アイチが最初に気がついたのは、ベッドの上だった。

「え?」

最初は、何が起こったのかアイチには全く理解できなかった。
だが、数秒経ったところですぐに思い出した。
そう、アイチは__

「そうだ、アルくんに…アルくんに…!」









あの時、ここに来る前、アイチはレンと一緒にいたはずだった。

レンにデートを申し込まれて、そしてそのままデートを楽しんで。そして、家に帰ろうとしていた時だった。
その時は夜遅く、レンの『送って行きます』という言葉に甘え一緒に帰っていたのだ。丁度、人通りがなかいところに差し掛かったとき、見覚えのある少年がアイチ達の前に立ち塞がっていた。

「…あれ?アル、くん?」
「先導アイチ」

アルベルト―もといアルが目の前に立っていた。まるで、今こうして歩いてきたかのように自然とそこに彼は立っていた。偶然だね、とアイチが声を掛けようとした瞬間、レンがアイチを隠すように前へ出た。

「何か用ですか?」

睨むようにしてアルを見るレンに、アイチはおろおろしながらレンの服の裾を握る。
アイチがレンを宥めようと「レンさん」と一言呼んだとき、アルの口が孤を描いた。

「!」

レンはその笑みに悪寒でも感じたのか、アイチをちらりと見る。アイチがその視線に気付き、レンへ視線を向ける。視線と視線が一瞬だけ交わり、そしてレンは口を開いた。

「逃げてください」
「え?」

レンのこんなに緊迫した声を、アイチは聞いたことがない。ただその声に、アイチは今危険な状態に自分たちは晒されているのだと、アイチは漸く察した。
だが、ここでレンを置いていって良いものか。そう思い、アイチはレンの袖を引っ張った。

「レンさんは…?」

その瞬間、レンは勢いよく前を向き直るとアイチを後ろへ押し出した。

「早く逃げてください!!」

押し出され、アイチはレンから離れる。レンのその必死さに押されたのか、アイチはそのまま走り出した。思わずアイチは、レンの方へと振り返る。
アルはただ、にやりと妖しげに微笑んでいるだけ。しかしレンの後ろ姿が遠ざかっていくたびに、レンのいるその空間が非常に禍々しく感じた。
レンの逃げろという言葉は、正しかった。あそこに、アイチはいてはならなかった。
それをアイチは漸く悟って、勢いに任せて走り出した。

こんなに自分の身体は重かった?レンさんを置いていって、本当に良かったの?

そんな疑問だけが、頭に残っている。
ただし、その問いの答えをアイチは持っていない。ゆえに、アイチには答えられなかったし、答えようともしなかった。
一体どれくらい走ったのか。だが、どこもかしこも同じような景色しか続いていないような気がする。
息が詰まり、アイチは立ち止まる。
吸って吐いて、吸って、吐いて。吸って…吐いて。
しかしその荒くなった呼吸は、決して和らいだりしなかった。むしろ悪化しているように思える。過呼吸にでも陥ったのだろうか。アイチは自分を落ち着けるために、ゆっくりと息を整えようとするが、それでも収まらず、アイチはその場にしゃがみこんだ。
暫くし、その足音は唐突にアイチの耳に入った。それに対し、アイチはびくりとその華奢な身体を震わせる。そして、

「大丈夫か?」

そう、上から声が降ってきた。アイチはその声に、思わず目を見開く。夕影のそれは、アイチの知っているシルエット。その声の主とその夕影の主が同一人物であることも、アイチは知っている。アイチはその碧眼を揺らめかせながら、ゆっくりと顔を上げた。

「アル、くん」

そこにいたのは、アルベルト・ノーゼ。本人で間違いなかった。
その表情は、心配げに歪められている。それは、レンと向き合っていて見せていたあの狂気じみた微笑みとは違う、本当に心配しているのかその整った眉を八の字に曲げていた。
だが、一緒にいたはずのレンは、アルと共に存在していなかった。きっと近くにいるのだと、アイチは周りを見るために首を捻るが、アイチとアルのいるその周りには、レンの影すらなかった。
答えはなんとなく分かっている。だが、聞かずにはいられずにアイチは口を開いた。

