甘いのは貴方か私か


喧騒に包まれている街を見下ろしながら、買ったばかりのブラックコーヒーを一気に飲み干していく。本当は甘いカフェオレが飲みたかったけれど、この凄まじい眠気を覚ますには苦みが必要だった。


「はあ〜あ…若者は気楽でいいよなー…」


こちとら繁盛期のせいで休日出勤プラス残業確定だってのに。ビルの屋上から見える風景はどこも賑やかで微かに笑い声まで聞こえてくるのだから、心底腹立たしい。


「なーにがハロウィンよ…」


変な着ぐるみの集団に、リアルすぎる血みどろメイクの女の子達。楽しそうに徘徊している奴ら全員ヴィランと間違われて職質されればいいのに、なんて悪態をつきながら溜め息を吐いた。

――今日は十月三十一日、街はコスプレをした若者で溢れ返っている。

自分とは真逆ともいえる光景を一瞥し、フェンスに背中を預けて薄暗い空を仰いだ。まだ夕方なのに日が落ちるのが随分早くなったと思いつつ、吐く息が白ずむ様子をぼんやり眺める。休憩時間はあと十分、息抜きをしたくて誰もいない屋上に来たものの、こんな僅かな時間で疲れが取れることはなかった。

今日は何時に帰れるだろう。ここ二週間まともに寝ていないし、ご飯もほとんど食べていない。毎日死んだように眠り、数時間もしない内に出社。そして日付が変わる頃まで仕事に没頭しては寝る為に帰宅して…その繰り返し。あと数日もすれば落ち着くだろうが、それまで自分の体がもつのか疑問である。

度重なる長時間のデスクワークで凝り固まった肩をほぐそうと伸びをすれば、なんと肩だけでなく首までバキッと盛大な音を立てたので驚いた。痛い。


「すっごい音しましたね〜」
「うわっ」


さらに突如、上から聞こえた声にビックリして顔を上げると、そこには同棲している恋人の姿が。「そんな驚かんでも」と笑いながら、彼は赤い翼を緩やかに羽ばたかせて隣に降り立った。今はパトロール中で、私の姿を見つけて寄ってくれたらしい。


「ナマエさんは今日も残業ですか?」
「うん。ごめんね、最近ずっと家事任せっきりで」
「気にせんでよかよ。俺も今日は帰れんやろうし」
「ああ、そっか…ハロウィンだもんね…」


痴漢やらスリやら酔っ払いやら。人が密集するイベントでは小さなイザコザが多いのでヒーローは大変だろう。ここは彼の管轄地区なので尚更だ。

…それにしても、こうやって言葉を交わすのは久しい気がする。同じ家に住んでいても互いに帰宅時間も生活リズムも違うから仕方ないのだが、やはり好きな人と話せるのは嬉しい。屋上に来て良かった。

しばらく他愛ない話をしていると、彼は思い出したかのように「…あ、そうだ」と口を開き、


「ねえねえ、トリック・オア・トリート」


にこっと笑いながら続けた。


「…へ?」
「だから、トリック・オア・トリート」


一瞬ポカンとした後、ああ、お菓子かと気付いて、慌ててスーツのポケットに何か入っていないか探す。が、出てきたのは“強力!!48時間眠気覚まし”と書かれたガムだけだった。


「…これで良ければ」
「うわ、身体に悪そう。却下」
「えー…これしか持ってないや…」


ごめんねと謝ると、彼は楽しそうに口元を引き上げながら「じゃあ悪戯ね」と呟き、次の瞬間には私の体をヒョイと横抱きにして、地面を蹴るように飛び上がっていた。


「えっ、ぎゃあああ!!待っ、待って!!」
「ハイハイ、しっかり掴まらないと落ちますよ〜」
「ちょ、ちょ、ひい〜〜〜!!」


咄嗟に腕を回し、彼の首が折れるんじゃないかってくらいの力を込めて必死にしがみ付く。耳元で「痛い痛い」と聞こえた気がするがそれどころではなかった、私が高いところ苦手だって知ってるクセに何をするんだ。そう非難したくとも感じたことのない浮遊感と風を切るような音が耳に響き、目をギュッと閉じてひたすら恐怖に耐える。
そうして、全身に浴びていた刺すような空気が穏やかなものに変わった頃、彼は小さく言った。


「ね、目を開けて」
「むむ、無理、絶対無理…!」
「大丈夫大丈夫、ゆっくりでいいから」


優しい口調に誘われるように、恐る恐る、睫毛を震わせながら瞼を上げる。その瞬間、視界いっぱいに広がる景色に言葉を失った。

自分がいた場所がどこか分からないほど高い。普通なら怖いはずなのに、背中と膝裏に回された温かい腕に安心して、気付いた時には彼に引っ付きながらも辺りを見渡していた。
冷たい風の音が心地良いほどに静かで、交差点を通る車のライトやビルの灯りが溶け合う空の上は、まるで光の海にいるように幻想的で、とても。


「…綺麗」
「…気分転換になった?」
「え…」
「疲れた顔してたから」


彼は笑って、私の目元に優しく唇を落とす。


「クマもすごい。また無理してるでしょ」
「…」
「ホントナマエさんは頑張り屋さんだね、偉い偉い」


仕事がひと段落したら、一緒にゆっくりしようね。そう言いながらギュッと抱き締められ、思わず目が潤んだ。彼の気遣いや言葉がじんわりと胸に広がって涙がこぼれる。温かい身体に密着しながら、ふわふわの髪に顔を埋めた。


「ありがと…ふふっ、私お菓子あげてないのに、これじゃ全然悪戯じゃないね」
「あ、ここから悪戯開始です。絶叫マシン並みに急降下しよっか」
「え」
「3、2、1…」
「ままま待って!勘弁して!」
「あはは!冗談だよ〜」


声を上げて笑う彼につられるように、私もなんだか馬鹿らしくなって笑う。「やっと笑ってくれた」と目を細める彼は私の瞳に残る雫を唇で掬って、額、頬、赤くなった鼻先と順番にキスを落とし、最後にリップ音を立てながら口に触れて。


「お菓子なんかいらないよ。ナマエさんが十分甘いから」


恥ずかしい台詞に私の顔は一瞬で真っ赤になって、それを見た彼が「りんご飴みたい」と笑いながら今度は耳にまで唇を寄せてくるもんだから、逃げるように再度、彼の胸に抱きつく。

さっきまでの鬱々した気分は何処へやら、今ではすっかり消え去って、ただ楽しくて、幸せで。

…ハロウィンも、存外悪くないのかもしれない。



20201031 ハロウィン
プラス再録。


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