アイチはそっと、大きく息を吸う。そして、口を開いた。
「ねぇ櫂くん、櫂くんと僕と出会ったとき、覚えてる?」
そう訊ねると、櫂は「…あぁ」とどこか間を置いて同意する。きっとそれは、アイドルである自分と出会ったときのことを言っているのだろう。
それはそれで、アイチは構わなかった。
「僕、あのとき本当に嬉しかった。どうしたらいいのか分からなくて、泣いていて。そんなとき、君は僕を庇ってくれて、君が引っ越すまで、ずっと遊んでくれたよね」
そう言った瞬間、櫂の目が大きく見開かれるが、アイチは気づかないままにそのまま言葉を続けた。
「アイドルになるって決めたのも、櫂くんに励まされて元気もらって、それで頑張ろうって思えたからなんだよ」
アイチは悲しそうに微笑む。こうして今アイドルになれたのも、櫂のくれた励ましと笑顔のおかげだった。辛かったとき、悲しかったとき、苦しかったとき勇気をもらった。
再会したとき、本当にどれほど嬉しかったか、感動したか。「櫂くん」と、どれだけ呼びたかったか。だが、あのときのアイチは考えてしまった。彼は自分のことを、覚えていないのではないかと。あのときはフードを被っていたし、気がつかないのは無理なかったのだろうけれど、そのときのアイチは「気づいてくれない、覚えていない」と思ってしまった。あとあと考えてみれば、気づかなかったのは当たり前。覚えていないというのが本当は正しい。もう何年も前の話だし、遊んだのも数回。よほどのことがない限りでは、覚えてはないだろう。印象に残っていても、ただの気弱な少女くらい。それと今の立場を比べれば、似ても似つかない。
覚えているのが、僕一人でも構わない。
この想いを、伝えられるなら。
「君と『最初』に出会ったあの日から、君のことが、大好きです。今も、昔も。君は、覚えてないかもしれないけれど。あの日からずっと、」
そう言いかけたその時、アイチは突然の温かさに目を見開く。
今アイチの身体は、櫂によって抱きしめられていた。
「かい、くん?」
何が起こっているかよくわからないままに、アイチは櫂の名前を呼んだ。
抱きしめられた身体は、櫂の温もりでいっぱいになる。きつくきつく抱きしめられたその身体。痛いほどに抱きしめているその腕を振り払うことなんて、アイチにはできるはずもなく。
しばらくそのままでいると、櫂の大きく息を吸う音をアイチは聞いた。
「…覚えている」
たった一言。
その一言が何を指すのかは、アイチが一番分かっている。思わずアイチは目を見開くも、櫂は続ける。
「お前と初めて会ったときのことも、全部覚えている。あのとき、お前は、まだ小さくて、アイドルだなんて程遠いぐらいにちっぽけだったな」
「…うん」
「あのときのお前はいつも俺の後ろに隠れていた。だが、誰よりも優しくて。…まさかあアイドルになってるとは、思わなかったけどな」
そう楽しそうに言う彼に、アイチは目頭が熱くなるのを感じた。櫂の抱きしめる強さが弱まったのを期に、アイチは櫂の顔を見る。
櫂の表情は先ほどの悲しげな表情をしていない。どこまでも、穏やかだった。
「なら、どうして言ってくれなかったの?」
言ってくれれば、こんなに辛い思いをすることなかったのに。
そう思ったが、すぐに察した。
(櫂くんも、僕とおんなじこと…)
どちらかが言い出していれば、本当はもっと早くに行き着いていた結末。
察してくれたかという眼差しを櫂から受けたアイチは、申し訳なさそうにしゅん、と眉を八の字にした。
櫂はそんなアイチを慰めるように、アイチのさらさらとした青い髪へと触れ、撫でる。
「黙っていたのは謝る。だが、お前は忘れてしまっていると思っていた。…とんだ臆病者だな、俺は」
「そんなことないよッ!!」
アイチが声を張り上げる。そんなことは初めてで、櫂は思わず目を見開く。
アイチは真っ直ぐに櫂のそのエメラルドの双眸を見つめる。そして、言った。
「櫂くんはいつも優しくて!僕にいつも道を示してくれていたじゃないか!それなのに、僕は何もできなくて、君の優しさを利用して…!!」
思いつめたように言うアイチ。結局、ずるいのはいつだって自分だ。こんな関係が心地良い。下手にそのことを話して関係が壊れてしまうより、『この関係自体が間違っている』と否定することで、櫂のしてきた覚悟を利用して、思い出を綺麗な思い出のままにしようとした、とんだ臆病者で、下劣な者。櫂が臆病者なのではない、アイチが臆病者であったのだ。思い出を少しでも貶さないように、壊さないようにするために。
今話したのだって、覚えていないだろうという確信があったからだ。だから、話した。きっと、気のせいじゃないかとあしらわれるのを期待して。確信がなかったのなら、きっと話さなかっただろう。今のような展開になって、もっともっと互いに離れがたくなってしまうのではないか、と。
そうアイチは危惧していた。
まぁ尤も、その危惧は当たり、その確信はアイチの軽率ということで既に砕かれてしまっているのだが。
でもアイチは、もう構わなかった。それは、櫂も同じこと。
「それは結局、俺も同じことだ」
「…お互い様、なのかな」
