優しい居場所


無機質な着信音が聞こえた。同時に、体に覆い被さっていた温もりが離れていく。ホークスがゆっくりと目蓋を開けると、さっきまで自分の上で眠っていたはずの亜希が、スマートフォンを片手にベランダへと出て行く背中が見えた。

ホークスは欠伸をしながらソファーから起き上がる。少しだけ昼寝をする予定だったが、気付けば部屋の中には夕陽が差し込んでいた。


「…仕事の電話かな」


窓の向こう側、ベランダに立つ小さな後姿をぼんやりと見つめる。わざわざ外に出るということは自分に聞かれたくない内容なのだろう。電話の相手は、彼女の上司である塚内だろうか。もしかしたら呼び出しなのかもしれない。亜希は明日まで謹慎の身ではあるものの、ステインが逮捕されて大忙しの現状では、十分にありえることだった。

薄い部屋着姿で夕陽に照らされている亜希の黒髪が風に揺れて、彼女の横顔が覗く。そこには先程までの穏やかさは一切なかった。どこか冷たささえも含んだ顔に、その鋭い目付きに、ホークスは息を飲む。

隙のない、表情。
端麗な顔が、より冷徹さを助長している、あの顔は。出会った頃の亜希と、とても似ているものだったから。

亜希はよく笑うようになった。声を上げるような大きな笑い方ではないが、それでも柔らかい笑顔を向けてくれるようになったと思っていた。

けれど彼女は今も、あんなにも感情の読めない顔をするのか。自分の前では柔らかくて可愛らしい、優しい微笑みを浮かべてくれるというのに。
ホークスはただ驚いて、亜希をじっと見た。そして、


「あ…」


思わず声が出て、ソファーから立ち上がる。

空が暗闇に染まる瞬間。沈んでいくオレンジの光に包まれた亜希の姿が、以前、東京タワーの屋上で、彼女が元の世界へと吸い込まれそうになった光景と、重なったのだ。


――待って、行かないで。


声にならない言葉が脳裏に浮かぶ。ホークスが慌ててベランダに駆け寄って窓を開けようとした時、ちょうど電話が終わったのか亜希の方から部屋に入って来た。


「あ、ごめん起こしちゃった?」

「亜希、さん…」

「……どうしたの?」


自分を見つめたまま呆然と立つホークスに、亜希が首を傾げる。その表情は、いつも自分に向けてくれる、穏やかな笑みだった。

それが無性に愛しく感じてしまうのは、なぜだろう。ほんの少し離れただけで不安に煽られ、彼女をこんなにも求めてしまうのは、どうしてだろう。

薄暗くなった部屋で、ホークスは彼女の腕を掴んで抱き寄せた。後頭部と腰に腕を回して、首筋に鼻を埋めて、縋り付くように強く。


「…亜希さん、消えちゃいそうだった」

「え?」


突然のホークスの行動と言葉に驚きつつも、亜希は彼の背中に手を回して抱き返した。赤い翼が垂れ下がったように見えて、付け根の羽をそうっと撫でる。


「……どこにも、行かんで」


静かな部屋に、ホークスの小さな、絞り出すような声が響く。彼女は自分が気付かぬ内に、自分が知らない内にどこか遠くへと行ってしまう気がしてならなかったのだ。自分が亜希を掴んでいなければ、この小さな体は一人で前へ前へと進んでいく。笑顔を知らなかった頃の無表情にも近い冷たい顔で、いってしまう。そんな錯覚が心の中から消えてくれない。


