五年程前。少しだけ、気になる人がいた。
名はイレイザー・ヘッド。本名は知らない。お互いメディア嫌いで人前に出ることは滅多に無かった。共にアングラで活動していた為いつの間にか一緒に仕事をすることが多くなっていたが、彼との間に余計な会話は無く言葉を交わすのは仕事内容のみ。
くたびれた黒服を全身に纏う、伸びっぱなしの長い髪と無精髭が印象深い、どこか小汚い男。多くを語らず、でもいつも捨て身のような、それでいて誰よりも真っ直ぐな彼のことが、なんとなく気になっていたのだ。
だからといって何か行動を起こすことはなかった。この気持ちが何なのか薄々気付きながらも相手は合理性を追求している無駄を嫌う男だ。どうにかなる訳あるまい。それに、同業者同士で愛だの恋だの面倒な問題を抱えるのは私も御免だった。
だからヒーロー委員会から九州での長期任務を任された時、二つ返事で了承した。いつ終わるか分からない大きな任務で東京に戻れる目途も無かったのだが、独り身の自分には丁度いいし、彼から物理的に離れられれば、この淡い気持ちも消え去るだろう。そう思ったから。
一応、別れの挨拶くらいしておこうとしたがバタバタしてしまい、結局何も言えないまま私は東京を離れた。
予想以上に大変な任務に彼の事を考える暇もなく仕事に没頭し。たまの休日に思い出してはやはり一言くらい告げれば良かったと後悔する日々。
けれども、そもそも連絡先も何も知らず、共に仕事をする時も事務所を介していた為、どうすることもできないまま時は過ぎ、思い出も色褪せて、大きな仕事も落ち着いた頃。
風の噂で、彼が雄英高校の教師になっていたことを知った。驚きすぎて椅子から転げ落ちた。あの一匹狼だった男が教師?何かの間違いなのでは。いやでも彼は周りをよく見ており意外と面倒見が良かったなと、一人納得する。
そして驚きは続くもので、しばらくしてから私にも「雄英で教師をしないか」という誘いがきた。しかも校長直々に。なんでも九州での任務の働きが認められたらしい。是非とも教鞭を取って、未来ある子ども達の為に働いてくれないか、と。
おいおい嘘だろ、なんで私が。そう思ったのに気付けば頷いていた私の心を占めるのは、「また彼に会える」という小さな期待。
だがしかし、いざ赴任の日を迎えると激しい後悔が襲ってきた。現在は春休み中、人通りのない大きな校門の前で一人頭を抱えながら右往左往する様子はとてもじゃないがヒーローには見えないだろう。だいたい今更会ったところで何を話せばいい?彼は私の事なんて微塵も覚えていないかもしれない、いやきっと忘れているだろう。無理だ気まずい、やっぱり断ろう。
そう思って顔を上げようとした時、ガシッ、と効果音が付きそうな勢いで何かに腕を掴まれた。何事だと目線を向けて、息が止まる。
「…やっぱり、ミョウジさんだ。お久しぶりです」
「あ…」
言葉を忘れる程、衝撃的だった。
今目の前にいる、ずっと想いを寄せていた男は、あの頃よりも少し歳を重ねているように思えるが何も変わっていない。相変わらずくたびれた黒い服に、首に巻き付いている薄汚れた布。数年会っていなかったのに、たった一目その姿を見ただけで顔に熱が集まるのが分かった。
「もうオールマイトさんも来てます、校長が待ってるんで行きますよ」
「え、あの、」
彼は固まる私の腕を掴んで引っ張るように敷地内へと入っていく。悩んでいる内にいつの間にか指定された時間をとっくに過ぎていたらしく、彼の歩幅は異様に大きくて、走らなければ追いつけない。私と同時に教師になるNo.1ヒーローを待たせてしまうのは申し訳ないが、いやでも腕が熱くて正直それどころではない。
それにさっき、「ミョウジさん」と言わなかったか。新人教師についてのデータを見たのかもしれないが、初めて呼ばれた自分の名に脳内は軽くパニック状態で。
そうこうしているうちに校長室に到着し、オールマイトさんと一緒に根津校長から色々と話を聞いて職員室へ案内された私は、またもや驚く。
