大きな部屋に通され、アイルとアルトはその部屋を見回す。
見たことのない場所。見たことのない家具。見たことのない景色。感じたことのない匂い。それら全てを感じ、改めてアイルはここが自分の世界(仮宮邸)でないことを知る。そして、一脚の椅子に一人、女性がいた。

「アイル、ぼくおトイレ行ってくるね?」
「え?あぁ、うん」

それを見るやいなや、そう言ってアルトはその部屋を去ってしまう。全く知らない女性と二人きりにされたアイルは、怯えるように部屋の隅に行こうと歩みだす。

「どうしたの?」

唐突に、話しかけられる。アイルの足はぴくりと震えて、止まった。
思わずそちらへと視線を向ける。視界に映る、漆黒。瞳も、髪も、どこまでも純粋な黒。その存在は、彼女の意志の強さを象徴しているように思えた。

「あたしは夕海(ゆうみ)ハルネって言うんだ。座りなよ、立っているのは辛いでしょ?」

そう促され、アイルはハルネと向き合うようにして椅子に座る。そしてその『夕海ハルネ』という名前にも、彼女には聞き覚えがあった。
一体、どこで聞いたか。会ったこともないというのに。
そう、思っていたその時だ。ハルネは足を組むと、力強い笑みをアイルに向けた。

「あんた、名前なんて言うの?さっきいた男の子…は弟?」
「…アイル。アイル・ノーゼって言います。あれは私の兄、アルト・ノーゼです」

自己紹介した瞬間、ハルネの目つきが変わる。鋭い、何かを狙うような目つきに。それを悟り、アイルは無意識に背筋を伸ばした。

「お母さん」
「え?」
「お母さんの名前、教えてもらってもいい?」

ハルネの言葉に、アイルは息ができないような、そんな苦しい衝動に襲われた。これを、息が詰まるとでも言うのかもしれない。心の隅でそんなことを考えながら、母の名前を出すべきか悩んでしまう。彼女の瞳は、早く言えと言わんばかりにぎらついている。
これを言ってしまえば、なんだか後には引けない気がする。そんな予感という名の警鐘を耳に、アイルは口を開いた。

「先導アイチ、ですけれど」
「ッ」

途端に、彼女の息を呑む音が聞こえた。彼女の表情に視線を合わせれば、目を瞬かせ、そして下唇を噛んでいたのが見える。どうしてそんな顔をするのか、アイルにはわからなかった。

「あの、」
「彼女は、元気にしている?」

アイルの声を遮り、ハルネが訊ねる。母の知り合いなのか、いつもは外に出ていない母に、こんな凛々しい知り合いがいたか。そんな疑念が、彼女の中に渦巻く。こんな女性は、アイルの記憶にはなかった。思わず考え込んでしまい、アイルは黙り込んでしまう。
それをどう受け取ったのか、ハルネは眉間に皺を寄せながら言った。

「父親は、アルベルト・ノーゼ?」
「…はい」

そう答えれば、ハルネの瞳の鋭さはますます増していく。
そのあまりの気迫さに、アイルは何も考えられなくなった。その鋭利な眼差しからは、もうアイルが逃げることなど叶わない。
ハルネは何かを紛らわすかのように、

「先導アイチからは、あたしのこととか聞いてる?」

ハルネの疑問に、アイルは必死に記憶を手繰り寄せる。母に聞かせてもらっていた思い出語りの中に、きっといる。そう確信して。
思い出している間、こんな情景が頭に浮かんだ。







「アイル、ごめんね」
「…?おかあさま?」
「お外に出してあげられなくて」
「いいの!だって、るかおねえちゃんとかあやめおねえちゃんとか、あるともいるもの!それに、りおんおにいちゃんもかるまおにいちゃんもいるよ!」