「啓悟、」

「…俺の傍から、離れんで。お願い」


ぎゅう、と力を込めると、亜希が「痛い痛い」と、小さく笑った。


「…何笑ってんの」


自分はこんなにも不安で、心配で、寂しいのに。そう思いながら少し不満気に亜希の顔を覗き込むと、優しい表情の彼女と目が合った。


「…啓悟、私が貴方から離れるなんてこと、ないよ」

「…」

「どれだけ遠くにいたって、私の居場所は啓悟の隣だけだから」

「…ん」


亜希の手がホークスの頬の添えられる。体温の低い指先の感触が、気持ち良かった。


「だから、そんな泣きそうな顔しないで。啓悟には笑っていてほしい」


亜希が背伸びをして、ホークスの頬に唇を寄せる。それから黄土色の髪を優しく撫でて、「大好きだよ」と囁いた。

彼女の方からキスをしてくれるのが嬉しくて、じんわりと胸が満たされていく。


「…俺も、大好きだよ」

「あ、でもごめん。呼び出されたから仕事行かなくちゃ」


ホークスの台詞に若干被せながら、亜希が思い出したように言った。ちゃんと最後まで聞いてくれよと思いつつも、いつもの調子の彼女にホークスは不貞腐れながらも笑う。


「えー…俺から離れんって言ったばかりなのに?」

「…それはそれ、これはこれ」


そうして、こつんと額を合わせて。立ったまま抱き合い、今度は互いの唇を重ねた。触れ合うだけの軽いキスなのに、今はそれだけで十分だった。


「そう言えば、謹慎って明日までじゃなかったっけ?」


ホークスが黒髪を撫でながら疑問を口にすると、亜希はふっと、自然な動作で目を逸らした。


「…今、本部は忙しいから」


そう言って、ホークスの返事を待たずに腕からするりと抜け出した彼女は寝室に向かい、クローゼットから仕事着であるスーツを取り出す。


「着替えるから、あっち向いててね」

「もう素っ裸だって見てるんだから、着替えの一つや二つくらい別にいいでしょ」

「殴られたいの?」

「すいません」


寝室のスライド式のドアが、バタンと大きな音を立てて閉められてしまった。今更、着替えごときで恥ずかしがらなくてもいいだろうに。
ホークスはぶつくさ文句を呟きつつ、ドア向こうの彼女に声をかけた。


「すぐ行くの?」

「えっと…三十分後くらいに家を出れば大丈夫」

「じゃあ、少し早いけど何か晩ご飯作ろうか?腹減るでしょ」

「いいの?」

「うん。亜希さんは準備してて」

「…ありがとう」


衣擦れの音が微かに聞こえる。ドアを開けてやろうかと一瞬イタズラ心が湧いたが、亜希に殴られたら絶対に痛いだろうと思い、大人しくキッチンへ。

冷蔵庫を開ければ、やたらと鶏肉が入っていた。明らかに一人の量ではない。おそらく自分の好物だから買ってくれたのだろう。…いささか買い過ぎだが、彼女の気持ちは嬉しい。

時間がないので今は大した物は作れないが、亜希が出勤した後にでも、いくつか作り置きを用意してあげようと思う。

そんなことを考えながら冷凍の白米をレンジで解凍しつつ、適当に材料を切って、炒めて、簡単に味付けをした野菜炒めと味噌汁が完成した頃。準備を終えた亜希がリビングにやって来た。


「もう出来てる…啓悟は本当に手際がいいね」

「そんなことないよ。ほら、あんまり時間ないから食べて」

「うん、いただきます」


亜希が席につき、美味しいと感想を言いながら大きく口を開けて料理を平らげていく。相変わらず良い食べっぷりだと感心しながら眺めていたホークスだったが、ふと、思い出したようにポケットから自分のスマートフォンを取り出した。


「ねえねえ、亜希さん」

「ん?」

「食べ終わったら一緒に写真撮ってよ」

「え」


突然の申し出に亜希の動きが止まる。ホークスは特に気にせずに言葉を続けた。


「また、しばらく会えないでしょ?だからせめて亜希さんとの写真が欲しい」


何十枚にも及ぶ彼女の寝顔は、今もしっかり写真フォルダに入っている。しかし、亜希の笑顔も手元に欲しかった。東京に来る前に相棒達から言われたから、という訳ではないし、彼らに見せる気も毛頭ない。ただ、


「…寂しい時に、見たいんだ」


それだけだった。

ねえ、いいでしょ?そう言いながら亜希の隣に座る。いつの間にか料理を完食していた彼女はお茶を一口飲んで、「……別に、いいけど」と素っ気なくも了承してくれた。


「やった。じゃあ早速…」


ホークスは亜希の肩を抱き寄せ、スマートフォンを自分達の前に構える。そしてシャッターを押そうとして、留まった。
目の前の画面に映る彼女の表情が、あまりにも険しいものだったから。


「…え、亜希さん、なんでそんな顔してんの?怒ってる?」

「怒ってないよ。ほ、ほら早く撮って」


キッとカメラを睨む亜希に、ホークスは思わず吹き出した。


「もしかして、こういうの慣れてない?」

「……ごめん」

「いや、謝ることじゃないけど…」


カメラを向けられることが多い自分と違って、彼女の人生では写真というものにあまり縁がなかったらしい。確かに亜希がニコニコして誰かと写真を撮っているなんて想像できないが、それにしても不器用なものだ。


