
「アイル…?」 「……じゃあ、私たちは迷子なんだね…」
溜息をつきながら、アイルは空を仰いだ。アルトの息を呑む気配を感じ、アイルはアルトを見た。アルトは目を潤ませて、ふるふると震えながら俯いている。
「もう、母様のところに…帰れないのかな…」 「そ、そんなわけ、ないよ!…帰れる、よ」
そんなことさっきは全く考えてなかったくせして不安になるのは、矛盾しているのだろうか。だが、今はそんな矛盾も関係なしに、アイルとアルトはホームシックに陥っていた。 今にも二人が泣きそうになった、その瞬間。
「ねえ、」
じゃり、と。 誰かが砂利を踏む音が、二人にははっきりと聞こえた。また、その声も。 ぴくりと、二人は肩を震わせる。アイルは反射的に目を背けたせいで、話しかけてきたその人物を見ることは叶わない。しかも、逆に恐怖は増していくようだった。 恐る恐る、アイルは声のした方へと向く。知らない人に話しかけられたのは、初めてだった。
「君たち、迷子?」
そこにいたのは、女性。明るい緑色の髪に、優しげな、明るい桃色の瞳。透き通っているけれど、感情を読み取らせないような、そんな不可解な感覚を覚えるその眼差し。そんな視線を送るその女性は、心配げに八の字に眉を曲げていた。
「…」
その問いにどう答えたらいいか分からずに、アイルとアルトは口を閉ざす。 その様子に、その女性は目を細めた。
「ごめんなさい、怖がらせてしまったね」
そう女性は目を伏せて、言った。
「私の名前はシャロン・ノックス。もしよければ、私の家においで。お母さんとお父さんのこと、捜してあげるよ」 「しゃろん…」
アイルは思わず、そう呟く。『シャロン』という言葉に、少なからずアイルには聞き覚えがあったのだ。 それは確か…、そう、母の思い出話での話。 『とっても頭が良くて、お金持ちで、頼りになる人だったんだ…』 そう笑って窓越しで空を眺めていた母を、アイルは思い出していた。 思い出していたせいで、思考回路が鈍くなっていたのか。すっかりシャロンに丸め込まれ、アイルはアルトとシャロンと三人で、大通りを歩いていた。 時々彼女の顔を見上げてみれば、シャロンもこちらを見て笑ってくれる。優しそうな微笑みに、アイルは少しドキリとした。初めてのことだらけで、頭がごちゃごちゃとしてくる。 アルトの方を見れば、俯きながら歩いているために顔はみえなかった。だが、なんだか怖かった。まるで、怒っているかのような…そんな感覚だ。思わず不安になり、アイルはアルト、と呼びかけた。
「どうしたの?アイル」
上げられた顔は、特に眉間に皺も寄っていなかった。怒ってもいない、ただ、穏やかな表情がそこにあるだけだった。アイルは「うぅん」と首を振り、俯く。先程の陰険な様子はどこにいったのか、アルトは無邪気に「あとどれくらいですか?」などとシャロンに聞いていた。
「もう少し、かなぁ…」
そう呟いて、シャロンはアイルとアルトの手を引く。そして見えてきたのは、大きなお屋敷だった。 仮宮邸と同じくらい、もっと大きいのだろうか、それとも同じくらいなのか、よく分からないが、とにかくもその屋敷は仮宮邸を思い出させるほどの豪邸であった。
「…うわぁ」
思わず、アイルは呟く。周りにあった家が、小さく感じてしまうくらいだ。 シャロンはその屋敷へと足を進めていく。二人はそのまま、シャロンと共にその屋敷へと入っていった。
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