「HEYHEY!!可愛い子ちゃんが同僚になるなんて最高だぜ!なあイレイザー?!」
「マイクうるさい、驚いてるだろうが」
「私は香山よ。女性同士、若い男の汗について語り合いましょうね!」
「先輩それはセクハラです」
目の前で繰り広げられる騒がしい光景に唖然とする。彼はこんなにも普通に喋る人だったのか。一緒に仕事をしている時は無駄口なんて一切なく九割は無言だったのに。いや、それはただ私相手だったからで彼は元々こういう人間だったのかもしれない…そんな様子を見て寂しいような新たな一面にドキドキするような、不思議な感覚。
ぼんやり彼を見ていると少し充血している鋭い瞳が私に向いた。
「ミョウジさん、」
「は、はい」
「改めてよろしくお願いします。学校では相澤って呼んでください」
「あ、相澤…さん」
彼の名前は、相澤。噛みしめるように言うと彼はフッと小さく笑って、「席はここです」と案内してくれた。ちょうど彼の斜め前のデスクには真新しい教科書や名簿なんかも置かれており近すぎる距離にドギマギしていたのだが、次の瞬間には仕事内容についての説明が始まったので慌ててメモを取る。
時間は有限、が口癖の彼らしく、実に無駄のない、それでいて分かりやすい説明に首を縦に振りながら必死で頭に叩き込んでいると気付けば夕方。チャイムと同時に大きな声が職員室に響いた。
「YEAHHHHHH!!今日は新人お二人の歓迎会だぜー!続きは明日にして、早速居酒屋LET’S GOー!!」
「えっ、え?」
「さあ行きましょうミョウジさん、あ、ナマエちゃんって呼んで良いかしら?それともヒーロー名の方がいい?」
「あ…いえ、学校では名前でお願いします…」
「じゃあ俺もナマエちゃんって呼んじゃお〜っと!さあさあ行こうぜ!」
まるで嵐のような二人に引っ張られて席を立つ。そんな私達を横目に見ながら立ち上がった彼は隣でパソコンを睨んでいるオールマイトさんに向かって「俺らも行きましょうか」と声を掛けていた。
飲み会なんて断りそうなのに、彼も参加するのか。驚きと共に沸き起こる嬉しい気持ちに戸惑いながらも、マイクさんと香山さんに両腕を引かれて近くの居酒屋へと向かった。
▽
勧められるがままアルコールを飲んでいく。久々のお酒は実に美味しい。彼は離れた席でチビチビと飲んでいるが、時折目が合うのは私がつい見つめてしまっているからだろうか。
マイクさんと彼は同じ年で、香山さんの後輩らしい。つまりは私より二歳年上。もっと上かと思っていたな、と思いつつ、愉快な同僚たちの話に声を出して笑っていると楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「っしゃー!二次会行くぜー!」
ビール瓶をラッパ飲みしていたマイクさんはお酒に強いらしく、同じく顔を赤くした香山さんと肩を組み合って楽しそうに笑っている。しかし私は久しぶりのアルコールをつい飲み過ぎたらしく、気分は宜しくなかった。オールマイトさんはお酒は飲めないらしいが素面なのに酔っ払いと普通に喋っている、すごい。
割と気持ち悪いのだが、一応主役の自分が抜けていいものかと悩みつつ俯いていると、何かに腕を掴まれた。ん?この感覚は今朝と同じ…
「大丈夫ですか」
「イレ…あ、相澤さん…」
なんと、彼がまた私の腕を掴んでいる。あまり飲んでいないらしくフラフラしている私とは違ってしっかりと立っていた。何事だと思っていると「おいマイク、俺はミョウジさんを送ってく。二次会はパスで」「はいよー!」との会話が聞こえ、目を見開く。
それから「家は?」と聞かれ、呆然としたまま住所を告げると近くのタクシー乗り場に連れていかれて待機していた車に乗せられた。そして何故か彼も隣に乗り込む。驚いていると、前を向いたままの彼が一言。
「ちゃんと歩けないでしょ。家まで送ります」