「…は、早く撮って」


なんとなく照れくさいのか、慌てている亜希。ホークスは「うーん」と少しだけ考えてから、抱き寄せている腕で細い腰を擦ってみた。


「ちょっと…、」

「はいはい、肩の力を抜いてリラックス」

「何それ……ふふ、くすぐったい」


肩をすくめながら亜希が小さく笑う。その瞬間を逃さず、すかさずシャッターを押した。パシャっと音が鳴ったと同時に、亜希が「あ」と声を上げる。


「ま、待って、絶対に今変な顔してたから消して」

「どれどれ…」


亜希が伸ばしてきた手を無視しながら確認すると、かなり良い写真が撮れていた。少し垂れ下がった眉毛と、緩んだ可愛い笑顔の亜希。自分自身もかなりの笑顔で、ブレも一切ない。我ながら天才だとホークスはつい、ニヤっと笑ってしまった。


「…何笑ってるの」


不満気な亜希が可愛くて、もう一度シャッターを押す。焦っている彼女を構わずに抱き寄せ、顔を近付けて、赤い顔とぴったり引っ付いて、もう一枚。


「あとで亜希さんにも送るね」


そう言いつつ、彼女の頬にキスをしながら、さらにもう一枚。


「は、恥ずかしいよ」

「はい照れてる亜希さんも可愛いから、もう一枚…痛い痛い!」


調子に乗って連写していると頬をつままれてしまった。結構強めに引っ張られて痛い。呆れ半分、照れ半分な赤い顔の亜希は、ホークスをジト目で見つめた。


「…もういいでしょ。そろそろ行くから」


楽しい時間は一瞬で過ぎるものだと思いつつ、ホークスはヒリヒリする頬を押さえて立ち上がる。亜希が足元に置いていた大きめの紙袋を掴んだ。ふと視線を向ければ、中にはたくさんの着替えらしき衣類が見えた。


「…もう今日は帰ってこないの?泊まり?」

「うん…しばらく帰って来れないと思う」

「……そっか」


なんとなく、そんな気はしていたが。それでもやはり残念な気持ちが拭えない。本来なら今日も一緒に二人で過ごして、そして自分は明日の明け方に帰る予定だったのだ。仕事なら仕方ないとはいえ、寂しさは隠せなかった。


「啓悟はもう帰る?それとも泊まる?」

「んー…どうしようかな…亜希さん帰ってこないなら、俺も福岡戻ろうかな」


玄関でパンプスを履いた亜希は、「一人でいても寂しいし」と小さく呟くホークスを見上げた。


「…啓悟、来てくれて本当にありがとう。一緒にいられて楽しかったよ」

「……俺も」


どちらともなく抱き締め合って、唇を寄せ合う。
いつも、この場所から出発する時は亜希に見送ってもらっていたけれど、今日は逆だ。送り出す方はこんなにも寂しくて悲しい気持ちなのかとホークスは思いながら、亜希の手首をそっと撫でる。

そこには、以前自分が贈った腕時計がきちんと着けられていた。もう今は逐一彼女の行動を監視なんてしていないが、ホークスにとってこの腕時計は、離れている自分達を繋ぐ唯一の安心材料だったのだ。

もし亜希に何かあった時、これがあれば助けられるかもしれない、と。亜希本人は何も知らないし、口が裂けても絶対に言えないが、彼女がこうして肌身離さず着用してくれているのが何より嬉しかった。


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

「…啓悟も、気をつけて」


どうしてか心配そうな表情の亜希に、ホークスは「俺は帰るだけだから大丈夫だよ」と笑って答えた。彼女は一瞬何かを言おうとして、そして、微笑みを残して背中を向ける。そのまま返事も振り返ることもせず、玄関の向こう側へと行ってしまった。

ガチャリとオートロックが静かに鳴ったあと、微かにヒールの駆ける音が聞こえる。自分が引き留めていたせいで、亜希を走らせる羽目になって申し訳なかった。


「…せめて家の掃除と、ご飯は作っておこう」


昨日の今日でベッドはぐちゃぐちゃのままだ。洗濯機に突っ込んだシーツの乾燥は終わっているだろうから、綺麗にベッドメイキングをしよう。疲れて帰って来た亜希が、ぐっすりと気持ち良く眠れるように。

冷蔵庫の大量の食材は調理して冷凍するか。あの亜希の様子では、帰宅するのは随分先になるに違いない。食材が期限を迎える前に調理しておけば、亜希の負担も少しは減るだろう。

頭の中で色々と考えながらリビングに向かった時、ポケットから着信音が聞こえた。プライベート用ではない、仕事用のスマートフォン。取り出して画面を確認したホークスは、少し驚きながら電話に出た。