「そうだな」
アイチの言葉にそっと櫂が同意を示す。アイチはふっと微笑んだ。でもすぐに、アイチは悲しげになった。
「本当は、離れたくないよ。いつも一緒にいたいんだ。櫂くん」
求めるように言うアイチに、櫂はそれに応えるようにアイチの頬を撫でた。
「…俺もだ。ファンとしてでなく、お前のそばにいたい」
告白じみた言葉を発する櫂。アイチはただ幸せに包まれたように、笑みを浮かべた。
「それは、僕もおんなじ気持ちだよ」
「このまま、どこか遠いところでも、行くか?お前のことも知らない、どこか遠いところに」
それはアイチにとって、あまりに甘美な誘惑だった。
このままどこかに行ってしまえば、きっとミサキにもスタッフにも家族にも、色んな人に迷惑がかかること間違いないだろう。けれど、櫂と一緒にいられるなら、赦されるのでないかと、そう思えて仕方なかった。
「嫌か?」
アイチはそっと首を振る。そして、アイチは櫂を抱きしめた。
「連れてってくれますか?」
その言葉は「YES」という言葉でもあることを、この二人は何より理解している。
二人の上で、一つの星が流れ落ちた。
**(後日談)
『人気アイドル先導アイチ、行方不明』
そんなタイトルの報道が、いつまでもニュースを見るたびに映されている。
雑誌の中やスレの中には、駆け落ちでもしたのではないかと囁かれている。
早く見つかってほしいだとか、警察は役に立たないのかとか、そんなコメントが色んな場所で相次いでいる。それは、先導アイチの家族にもそのマネージャーもそんなことを言う者達の一人であった。今でもずっとやっているし、そのたびに怒号が聞こえてくる。それほどまでに、彼女は愛されていたのだ。
彼女が行方不明になって、数ヶ月。更に時が経ち数年。先導アイチの捜索は、諦められたと言ってもいいほどに、世間からは噂を聞かなくなった。それでも皆に彼女の話をすれば、みんなは笑顔で彼女の思い出話を語らうのだ。
そんな語らいの中で、一人の男が言った。
「アイチさん、男と一緒だった」
その男は、元警官だったという。
周りにいた人間は、「そうなの?!」と食い入るようにその話へ夢中になる。
「どこに行ったの?!」
「わかんないよ。とにかくここの後江山のところでさ、男と一緒に山の奥まで行っちまって」
「ねぇ!どうしてそんなこと知ってるの?!」
「俺さ、アイチさんにそこでパトロール中に会ったことあって。そのときサインとか貰おうとしたら、その男に『人違い』だとか言われて。それで、俺のプライドズタズタに切り裂いて二人で闇の中さ」
「うっわぁ。それって、アイチさん誘拐じゃねぇの?」
「だからわかんないよ。アイチさんはむしろ嬉しそうにしてたから、余計にプライド傷ついちゃって」
「え、アイチさんも?!」
男の話に、もっと食いつく。男が話を進めようとしたとき、一人の少女が目の前に立った。
「これ、おとしましたよ!」
舌足らずにそう言う少女はまだ幼い。差し出したその手には、ハンカチが握られていた。
男は「ありがとう」とそのハンカチを受け取る。話していた場所が外でしかも歩いていただけに、どうやら気づかなかったらしい。さしずめ、少女はそれを拾って追いかけて来てくれたという感じか。
男はそばの仲間たちと顔を見合わせ、可愛いなぁ、とアイコンタクトで会話を交わす。
少女は可愛らしい青い髪で、綺麗な緑の瞳をしていた。青い髪はまるで、先程まで話題に上がっていた先導アイチを思わせる。
少女は男がハンカチを受け取ったのを確認すると、にぱー、と笑う。
すると、透き通った女性の声が聞こえた。
「アイノー?どうしたの?」
「おかあさん!」
少女は愛らしく後ろを振り向きそう言うと、今度は男達の方を向き「おじちゃんたち、ばいばーい!」と言いながらその声の方へと走っていった。
男達もその声のした方へ、反射的に顔を上げる。
そこには、白い日傘をさした女性がいた。強い太陽光のせいか、日傘のせいか、その女性の顔はわからない。少女にそっくりな青髪が、とても愛らしく揺れた。
「どこに行ってたの?アイノ。心配したよ?」
「あのねあのね!きいて!おかあさん!」
そう言って、無邪気に笑う女性と二人。
「うん、そうだね。でも歩こうね。お父さんもトシヤも待ってるから」
「うん!」
そう言って少女と女性は歩き出す。
男はふと、その女性の横顔が誰かに見重なった。
あの笑顔、あの柔らかな声。どこかで。そうだ、先程話していた先導アイチに…!
そう思ったが、いつの間にかその少女と女性二人は見えなくなった。どうやら、もう行ってしまったようだ。
「可愛い子だったね!」
「そうだな!いいなぁ…」
「黙りなさいよロリコン。…どうしたの?」
仕事仲間である女性が、男を見つめる。男は「いや、なんでもない」と笑い、少女達とは別の方向へ足を進めていく。
彼らと彼女達は、もう二度と会うことはなかった。
今でもアイドルである先導アイチは、芸能界に帰ってきていない。
しかしこれから、アイチの娘がアイドルデビューすることなど、誰も知る由はなかったのである。
これはとある、アイドルとファンの、とある一線を超えたお話。