「…おはよう」
まどろみから目を開けて一番に視界に映った消太は、柔らかく微笑んでいる。カーテンから溢れる太陽の光が眩しくて、もぞもぞと布団の中で動き彼の温かい体にぴったりとくっついた。
両手を背中に回して抱きしめ返してくれる消太の胸元に顔を埋めると私と同じ柔軟剤の香りが鼻をくすぐり、なんともいえない幸福感でいっぱいになる。
「消太がいる…」
「昨日泊まったからな」
「ふふ、この感じ、久しぶり…」
「…そうだな」
髪を掬うように頭を撫でてくれる彼の大きな手のひらは優しい。あまりにも心地良くて、もう一度眠ろうかと瞼を閉じる。
「…ナマエ」
「ん…」
「…眠いのか?」
どこか寂しさが含まれる声に閉じかけた瞼を持ち上げて消太の顔を見上げると、分かりづらいけれど本当に寂しそうな表情をしていたもんだから、思わず笑ってしまった。
「どうしたの?そんな顔して」
「お前が言ったんだろ…今日は出掛けたい、って」
プロヒーローと教師を兼任している私達の、珍しく重なった休日。私は就寝前、明日はデートしようねと元気よく言ったことを思い出した。
「ごめんごめん、気持ちよくって」
「…どうする?家でダラダラするか?」
「…あのね、駅前にできた新しいカフェに行きたかったの。あと買い物にも行きたいな」
「なら起きなさい、寝坊助」
消太が私を引っ張ってくれたので起き上がる。お互い下着しか身に着けておらず、少しだけ外気の冷たさに震えた私にふんわりとタオルケットを掛けてくれた。消太は足元に落ちているスウェットを雑に頭から被り、それが裏表、前後、と逆だったから、私は声をあげて笑った。
それからお互いの寝癖を見てまた笑い、のんびりとベッドから降りる。消太はリビングでのテレビを付けてニュースをチェックしているので、私は先に洗面所に向かいスキンケアまで済ませる。
「トーストでいい?」
「ああ」
私と入れ替わるように洗面所にやってきた消太の返事に頷いてから、カウンターキッチンで朝食作りを始める。
二枚の食パンをトースターに入れ、焼きあがる間に冷蔵庫の残り物の野菜で適当にサラダを作る。スクランブルエッグとウインナーも焼いてワンプレートに盛り付けて、スープだけはインスタントに頼った。
トーストにバターを乗せ、熱々のコーヒーと一緒にテーブルに並べた時、顔を洗い終わった消太がやってきて、驚く。
その顔にはいつもの無精髭がなく、長い前髪はオールバックにまとめられていた。
「びっ…くりした。珍しいね、髭剃るの」
「…まあ、たまにはな」
不合理的だと、自身に対しては最低限しか気を使わない彼は、私とのデートで髭を剃ったことはない。仕方なく出演するメディアの前に出る時や、プロヒーローとしての会合等、そんな時だけだったのに、なんともまあ珍しい。
見慣れた恋人の顔なのに、なんだか別人に見えるから不思議だ。
「…いつもかっこいいけど、かっこよさがプルスウルトラしたね」
「何訳わからんこと言ってんだ。ほら食おう、冷める」
少しぶっきらぼうに言う彼にニヤニヤしながら、消太の向かい側の椅子に腰を下ろす。お行儀良く手を合わせていただきますとしっかり言った消太は、ただ焼いただけのトーストや残り物の野菜のサラダに「美味いな」とコメントを言ってくれる。毎度のことだが優しい男だ。
消太が食器を洗ってくれると言ったので、その間にメイクをする。今日は数か月ぶりのデートだから気合が入った。
先日オンラインで買ったばかりのお気に入りブランドの新作コスメを開封する。細かいラメが綺麗なブラウンのアイシャドウに、コーラルの色味が可愛いチークを塗って、唇にも同系色の色合いを乗せる。うん、いい感じ。
消太よりも少しだけ長い髪は全体を巻いてオイルをもみ込み、緩く後頭部にまとめた。
クローゼットを開けて服を悩んでいると片付けが終わった消太がやってきた。メイクが終わった私の顔を見て、口元を綻ばせる。