だから、いいの。
そう言ったとき、母の表情は悲しげに歪んだ。

「本当は、ダメなことなんだけどなぁ…」
「おかあさま、めっ、なの?」
「…そうだね。もしハルネちゃんなら、めっ、って教えていたんだろうね」
「はるねちゃん?」
「そう、僕の友達」
「おかあさまの、おともあち」
「『おともだち』だよ」
「おともだち!」
「そうそう。ハルネちゃんはね、強くて、優しくて、とっても頼れる女の子だったんだ」
「すごい、ひとなの?」
「そうだね、凄い人だよ」
「いいなぁ!おかあさまのおともだち、すごいなぁ!!」





あのときの自分は、本当に無邪気に話を聞いていた気がする。尤も、あの会話から月日は一年少ししか経っていないのだが。
『ハルネちゃん』というのはきっと、この目の前にいる女性なのだろう。とても凛々しくて、かっこよくて、頼りがいのありそうな、…母の言葉通りな人だ。
アイルはそんな事実に少しだけニヤつきながら、ハルネの質問に答えた。

「はい、聞いています。お母様の、お友達だと」
「そう」

特にどうでもいいのか、ハルネはたったそれだけの返事をする。そして、まだその鋭利な瞳を煌めかせながら、口を開いた。

「それで、アルベルト・ノーゼはアイチを…お母さんをどう扱ってる?」

父の名を呼ぶときの彼女の表情が、憎々しげに歪められる。そんな表情にアイルは思わずびくりとなるが、できうる限り平静を保とうと必死に取り繕う。

「お父様は…お母様にとっても、」

優しいと思います。その言葉が、喉元で止まった。
優しいはず。お母様に、あんなに良い部屋を提供して、身体を気遣って、ご飯も沢山あげて、私たちとはまた違う優しい笑みを浮かべるから。
理由など挙げればいくらでもあるというのに、アイルはハルネの問いに答えることができなかった。なぜなのかなど、アイルにはわかるはずもない。
優しいはずだ。それなのに、『優しい』と、なぜ言えないのか。ただそれが、疑問で仕方なかった。
ハルネはそんなアイルの様子に、一つ溜息を零した。

「あんたも、わかってるんでしょ?」
「何が、ですか?」
「あんたのお父さんが、間違ってるってことさ」

はっきりとそう言われ、アイルはハッと目を見開いて俯く。
何が間違っているのか、一体何を間違えているのか。そんなことなど、アイルは悟ってはいない。しかし本能で、そのことを感じ取っているのだ。この家庭が可笑しいということに。なぜ母が、外に出ないのか。なぜ、母の腕に傷跡があったのか。なぜ、父はアイル達を外に閉じ込めておこうとするのか。それらを、本能で悟っているとしたら。この娘はもうじき、幼いこの時期に全てを悟ってしまうのだろう。そんな予感を、ハルネは感じていた。
だったら、早い段階で受け入れさせるべきだ。父親の行動を。そして、止めさせるべきだ。紛れもない、娘と息子の手で。
そんなことを考えながら、ハルネはアイルに話を進めていく。

「あんたのお父さんは、お母さんをどうやって手に入れたと思う?」
「手に…?」
「そう。あんたが、生まれたきっかけ」


そして、真実が語られる。その時のアイルの瞳は、戸惑ったように揺らめいていた__
















「何をしているんだい?」

ふと、シャロンの声が背後から聞こえ、アルトは振り向く。
シャロンはアルトを、どこまでも冷たい目で見ていた。

「…」
「黙っていては、何もわからないよ」

シャロンの言葉に、アルトは子供らしからぬ眼差しでシャロンを見上げた。
まだ幼い子供。しかしその瞳には、どこか悟ったような覚悟が窺える。シャロンはその貫禄に、何も察することなどできなかった。
アルトはシャロンの問いに答えない。いや、反応していないと言う方が正しいのだろうか。
まだ幼い彼の瞳は、シャロンのことなど映っていない。水面のように、姿のみを映している。
アルトは暫くして、口を開いた。

