一輪の花と一緒に


――間に合うだろうか…いや、絶対に“今日”帰らなければ。

そう独りごちながら、すっかり冷え込んだ夜の街を全速力で走った。駅前の花屋がシャッターを閉める間際に滑り込み、売れ残っていた一輪の花をラッピングしてもらう。アイツに似合いそうな花をじっくり選んで束にしてもらおうと思っていたのに、時間もなければ花の種類も少なくて。
結局ありきたりなバラを選んでしまうあたり俺は本当にセンスがない。けれど何も無いよりはマシだと頭を切り替え、店員に礼を言って再び走り出す。

仕事柄、同世代よりは鍛えていると思うが、歳も三十半ばを過ぎれば体力は衰える一方で。赤信号で立ち止まる度に膝に手を当て、息を整え、額から流れる汗を乱暴に拭う。そうしてまた、必死に足を動かした。

自宅のマンションに辿り着いた頃には、あと数分で日付が変わる時刻。エレベーターの階数ボタンと開閉ボタンを無駄に連打し、上昇するエレベーターの中で壁にもたれて深呼吸。我が家のフロアに到着したと同時に廊下を駆け抜けて玄関を開けた瞬間、パタパタと小さな足音が出迎えてくれた。


「おかえりなさい、直正さん」
「…ただいま」


風呂に入ったのだろう、寝間着に身を包んだ彼女――ナマエは、左手を背中に隠したまま突っ立っている俺を不思議そうに見つめる。


「お疲れ様です…どうかされました?」
「あ、ああ…その、」


ぜえぜえ。息が乱れて上手く話せない。落ち着こうと大きく息を吸って、吐いて、また吸って。そんなことを繰り返していると、今度は頭がフラフラしてしまい、思わず玄関に座り込んでしまった。


「え?!大丈夫ですか?!」


慌てて駆け寄ってくる彼女に、大したことないと言いたくとも口が上手く動かない。度重なる徹夜と激務の後に年甲斐もなく全力疾走したせいで、体が悲鳴を上げたのだ。格好悪いとか、情けないとか、そんな思いが込み上がってくる。しかし今は自己嫌悪している場合ではないと、俺は肩で息をしながらも左手を前に差し出した。のだが…。


「これは…」
「…!」


ナマエの驚いた声と、俺の声にならない声が重なる。
なんてこった、握り締めながら勢いよく走ったせいで、ラッピングはしわくちゃのボロボロ、さらに赤いバラの花びらは数枚散っており、もはや何の花だか分からない状態だった。


「直正さん…」


彼女が名前を呼んでくれるが、俺は絶句したまま動けない。最悪だ、最悪すぎる。いくら急いでいたからって、これはないだろう。花の一輪すらまともに持ち帰れない自分の馬鹿さ加減が心底腹立たしかった。
呆然としたままガックリ項垂れる俺の左手を、小さな白い手がそっと包み込む。顔を上げると、そこにはナマエの穏やかな笑顔。


「…覚えていてくれたんですね」
「…当たり前だろう」


――今日は、俺達が結婚して一年を迎える、大切な日なのだから。

語呂が良い日にしよう、なんて笑いながら婚姻届けを出したのが懐かしい。
俺達は元々、上司と部下だった。職場恋愛なんてしないと思っていた俺だが、ナマエの笑顔に惹かれていることに気付き、ある日の飲み会で酔った勢いに任せて想いをぶつけたのが始まり。

同僚達から「警察のマドンナを射止めたのが塚内警部とは、以外だな!」だの「八歳差?!ヒュー!塚内さん、やる〜!」だのと散々に言われたものの、真面目な付き合いを続けて三年…入籍したのが、去年の今日。

あれから一年。仕事を辞めて、俺に尽くしてくれる彼女にロクに構ってやれず、多忙を言い訳に夫婦らしいことも出来ない俺を責めるでもなく、いつも隣で笑ってくれるナマエ。

そんなナマエに、少しでも感謝の気持ちを伝えたかったのに。たぶん片手で数える程度にしか口にしていない想いを、花と一緒に贈りたかったのに。どこまでも不器用な俺は、そんな簡単なことさえ上手く出来ない。


「…本当は、お前に似合う花束を用意したかったんだ…なのに、すまない」
「どうして謝るんですか」


彼女は今にも枯れ落ちそうなバラを優しく受け取って、目を細めて笑った。


「…私、とっても嬉しいです。記念日に直正さんがお花を持って帰ってきてくれるなんて…夢みたい」


そう言って、はにかむナマエがあまりに可愛くて。こんなどうしようもない俺に向かって、照れたような表情を浮かべてくれるナマエが、とても…愛しくて。思わず両手を伸ばし、俺よりもずっと小さな体を抱き締めた。玄関に座り込みながら、それも風呂に入った後に、こんなむさ苦しい汗ばんだ男に引っ付かれるなんて嫌だろうが、それでも、触れたくてたまらなかったのだ。
ぎゅっと抱き寄せ、シャンプーの香りがする髪に顔を埋めて、ずっと伝えたかった言葉を呟く。


「…いつも、ありがとう」
「…こちらこそ。お花、本当に嬉しい」


細い腕がゆっくりと背中に回される。自分よりも低い体温が擦り寄ってきて、ひどく心地いい。思えば、こうして彼女に触れるのも随分と久しい気がする。
愛しい温もりを噛み締めるように力を込めれば、「痛いです」なんて楽しそうな笑い声が上がったので、つられるように俺も笑った。


「なあ…」
「はい?」
「…明日、休みなんだ」
「えっ」


腕の中でビクッと震える華奢な肩を逃さないよう、しっかり捕まえたまま、彼女の顔を覗き込む。


「…だから、寝るのは待っててくれないか」


きっと今、俺の顔は真っ赤に違いない。けれど、ぎこちなくも頷いてくれたナマエも同じくらい頬を染めていたので。俺達は額をくっつけながら、また笑い合って、それから触れるだけのキスをした。

――いい夫婦の日。俺達の、結婚記念日。時計の針はとっくに明日を差しているが、滅多に言わない愛の言葉を囁くまで、まだ今日は終わらせない。



20201122 いい夫婦の日
プラス再録。


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