それからの車内は無言だった。あの頃のように特に何も話さないが居心地が良い時間が流れる。肩が触れそうな距離に夢なのではと錯覚してこっそり頬をつねるが痛い、夢じゃ、ない。
しばらくしてマンションに到着すると、彼がさっとお金を払ってくれた。慌てて財布を取り出そうとするも千鳥足が絡まって転びそうになり、彼の大きな体に受け止められる。
「ご、ご、ごめんなさい、すみません」
「危ないですね、ほら掴まって」
「なっ、あ、あの、」
「いいから、また転びますよ」
一人で歩こうとすると今度は腰に手を添えられた。突然密着する温かい体に咄嗟に離れようとするもガシリと掴まれ、どうにもできない。無理矢理支えられるような形でエントランス、そしてエレベーターへと入る。
「何階ですか?」
「…あ、…えと、七階、です」
閉まるボタンを押した彼は、私を見下ろした。腰に回されていた腕が動いて、エレベーターの壁が背中に当たる。足が絡まっていて、まるで正面から抱き締められているような姿勢。身長の高い彼は、私の耳元に近付き。
「…ミョウジさんって、結構お酒好きなんですね」
「え、ま、まあ、はい…」
「あと、よく笑うんですね」
「え…」
「知らなかったです」
ありえない至近距離でポツポツと言葉をこぼす彼に、言葉を失う。思わず見上げそうになったが、額にかかる吐息に顔を上げることができない。
「あ、あの…」
「…なんで、あの時、教えてくれなかったんですか」
「あの時…?」
「長期任務で九州、行ってたんでしょう。なんで俺に言ってくれなかったんです」
どこか責めるような口調に、私は今度こそ何も言えなくなった。なんで、そんなことを言うの?もう数年も前のことなのに、そんなこと言われたら…
戸惑っている間にエレベーターは到着し、彼は相変わらず密着した状態で歩き出した。半分抱き締められている状態で歩きづらいが、それどころじゃない。
「待っ、待ってくださ…」
「部屋は何号室です?」
「え、…七一〇号、…って、え、だって、あの時、私、イレイ…相澤さん、の名前すら知らなかったですし…連絡先も…だから…」
酔いと、戸惑いと、驚きと、微かな期待に、とにかく上手く話せないが彼の黒い服をギュッと握って必死に伝えた。
「…俺は貴方の名前、出会った頃から知ってましたよ」
「へっ」
「…ナマエ」
「っ!」
部屋の前で立ち止まった彼が、少し屈んで耳元で呟く。心臓が止まるんじゃないかってくらい、大きく跳ねた。
「俺ね。貴方が雄英にくるって知ったとき、年甲斐もなく、かなり喜んだんですよ」
「え…」
「やっと…また会える、って」
顔を覗き込んできた彼は、優しく笑う。思考回路が止まって黙っていると「鍵は?」と聞かれ、つい差し出してしまった。
何の迷いもなくガチャリとドアを開けた彼は少し強引に私の体を玄関に入れて、後ろ手で内鍵を閉める。そして今度こそ、真正面からギュッと抱き締められた。
「ちょ、ちょっと、あ…あの、」
背中と肩に回された太い腕の感触と、首筋にかかる熱い吐息。
「いきなり会えなくなって、すごく不安でした。嫌われたのかって思ってたんですけど…どうやら、違うみたいだな」
少し力が緩んだ瞬間、顎を掴まれて上を向かされる。真っ直ぐな目に吸い込まれるように、唇が重なった。一瞬で離れたそれは、熱くて。
「好きです。出会った頃からずっと…もう離さないんで、よろしく」
にやり、と。
まるで悪人のように笑う彼に、私はやはりこれは夢なのではと思いつつ。
再び角度を変えて近付いてきた整った顔に見惚れながら、目を閉じた。
20200726
補足…ずっとナマエさんのこと好きだったけど口下手なので一緒にいられるだけでいいと思っていたが突然姿を消したナマエさんに焦りまくって次会えたら何がなんでも気持ちは全部伝えようとした結果、ナマエさんの反応を見て両想いだと確信して送り狼になってしまった強引な相澤先生でした。