「ぼく、アイルのそばにいるの」
「だったら、部屋に入ったらいいのに」

シャロンは特に無関心そうに、しかし子供に対し行動を促すような口調でアルトに言う。
だがアルトは、シャロンの言葉に首を振った。

「うぅん。ちがうの」
「違う?」
「うん、ぼくは、守らないといけないんだ」

アルトのその言葉に、ぴくりとシャロンの眉が動く。
『守る』。その言葉は、シャロンにはとても不吉に聞こえた。この少年の父親を知っているだけに、シャロンは『守る』という一言が恐ろしい。
『守る』とは、対象に危害を加えるものや迷惑を与えるものを排除する、もしくはその者を止めることを言うがしかし。その意味に切り込んでみれば、閉鎖された限定空間に対象を隔離し自分の随意な刺衝を与えることでもある。それは簡単に言えば、幽閉。
この少年は、今ハルネの引き込もうとしている少女は、『守られてしまった』結果、産まれてしまった子供なのだ。『彼女』と『彼』の関係がもう二度と、取り返しのつかないことを悠々と証明する、生ける枷。全ての真実を証明する、命ある証拠。
その枷の片割れが、今度は何を『守ろう』と言うのか。
シャロンには、その考えが恐ろしく、怖い。

「何を?」

怖さを紛らわさんと、シャロンは平坦な声で訊ねる。答えは、既に分かっているというのに。すると、アルトはアイルに見せた微笑みを見せないままでただ冷静に、否、無邪気さ
という暗闇を瞳に宿らせて、機械のように言った。

「アイルとね、おかあさま」

ああ、既に手遅れだ。シャロンの警鐘が、シャロンの心の奥深くに呼びかけては、もう手遅れだと繰り返す。それは残酷で、しかしこの兄妹にとってはどれだけ幸せなものなのだろう。『守り』『守られ』傷つくことなどないのだから。しかし代わりに、外には出られはしない。その檻からは、永久に出ることなどできない。それが、その道を選び選ばれた者の運命であり宿命なのだから。

「シャロンのおねえさん、あのね。ぼくね、守るの。おとうさまが言っていたの。ぼくはアイルを守らなきゃいけないんだって。おかあさまを危険から守らなきゃいけないんだって。そうしないと、おかあさんもアイルも消えてしまうんだって」

ひたすらに、呪文のように、その言葉を言う。シャロンに無邪気に、悪気などなく、ただ学校で教え込まれたことを母親に報告するように、この少年は語る。この枷は、語る。

「だいすきなものは、そばにおくの」

その想いを既に持たれては、手遅れだ。
シャロンの警鐘は、確証へ変わる。幼いながらに教えられたそれは、もう何を言っても曲げられない。父親である、アルが言わなければ。
シャロンが息を呑み、そして否定の言葉を並べようとしたその時、アイルの怒声が響いた。
それには思わず、二人は身を固くする。

「どうしてぇ!?まるでそれじゃあ私が、私達がお母様を縛っているみたいじゃない」
「縛っているんだ。それを、もう知っているでしょ?あんたは」
「違う、違う違う!そんなこと、そんなことないよ…そんなこと、」
「嘘。アイチと一緒で、わかりやすいね。あんたは知ってる。父親が間違っていることを」
「間違って、る」

そうアイルが肯定したその時、アルトはすたすたと部屋へ入っていく。守るように、聞こえぬように。アルトはアイルのもとへ向かった。開かれた扉は、きつく閉じられる。扉の向こうの声はもう、シャロンの耳には入らない。ゆえに、今何が起こっているかはわからない。
素直に扉を開けてしまえばいいのだが、それをすることをシャロンは拒絶する。これを怖いというのだろう。本能的に関わってはいけないというのだろう。それほどまでに、アルトの心を映したその眼差しは恐ろしく、悲しかった。
ずるずるとシャロンは座り込む。大人ながら情けない。そう思っても、四肢に力が入ることはなかった。
シャロンは悲しげに、ふっと笑う。それは、諦念や自嘲を示すような笑みだった。