「…それ、新しいやつか?」
「よく分かったね。この前ついポチっちゃったの」
「そうか。似合ってる」
「…ありがと」
消太はよく褒めてくれるが、今日は髭がないせいか照れてしまう。恥ずかしさを隠すように、私は引き出しやハンガーにかかっている服を物色し始めた。
すると、いつもは黙って見てるだけの消太が、クローゼッットの奥にかけてあるカバーがかかったハンガーをおもむろに引っ張り出した。それは昔、消太が私に選んでくれたワンピースだ。なんだか勿体なくて、中々着れなかった宝物。
「…これにしろよ。ディナー、予約してるから」
「え…」
「…たまには、いいだろ」
そい言って、触れるだけの口づけを落とし、消太はリビングへと戻っていった。思わず顔が赤くなる、なんなんだ今日は一体、ディナー?いつも、デートの締め括りは近所の居酒屋だ。ディナーはもちろん、予約なんてことしたことがない。彼は一体どうしたってんだ。
熱い顔を軽く扇いで一息ついてから、カバーを外したワンピースを見つめる。シンプルなデザインで、カジュアルにもフォーマルにもなる、チャコールグレーのワンピース。今日のメイクにピッタリだな、なんて思いながら、これに似合うカーディガンを羽織ってリビングに戻った。
「よく似合うな」
本日二回目の誉め言葉を口にした消太は、既に着替え終わっていた。その姿を見てまたもや驚愕する。いつもはラフで動きやすいシンプルな恰好なのに、目の前の消太はグレーのスーツを身にまとっているではないか。身長が高く細身な彼によく似合っているのだが、あまりにもいつものデートと違いすぎやしないか。
「ねえ、あの、本当にどうしたの?」
「…変か?」
「いや変じゃないし、むしろすごく素敵だけどさ」
「ならいい」
準備ができたなら行くぞ、と。さっさと玄関に向かう消太に慌ててついていく。
今日は記念日でもお互いの誕生日でもないし、と疑問を抱きつつも、自然と重なる手に連れられて外に出た。
▽
「美味しい…夜景もとっても綺麗だし、こんなお店、初めてだよ」
行きたかった駅前のカフェも、買い物もできて、久しぶりのデートを満喫したあと、消太が予約してくれていたレストランにやってきた。夜景が見渡せる高層階にあるこのお店は静かな雰囲気で、ジャズの音色がやんわりと耳に響くのが心地良い。出てきたコースはどれも美味しくて、今は食後のデザートに舌鼓を打っている。
「…そうか。喜んでもらえて良かったよ」
優しい微笑みを浮かべている消太のデザートが、先程から全く減っていないことに気付く。
「…アイス溶けちゃうよ?」
美味しいよ、と。言葉を続けようとした時、消太は立ち上がり、向かい合う私の真横まで来て、そして片膝をついた。突然のことに、スプーンを持ったまま固まる。フロアにいる他のお客さんが、こちらをチラチラと見ているのが視界の端に入ったが、私の目を真っ直ぐに見つめる消太から目が離せない。
「ナマエ、」
消太は私の名前をハッキリと口にして、そしてポケットから小さな箱を取り出した。私に見えるように箱を開けてくれて、中には、一粒の宝石がついた指輪。驚きと、そしてそれが何なのか理解して、視界が一瞬で濁る。涙が頬を流れるのを感じながら向かい合うように体を動かすと、消太は私の左手をゆっくり持ち上げた。
「俺と、結婚してください」
迷うことなく頷くと、消太は指輪を私の左手にはめて、そして両手で優しく包んでくれた。どこからともなく拍手が鳴り響く。私は止まらない涙を拭うこともできず、左手を包む消太の両手に自分の右手を重ねた。
「…幸せにする」
見つめ合って笑い合い、消太の綺麗な瞳に吸い込まれるようにして、唇を重ねる。今朝から、いや、もっと前から、この時のことを考えてくれていたことが伝わって、ただただ嬉しかった。
大好きな人と過ごす名もなき今日は、新しい幸せの始まり。
20200604