「レンさんは…?アルくん、レンさんは、どこにいるの?」

その問いに、アルは黙った。そして黙ったまま、アルはアイチへと手を伸ばした。

「立てるか?」
「はぐらかさないで」

アイチはぴしゃりと言い放った。その言葉に、アルの伸ばした手はぴくりと震え、手を伸ばすのをやめる。それと同時に、心配げな表情は一気に無表情へと変わった。

「なぜ」
「…え?」
「なぜ、私を見てくれない」

悲痛に聞こえるその言葉。そして、アルのその双眸が見開かれたその瞬間、アイチの意識は闇へと落ちていった。










全てを思い出したところで、アイチは自分の身体を摩った。なぜだか、身体がギシギシと痛む。その痛みを堪え、アイチはベッドを降りようとするが、開いたドアの音によってその行動は遮られた。
そこにいたのは、自分を気絶させた張本人であるアルだった。
アルはそのままアイチの元に歩み寄ると、「目が覚めたか?」とアイチに触れようと手を伸ばす。

「…いや!」

アイチは思わずアルの手を振り払った。それに対し、アイチはハッとする。いくらここに気がついたらアルがいて、しかも気絶する前に彼と会っていたとはいえ、もしかしたら彼が助けてくれたのかもしれない。もしかしたら、あのまま疲れきって気絶してしまって、そのまま心配したアイチを運んできてくれたのかもしれない。そんな一縷な願いに縋り、アイチは「ごめんなさい」と謝った。

「ねぇアルくん。どうして君がここにいるの?ここはどこなの?」
「ここは、リオンの屋敷の中だ。君がそろそろ目を覚ます頃だと思ったから、ここにいる」
「そっか…」

丁寧に質問に応えるアルに少なからずの安堵感を覚え、アイチは緊迫した糸を緩める。
その途端レンの姿が思考を掠め、アイチは必死げに顔を歪めた。

「アルくん。ねぇ、レンさんは?レンさんは、どこ?……アルくん?」

アルの様子がおかしいことに気付き、アイチはきょとんと目を瞬かせる。そして次の瞬間、アルはあの時と、レンに見せていた同じ微笑みを浮かべていた。
サァっと、アイチの表情は不安げに揺らぎ色を無くしていく。思わず、ベッドのシーツを引き摺りながら後退った。

「あ、アルく、」
「本当に、君は…」

そう言って、アルはアイチをそのまま押さえつけるようにして跨った。
アイチはそれに対し、なす術ないままにただガタガタと肩を震わせることしかできなかった。
押し倒されている。今、アルに、押し倒されている。ただそれだけが、アイチの思考の中でぐるぐると巡っていた。

「君はいつだって、雀ヶ森レンのことばかりだな」
「あ、アルくん?離してよ、苦しいよ…アルくん」

アイチが嘆くように抵抗すれば、アルはもっと強めにアイチをベッドに縫い付ける。アルの表情は変わらない。ただその狂気じみた笑みを浮かべては、アイチのその細長い両手首を片手で拘束し、もう片手でアイチの頬を触った。
アイチは擽ったさと身の危険に、身体をくねらせた。

「やめて!!」
「私は、こんなに君を愛しているのに…」
「離して…!…離してッ!!」

押さえつける力は、一向に弱まることのない。寧ろアイチが抵抗するたびに、押さえつけるその力は強くなっていく。アイチの恐怖はより一層高くなり、更に抵抗しようと藻掻いた。

「助けて…!レンさ、レンさん!!助けてッ!!!」

それが決め手となったのか、それとも、もともとこうするつもりだったのか。それは分からない。だが、それは唐突に起こった。
先程までは、抵抗しようと身体をくねらせていたアイチだったが、急にできなくなった。身体は沈み、動かそうとすればするほどベッドに押し付けられていくのだ。それは、アルが物理的に押さえつけているものではない。アイチ自身が、ベッドに沈んでいる。
そしてその時のアルの美しい双眸は、禍々しいほどに煌めいていた。美しく、禍々しく、そして何よりも、憎悪にその瞳は満ち満ちて。そしてその対象はアイチではなく、レンであることにアイチは気づいてしまった。混乱に乗じてアイチはそれを理解し、そしてなお一層混乱した。

「な、何?これ…!身体が、」
「君はどうして、いつも私を見てくれない?どうしたら見てくれる。私《だけ》を。」

アイチが混乱している最中で、アルはただそれだけを呟いている。そして、

「ひっ…!ん、ぁ」

アイチの唇に、自分のそれを重ね合わせた。
食らいつくようなそのキスに、アイチは目を瞬かせることしかできない。最初は触れるだけ。だが、途中でねとつくようなモノへとそれは変貌していった。
生理的、そしてその唇を奪われたことに対する悔しさに、アイチは涙していく。
するとアルはアイチが泣いているのに気がついたのか、キスをやめてアイチの頬にあった手でその涙を拭った。