「ごめんなさい」

逃避するように。自分を慰めるように。後悔するように。
シャロンは顔を手で覆い、救えぬと確信した『彼女』の名を小さく呼んだ_
















×月○日 
Title:最後だね
この日記帳も、今日で最後のページ。もう記すことのできない、私の一年間の行動と想いがつづられたこの日記。前から、いっぱいいっぱい書いてきたけれど、きっともう書き記すことはない。
日記帳は、これで3つくらいだったか。今度かくにんしてみようか。あ、もう書かないんだっけ。
今日は、私が初めて外に出た記念日だから、この日記がこの日に終わるのだと思うとなんだか運命を感じてしまう。ふしぎな感覚だなぁ。
お母様もお父様もアルトも、みんな優しい。大好き。
だから、数年前のハルネさんとの会話も、アルトのひょうへんも、シャロンさんも、あの赤いかみの人も思い出す。
ハルネさんは、私に「おかしい」と言った。はっきりと。間違っているって。けれどね、ハルネさん。私、今の幸せはこわしたくないんです。きっとあなたは、私を取り込んでお母様とお父様を引きはなすつもりだったんでしょうけれど。今思い出しても、そうだとしか思えません。…ハルネさんへのひ定じゃ、ないんだけどね。まちがってるなんて、重々承知。それでも、私はアルトと一緒にずっといたいんです。お父様とお母様とずっとずっと一緒にいたいんです。大好きだから。こんなところでしかつづれないし、ずっと言えずにいたこと。
どうせ、もう書かないんだもの。いいよね、書いても。
あのときアルトが私をつれ出してくれなかったら、きっとハルネさんに取り込まれていたんだろうか。わかんないけど、押されてはいたもんね。アルトにつれ出されて、結局はお父様につかまっちゃったんだけれど、おこられなかった。お母様がそばにいたからかな。
ぎゅっと抱きしめてくれた。お母様もだきしめてくれた。だから泣いた。ひさしぶりだったから。
お母様、お母様。アルトもお父様も大好きだけど、お母様が一番好き。今でも、お外のことを話してくれるから。
お父様も言っていた、お母様を守ろうねって。アルトと、二人で。
約束、しちゃったんだもん。
でもね、ほんとはもう一回外に出たいの。
一回しか見たことないんだけど、赤いかみに赤目の男の人が、私とアルトがつれて行かれる時に会ったの。お母様を、悲しそうに見ていたその人。とっても、とっても、きれいでさみしそうな人。アイチちゃんって、呼びかけた人。お母様は一度だけふりかえって、首をふって、私たちとお父様と帰っちゃったんだけど。私ね、一回だけふりかえっちゃったの。その人、泣いていたの。私と同じように、泣いてた。
あの人のこと、わすれられない。もう一度だけ、出れ_











最後の最後の行を埋めて、途中で書ききれなくなったそれを見ながら、アイルはペンを握り締めた。これでは、最後のページが中途半端ではないか。しかしつけたそうにも、そこにはもう文字が書けない程度の隙間しかない。これが、人生最後の日記になるなんて、と大げさにアイルは溜息をつく。もうすぐお昼時。部屋には存在しない時計でなく、腕に巻き付いた母とおそろいの青い時計を見て、アイルはお腹を摩る。お腹がすいたのだ。

「さて、と」

リビングへ戻ろうと、アイルが立ち上がったその時、「アイル」と言う声を聞く。母の声だ。
扉を開けてみれば、優しげに微笑む母_アイチの姿。
手を差し出され、アイルはその手を取る。勿論、笑顔で。

「お母様、お昼食べたら、ヴァンガードファイトしよう!」
「うん。いいよ」
「あのねあのね!ヴァンガードするとね、お母様。カードがね…」

扉は、閉められる。すると、空いたままの窓から街風が訪れ、そして、終わらせるようにその日記を閉じていく。続きが、語られることないままに。
辿り辿られ、もう役目を果たすその日記は、もう開けられることはないのかもしれない。綴られたその書きかけた日記の中に、どれだけの真実があろうとも。それはもう、明かされはしないのかもしれない。彼女に開ける意志がない限り。
過去は綴られはしないがしかし、枷自身が、今度は自らの現在と未来を紡ぐのだろう。
大切なものを、その枷で縛り付けながら。縛る対象と、片割れなる枷を巻き込みながら、生ける枷な少女は赦されない恋をする。




(私ね、お母様。カードの声が、聞こえるの)






フェターズサイクル




end



あとがき






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