「はい、」

『ホークス、貴方に任務です』


相手はヒーロー公安委員会の会長だった。かなり久しぶりの任務依頼の連絡だが、会長はいつも通り淡々と内容を告げるだけで、普段となんら変わりない。


『本日24時、長崎北部の港にて、指定敵団体による違法薬物の密輸が行われる。流通経路の調査を任せます』

「県警との連携はどうなってます?敵の身柄確保は?」

『今回は貴方一人で隠密に調査のみを行い、そこで確実なルートを掴んでちょうだい』

「目立たず裏を取れってことですね。分かりました」

『…この事件には、』


珍しく、会長が言葉に詰まる気配。ホークスがスマートフォンを片手に「はい?」と答えながら首を傾げると、会長は静かに口を開いた。


『…今回の事件には、マキシマが絡んでいる』

「…え」


――マキシマ ショウゴ。
その名は、かつてホークスと亜希が戦った、極悪犯罪者のものだ。


『マキシマが生前に作り出していたブースト薬…あれと一致する薬物が全国各地で見つかったの。今も誰かが裏で撒いている。大元を叩かなければ、全てを回収できないわ。貴方には九州地区のルートを正確に見つけてほしい』


奴はタルタロスで自殺したのに。死んでなお、社会を脅かす存在であるマキシマに、ホークスは誰もいないリビングで小さく溜め息を吐いた。


「…分かりました。俺は長崎から九州全域の経路を追っていけばいいんですね?」

『ええ。頼んだわよ』


そのまま電話を切ろうとした会長に、慌てて「あの、」と声を掛ける。


「全国規模なんですよね?九州の流通経路を押さえたら、俺も本州の調査に参加しますよ」


自分には剛翼があるのだ。どこにだって飛んで行ける。捜査地域が広ければ広い程この“個性”は役に立つだろう。そう思って提案したのだが、会長からは『その必要はないわ』と即答されてしまった。


『まだ不明な点も多いの。この件に関しては慎重に動く必要がある。こちらの人手は間に合っているから、貴方は動かなくて結構よ』

「……そう、ですか」


いつもと同じ、突き放すような冷たい言い方。そこに拒絶にも似た強い意思を感じてしまったホークスは、それ以上もう何も言えなかった。


『…では、頼んだわよ』


プツッと切れた通話に対してもう一度溜め息を吐きながら、ソファーに深く腰掛ける。会長が言った“人手”とは新しい工作員のことだろうが、その人物は一人で手に負えるのだろうか。

いくら心配したところで、ああもハッキリと断られてしまっては、どうしようもないのだが。もう一人の工作員の負担にならない為にも、自分に任された九州の調査は確実に遂行しようと思った。


「久しぶりの任務だな…」


呟いた瞬間、昼間、このソファーで亜希と交わした会話が脳裏を過る。


「最近連絡なかったってことは、…その分、啓悟は休めてる?ゆっくりできてる?」


あの問いにイエスと答えた数時間後に、また忙しくなるだなんて。「啓悟が自由なら、良かった」と、嬉しそうに言ってくれた彼女がこの場にいなくて良かったと、苦笑する。

亜希に仕事が入って寂しかったが、結局自分も呼び出されてしまったなと思いつつ、時間を確認。まだ長崎の現場に向かうには早いが、公安の任務は時間がかかりそうなので、一度福岡の事務所にも寄っておきたい。

ホークスは剛翼を飛ばして器用に洗濯機からシーツを取り出し、ベッドを整え、簡単に料理を作って冷凍庫に入れておいた。


「こんなもんかな…」


ヒーローコスチュームに着替えて部屋を見渡す。ずっと楽しみにしていた休日は予定よりも短かくなってしまったが、それでも亜希と一緒に過ごせたことには変わりない。写真だって撮れたのだから、少しの寂しさはあれど満足だった。


「…亜希さんにも送っとこ」


プライベート用のスマートフォンを開いて、ついさっき撮ったツーショットを眺める。寝顔も可愛いけれど、やっぱり笑顔が一番だった。

揶揄って連写したものは亜希が怒るかもしれないので、一番初めに撮った二人の笑顔の一枚と、自分が彼女の頬にキスをしている写真の二枚だけを送信。その後でホーム画面の待受けに亜希の笑顔を拡大して設定しておいた。


「…よし、そろそろ行くか」


ゴーグルとヘッドフォンを装着し、今日は亜希がいないのでベランダではなく玄関から外へと出る。


――また近い内に、この優しい家に帰ってこられますように。

そう願いながら、ホークスは夜空に飛び立った。




20210208


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