「何するんですか…!お願い、早く離して!」
「それはできない」
「どうして!?ねぇ、アルくん…!どうしちゃったの?」

アイチの悲痛なその言葉に、アルは再び口元に孤を描かせる。だがその笑みは、どこまでも自虐的な笑みにアイチは思えた。まるで、最初に会った時のレンのように、その微笑は淋しげであるようで。レンの面影を、アイチはアルに見てしまった。
アルはアイチを見、更に笑みを深くした。瞳はどこまでも、悲しげなままで。

「君は、本当に。…絶対と言って良いほどに、あの男が好きなのだな」
「え?ひゃッ!」

アルは躊躇なく、アイチの衣服を引き裂いた。それに対し動けないアイチは、ただ「やめて」「嫌だ」などと言った拒絶の言葉しか繰り返すことしかできない。
アルはそのアイチの怯え様に、狂ったような笑みを浮かべていた。

「この時だけ。この時だけ君は、私を見てくれる」
「いや!いやだぁ!!お願いアルくん、離して、離してよぉ!!」

その声は、今のアルに届くことのない。アイチはなんとなくそれを理解しているつもりだったが、それでも必死に拒絶の言葉を吐く。だがそれには答えず、アルがアイチの曝け出された身体に触れようとした時、コンコン、というノック音が響いた。

「アルくん、リオンくんが呼んでいるんだけれど…」

その声はアヤノのモノだった。その声に、アルは不満げに顔を顰めると「わかった」と扉越しに言った。そして、ベッドから降りる。それと同時にアイチへの謎の負荷も消える。身体の自由を感じたアイチは急いで上半身を起こすと、掛け布団を胸元まで手繰り寄せた。今ではもう、恐怖で声も出ない。
アルはそれを見てや「すぐに戻る。待っていてくれ」と言い残し、そのまま部屋を退出していった。

「…はぁ」

思わず安堵の溜息をつく。アイチは何か連絡手段を取ろうと部屋を見渡すも、そこには何もない。窓すらなく、部屋には暇潰し程度にと置かれた本棚、そして着替え用だと思われるクローゼット、そして椅子と小さなテーブル。日常に困らない程度な、本当に必要最低限のモノしかおいていなかった。
どうしたらいいのか分からず、アイチは蹲る。引き裂かれた服の辺りが痛い。掴まれたその手首も、言ってしまえばどこもかしこもギシギシと痛んだ。
ポロリと、涙が溢れてくる。思い出す、櫂やQ4の仲間とアサカやテツの笑顔。そして、

「レンさん…」

レンは今頃どうしているだろう。怪我をしていないか、アルに何かされていないか。願わくば、今ここに駆けつけて助けに来て欲しい。だがそんな願いは、届くはずもない。分かっていながらも、助けを求めたくなる。抱きしめて欲しくなる。アイチはそんな思いを受け止めるように、己を抱きしめた。
心配と、そしてこの状況からの救って欲しさ。今は何時なのかさえわからぬこの空間に、いたくもなかったアイチは、クローゼットの方へとよろよろと歩く。

(早く着替えて、ここから出よう。こんな服じゃ外にも出れない。外に出たらきっと、助けを呼べる…!)

一筋の希望を胸に、アイチはクローゼットを開けて手頃な服を探した。不思議なことに、サイズは皆アイチに合わせてあるかのように作られていた。幸いではあるが、しかし不気味なモノだ。まるで、もともとアイチが着られるように仕向けたような、そんな意図が感じられる。だが、それを気味が悪いなどと弱音を言ってはられず、アイチは一番地味な服を選び、それに腕を通した。
未だガクガクと震える身体に鞭を打ち、アイチは部屋の扉を恐る恐る開ける。幸い、廊下には誰もいなかった。アイチは念には念を入れ左右を見、そして走り出した。そもそもここがどこなのかも分からない。だがアルは、ここはリオンの屋敷だと言っていた。アルと共に一度来たことがあるゆえにか、なんとなくだが出口がどっち方面か分かる。走っていくうちに、見覚えのある壁なんかも見つけることができ、アイチはこれ幸いと自分の記憶を頼りに駆けていった。
だが、走っても一向に出口が見えないことにアイチは立ち止まった。

