殺風景な部屋に彩りが宿り始めたのは、いつからだったか。電動歯ブラシと歯磨き粉、髭剃りだけが乱雑に置かれていた洗面台には今、猫柄のコップと赤い歯ブラシが追加されている。小さなテレビとローテーブルしかなかったリビングには気付けばクッションやら本やらが転がるようになり、必要最低限の衣類が片付けられていたスカスカのクローゼットはもう一杯で、一張羅のスーツは無残にも奥に押し込められていた。
ヤカンだけが存在していたキッチンなんて大渋滞だ。見たことのないスパイスや数々の調理器具、所狭しと並ぶ二人分の食器。お揃いがいいというアイツの要望通り、対になる物を一緒に選んだ時間はむず痒くも、優しい気持ちが胸にじんわり広がったことを今でも鮮明に覚えている。そう、俺は覚えているんだ。忘れられる訳がないだろう、確かに在った幸せを。
「貴方は、誰ですか?」
無機質な白い部屋、ベッドの上。頭に包帯を巻いた痛々しい姿で一言だけ発せられた言葉に、目の前が真っ白になる。穏やかな日常というものはこんなにも呆気なく、突然壊されてしまうものなのかと、開いた口が塞がらなくて。そんな俺を見ている彼女の瞳は不安げに揺れており、たまらなく泣きたくなった。
街中で敵の抗争に巻き込まれ、頭部を強打。命に別状はなったものの、敵の一人に忘却の個性を持つ者がおり、そいつと接触してしまった彼女は俺との記憶だけを失くしてしまったらしい。綺麗サッパリ跡形もなく。
「…俺、は、」
自分とは違う柔らかい髪に手を伸ばすと、彼女はビクリと肩を震わせ、怯えたような表情を向けた。咄嗟に引っ込めた手が虚しく宙を掴む。「あ…、すみません」と気まずそうに目を逸らされ、初めての拒絶に、言いようのない悲しみが全身を駆け抜けた。
もう、何一つ残っていないというのか。全て消え去ったというのか。あんなにも鮮やかで愛しい、共に過ごした日々を、くだらないことで笑い合って、互いの体温を分け合うように眠って、幸福に溢れた毎日を。全部、なかったことにしろというのか。
――そんなの、絶対に嫌だ。
頼りなくシーツを握っている、小さな手に触れる。今度は拒否されず、けれども戸惑いの顔のまま首を傾げられた。何も知らない大きな瞳に、精一杯の笑顔を浮かる自分の顔が映る。
「…俺は、覚えてるよ」
「…」
「俺が全部、覚えてる」
例えお前から記憶が消えようとも、俺の中に残ってる全てを伝えていく。思い出すまで何度だって繰り返してやる。けれどもし何をやっても戻らなかったら…その時はまた最初から作っていけばいい、やり直せばいい。どれだけお前を想っているか、どんなに大切なのか、何度だって気持ちを告げるから。だから、
「…だから、大丈夫だ。ナマエ」
小さく言うと、白い頬に涙が一筋流れた。壊れ物を扱うように拭えば、彼女は小さく笑って、俺の手に自分のそれを重ねる。
「教えてください。貴方のこと…全部」
「…ああ」
時間がかかってもいい、また恋を始めよう。そしていつの日か愛に変わる時まで、ずっとずっと、傍にいるから。
20200926
プラス再録。