花粉症のち、風邪のち、


「ぶわっっくしょい!」
「え」
「どあっくしょん!ずびー!」


静かな職員室に響き渡る特大のくしゃみ。試験の採点をしていた相澤は思わず手を止め、声がする方へ顔を向けた。左斜め前のデスク、マスクをした同僚が目を擦りながら今もなお「ぐへっくしょん!」と訳の分からない盛大なしゃみを放っている。


「…風邪ですか?」
「ごあっっくしょぉい!!え?ああ、花粉症です…ぶわぁぁっくしょいやコラァ!」


普通科のクラス担任をしているミョウジナマエは相澤に背を向けるように椅子を動かし、横を向いて鼻をかんでいる。ちらりと見えた鼻はティッシュで拭きすぎて赤い。目もショボショボするのだろう、涙目で非常に眠そうだ。相澤も花粉症を持っているが彼女まで酷くはない。くしゃみは煩いが、可哀想だと思う。


「薬は?」
「朝飲んできました…でも全然効かなくて」


プロヒーローと教師を兼任している自分達は多忙の為、病院に行く時間すら作れないことが多い。今は市販薬も充実しているが、ここまで発症してしまったら効果は期待できないだろう。同僚はくしゃみのし過ぎで声も若干嗄れている。おそらく余計な掛け声のせいだなと思いつつ、相澤は常備している個包装の喉飴を引き出しからから取り出し、机越しで差し出した。


「気休めですけど。どうぞ」
「え…あー、ありがとうございます」


控えめに伸びた小さな手に飴を乗せた時、一瞬触れた彼女の体温に驚いた。かなり熱い。手から炎でも出すつもりかという程に熱を持っていた。


「あの、ミョウジ先生、」


帰った方がいいんじゃないですか。そう言葉を続けようとしたが、ガラッというドアの開く音と「相澤先生はいらっしゃいますか?!」という大きな声に遮られた。顔を向けるとクラス委員長の飯田が背筋を伸ばして立っている。


「どうした」
「先程の授業内容について質問があります!」


横目で同僚を見ると、彼女は鼻をズビズビさせつつ授業の準備をして席を立って行った。大丈夫なのかと疑問に思いつつも、相澤は目の前でノートを広げる生徒に向き合った。












放課後。ホームルームを終えた後すぐに補修を始め、そのまま教室で仕事を片付けていたら気づいたら20時。道理で暗い訳だと思いつつ鍵を閉めて職員室に戻ると、まだ灯りが点いていた。

ドアを開けて部屋内を見渡すが誰もいない。戸締りも電気も消さないなんて最後の奴は誰だと舌打ちをしながら自席に戻った相澤は、ギョッとする。


「…ミョウジ先生、」


左斜め前のデスク、そこで、同僚が腕を枕にするようにして俯いていたのだ。誰もいないと思っていた相澤は少しだけ跳ねた心臓を落ちつけつつ、先程とは打って変わって静かな彼女に声を掛ける。しかし、返事はない。


「ミョウジ先生、寝てるんですか?」
「…」
「…首痛めますよ?」


何度声を掛けても返答がないので彼女の席に回り込んで肩を軽く揺すってみた。髪の隙間から覗く横顔は赤く、眉間にはシワが寄っている。マスクをした状態で突っ伏して寝ているのだ、そりゃ苦しいだろう。
どことなく息も荒く聞こえて、思わず赤い額に手を伸ばすと熱い。花粉症と風邪が同時に発症している。やはり、さっきちゃんと帰るように言ってやれば良かったかと思っていると、


「うぅ、きもぢぃ…」


と、相澤の冷たい手が気持ち良いのか、少し表情が柔らかくなった彼女は呻き声のような寝言を呟く。なんとなく相澤が両手で彼女の顔を包んでみると、眉間のシワは消え、辛そうな目元が緩んだ。


「なんて顔してんだ…」


いつも強気で飄々としている同僚の見たことのない表情に、柄にもなく、なんかコイツ可愛いなと一瞬思った相澤は、彼女のデスクの隅に見覚えのある個包装の飴を見つける。小さな付箋が貼っていて、そこには、

【食べるな、家宝】

と、赤ペンで殴り書いたような文字。


「家宝…?」


食べるな、って…いや食べてくれよ。それに家宝?自分があげた、このどこにでも売ってる飴が?何故?
そう考えていると、彼女が「うーん…」と声を上げたので手を離した。ゆっくりと目を開けた同僚の顔を覗き込む。


「おはようございます」
「…」
「ミョウジ先生?」
「ぎゃぁああああ!!」


ガバッと効果音がつきそうな勢いで飛び起きた彼女が椅子から落ちそうになったので、慌てて支える。


「…大丈夫ですか」
「え、えっ…え?!な…、え?!」
「あ、鼻水垂れてますよ」
「嘘?!」
「嘘です。マスクで見えてません」
「…」


明らかに狼狽えながらも相澤を睨む彼女は、ちょっと寝たらマシになったのか冷たい手が気持ちよかったのか、思ったよりも元気そうだ。相澤は一先ず安堵し、自席へ戻って片づけを始める。


「仕事は?」
「あ、え…あぁ、もう、終わりです」
「じゃあ帰りますよ」
「え?」
「熱、あるでしょ。花粉症が酷いと風邪引くこともある。さっさと帰った方がいい」
「あ…はい」


彼女の席に再度回って、デスクに散乱している荷物を適当に端に寄せる。それから、椅子に座ったまま、まだ若干ぼんやりしている彼女の額に手を当てた。


「熱高いですね」
「えっ、」


突然の行動に驚いた彼女は硬直したが、相澤は素知らぬフリで続ける。


「これだったら食べやすいでしょう。どうぞ」
「あ…どう、も…」


箱買いしているゼリー飲料を差し出すと、彼女は目をパチパチさせながら受け取った。


「これは家宝にしないで、今すぐ食べてくださいね」
「!!」


デスク上の飴に視線を向ける相澤に、彼女はマスクをしていても分かるほどに絶句し、そして顔を真っ赤にして。しかし相澤は、慌てた様子で飴を隠そうとする細い腕を掴んだ。


「もう遅いですよ。バッチリ見ました」
「…も、申し訳ございません」
「クッ…なんで謝るんです?」
「いや、あのホント…とりあえず離してください」
「無理。このまま帰りますよ。送っていくんで」
「え?!けけけ結構です間に合ってます!」


慌てふためく彼女の熱は、きっと上昇しているだろうな。そう思いながら、相澤は込み上げる笑いを堪え切れず声を出して笑う。

花粉症のち、風邪のち、多分、恋。



20200727


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