「あれ…?」

レン達に助けられたとき。あの時レン達と一緒に出て行ったその道順を、しっかりと辿ったはずだ。少なくとも、自分の記憶通りならばそうであると断言できる。だが、その道に行けないのだ。似たような壁が沢山あったために、どこかで誤認した道でも辿ってしまったのだろうか。
途端に不安になり、アイチは胸のところで手を握る。しかし、ここで見つかるわけにもいかないのだ。だから、ともかくもこの屋敷から出なくては。
そんな使命感を胸に、アイチは走る。だが、ここで疑問に思うべきだったのだ。
どうしてここまで、誰の姿も見ていないのかを。

「どこへ行くんだ?」

アイチはびくりと肩を震わせた。後ろを恐る恐る見てみれば、そこにはアルがいた。いつからいたのだろう。アイチの表情は一気に蒼白となり「ひっ!」と軽く悲鳴じみた声をあげた。

「どこへ行くんだ?」

さっきと全く同じ質問に、アイチは後退る。
アルの表情には、狂気の笑みも、悲しげな感情もない。無表情だった。しかしそこから読み取れるのは、強い怒り。明らかに、逃げた自分のことを怒っている。そうアイチは感じた。
ふと後ろを振り向けば、長く続く廊下。アイチは二、三歩あとずさった。
今なら、逃げることができるかもしれない。
もしかしたら、ここで誰かに会えばきっと___
アイチはアルから逃れるように、その長く続く廊下へと走り出そうとしたアイチだったがその身体は突如止まる。そして刹那、身体がふわりと浮かんだ。

「?!」

声を出す暇さえもなく、アイチはアルのもとへ引き寄せられた。アルの手の中にすっぽりと収まり、アイチに抵抗などできなかった。再びアルのもとへと引き寄せられた。まるで、飼い犬をリードで引いたかのように。アルから離れてはならない。逃げることなど、赦されない、…赦さない。アイチはアルのその行動と、そしてその狂気の瞳から、それを悟った。
そして、首元に鋭い痛みが走った途端、アイチは気を失った。

ぐったりとしたアイチの身体を、アルは支える。アルは気絶したアイチを愛おしそうに横抱きした。
周りには誰もいない。そもそも、いないようにアルが自ら取り計らったのだから、当然といえば当然かもしれない。
アルの能力『方向操作』の応用版。走っている間、ずっと必死だったからこそ、その方向が操られていたことに気がつかなかったアイチ。
アルはアイチが脱走するだろうことは、なんとなく分かっていた。だから、自分からは逃げられないと悟らせるために、敢えてこの方法を選んだ。本来なら、足の筋でも切り落として、動けなくさせたかったが、それはやめたのだ。…それでは、彼女に『逃げられない』と悟らせられないのだから。心を砕いておかなければならない。諦念というものを、心に抱かせるために。
こんなことを思っていても、アルはアイチを信用していないわけではない。むしろ、アイチに対する好意が本物だからこその信用が、アルの中には存在していた。だがしかし、そこに『疑い』が無いと言われれば嘘になる。どんなに信頼していても、その心に確かなる愛がどれだけ存在していても、そこに『疑いが無い』わけではないのだから。
大好きであった母親に捨てられた時から、『疑う』ことを知った。大事なモノはそばに留めて置くようにすることを、学習したのだ。
大事なものをその場に留めておきたくて、自分の手の届く場所へと、幼子なら当然あるはずの『親子共にいたい』という気持ちから、母であるルサリィを父から守っただけだったというのに。
それなのに、彼女はアルを捨ててしまった。否、本当は捨てたわけではないのかもしれない。この力がただ単純に、怖かっただけなのかもしれない。父を結果的に半殺しにしてしまったあの時を思い出すだけで、アルでさえ身体が震えてしまうほどに、あれはトラウマ化していたのだから。尤も、それはアルが後悔しているわけではないのだが。
受け入れる時間でも、欲しかったのだろう。あの優しかった母のことだから、そう思わずにはいられない。だが結局、迎えに来てくれることはなかった。母という大切な者は、あのままアルのそばから消えてしまった。だからきっと、母(ルサリィ)は『捨てた』のだ。能力者という重荷が背負いきれなくて、自分(アル)を置いていってしまった。

捨てられたくない、離れて欲しくない。もう二度と、絶対に。
大事なものは、そばに。母のように、離れてほしくない。離れ離れになりたくない。
もう、あんな風になるくらいなら。

どんなことだってしてみせる。

アルはアイチを横抱きにしたまま、踵を返した。