傍に、います。

貴方は一人じゃない。

もう、決して独りにしない。

だから隠さないで、顔を上げて。

貴方の涙は全部、俺が拭うから。





水彩スピカ






寒い。冷たい空気が、容赦なく全身を襲う。こんな日は温かい物が食べたいと思いつつ時間を確認すれば、日付が変わった瞬間だった。

今日の仕事はもう終わったことだし、と、夜空を駆けながら眼下を見渡す。ホークスはゴーグル越しに一つの提灯を見つけた。路地裏にひっそりと佇む小さな店は定食屋だろう。疲れているし、人が多い居酒屋という気分ではない。よし、夕飯はここに決めた。

店の前に降り立つと、ちょうど店内から一人の男性が出てきて暖簾を片付けようと手を伸ばすタイミングに鉢合わせ。ホークスに気付いた男性は申し訳なさそうに頭を下げる。


「すいませんねぇ、今日はもう閉めるんだよ」
「…そうですか…残念」
「ん?あんた、ホークス?」
「あ、はい」


店主と思われる初老の男性は、ホークスに笑顔を向けた。


「残り物で良かったら、食ってくかい?」
「え…でも、」
「遠慮せんで。先週、食い逃げが出た時あんたが捕まえてくれたからね。お礼させてくれよ」


そういえば、この近くでそんなことがあったような気がする。様々な犯人を日々確保している為あまり記憶にないが、ここは有難く厚意を受け取ろう。ホークスは「じゃあお言葉に甘えます」と店に足を踏み入れた。

カウンター席が五席と、奥に対面テーブルが一つ。見た目通りの小さな店内には誰もおらず静かだ。質素だが清潔感があり、木目調の造りは安心感を与えてくれる。奥のテーブルに案内されたホークスは、文字通り羽を伸ばしてくつろいだ。


「雰囲気良いですね、なんか落ち着きます」
「なあに、ただ地味なだけだよ。焼き鳥丼でいいかい?おでんもちょっと残ってるけど食べる?」
「まじすか、俺鳥大好きなんですよ、おでんも頂きたいです」
「はいよ」


店主はテキパキと両手を動かし、あっという間にホカホカと湯気立つご飯をホークスの前に出してくれた。メインの焼き鳥丼と、卵と大根のおでん、ひじきの煮物と白菜の漬物。残り物とは思えない程に豪勢な定食に思わず目を輝かせる。


「美味そう…いただきまーす」


甘辛い味付けの焼き鳥とジューシーなネギ、粒が際立つ白米が絶妙で好みの味だ。出汁が染みたおでんも体が温まる。最近は忙しく、食事は適当に済ませていたことも多かった為、余計に美味しく感じた。


「おかわりもあるよ」
「ありがとうございます、めっちゃ美味いっす。常連になっていいですか?」
「ははっ!嬉しいねえ」


豪快に笑う店主は人が良いのだろう、裏表が無さそうな人柄に、ホークスまでつられて頬が緩んでしまう。

ゆっくり食べててね、と声を掛けてくれた店主が店先の提灯を店内に入れようと入り口に向かった時、ガラッと引き戸が開いた。そして同時に、


「…奈穂!お前また喧嘩したのか?!」


店主の呆れたような、怒っているような声。焼き鳥丼を口一杯に頬張ってたホークスが顔を向けると、小さな人影が見えた。


「喧嘩じゃないって。酔っ払い追い払っただけ…って、」


そう言いかけた人物は、ホークスに気付き「げっ」と嫌そうな声を上げる。

グレーのダウンジャケットを羽織った女と目が合った。ショートヘアの黒髪に、整った顔立ちが印象的な、綺麗な人。その顔に浮かぶ形の良い唇の端からは、僅かに赤い血が滲んでいる。


「もう営業時間過ぎてるのに、なんで人がいんの。しかもヒーローじゃん」
「コラ!お前はなんて言い方するんだ!」


吐き捨てるように言った女の後頭部を店主が叩いたので、ホークスは食事を飲み込んで立ち上がる。とっくに仕事は終わっているが、騒ぎを起こしたとなれば黙っている訳にはいかない。


「店主さんのご厚意で食事を頂いてるんです。で、喧嘩?貴方の名前は?」
「だから喧嘩じゃないって言ってんでしょ。もう警察も来たし、いちいち名乗る必要なんてないから」
「奈穂!彼はホークスだぞ?!食い逃げを捕まえてくれた店の恩人に何て言葉遣いだ!」
「痛っ!叩かないでよ!それくらい知ってるから!」


ギャーギャーと言い合う二人に、ホークスはどうしたものかと腕を組む。あんなに穏やかだった店主が大声で怒鳴っているのにも驚いた。


「…あのー、まあ、もう解決してるんなら良かったです」


落ち着いてくれ、と願いを込めて間に入ると、女は眉間にシワを寄せつつホークスを見て、鼻で笑う。


「…何が“速すぎる男”よ。一般市民が困ってる時に呑気にご飯食べてるなんて、優雅でよろしいことで」


…イラ。なんだこの女。喧嘩売ってんのか。

ホークスは思わず舌打ちをしそうになるのを抑え、顔を引き攣らせながらも一応笑顔を浮かべた。


「…ヒーローも人間なんでねえ、飯くらい食いますよ」
「あー、はいはい、別にどうでもいいんで」


しっしっと手を振る女は入り口に一番近いカウンター席に腰かける。店主が「謝りなさい!」と怒っているが、全く聞く耳を持たず頬杖をついてそっぽを向いた。

…美人だが、なんて嫌な女だろうか。慌てる店主にホークスは「気にしないでください」と愛想笑いを向けるが、内心では折角癒されていた気分を潰されたことに腹を立てていた。テーブルに戻り、残りの食事を食べて落ち着こうと箸を持ち上げる。


「…はあ…全くお前って奴は…。で、今日もこの後バイトか?」
「うん、食べたらすぐ行く。お茶漬けある?軽いのでいいや」
「あんまり無理すんなよ…?」
「…おじさん心配しすぎ。私は大丈夫だから」


耳を立てなくても狭い店内では会話が聞こえてくる。女の名は奈穂、店主の知り合いで、掛け持ちの仕事でもしているのだろう。「酔っ払いを追い払った」という言葉からして居酒屋かバー辺りか。そういえば近くに繁華街がある。

女を盗み見るように観察すると、なんとなく、どこかで見たことがあるような気がした。でも、あんな美人だったら一度会ったら忘れないだろうし…何より、自分に対して真正面から喧嘩を売ってくるような物言いをする女はこれまでの人生にいなかったはず。これでも女性人気は高いのだ。

他人の空似か、と思いつつ見ていると、白い肌に浮かぶ真新しい傷が痛々しいことに気付く。嫌な女だが、怪我人を見過ごすことは出来ないのでポケットから簡易救急セットを取り出し、塗り薬を羽に乗せて女の目の前に運んだ。


「どうぞ、使ってください」
「…何これ」
「傷。早く処置した方が良いですよ」
「いらない」


突っぱねる彼女の頭を、店主はまたカウンター越しで叩く。


「いい加減にしないか!ホークス、ありがとなあ。ほら塗ってやるから顔こっち出せ!」
「ちょ、やめてよ!もう…自分でやるから」
「なら最初からやれ!ちゃんと礼も言いなさい!」


怒鳴る店主に根負けしたように、彼女は渋々といった形で塗り薬に手を伸ばす。そして、相変わらず眉間にシワを寄せたまま、横目でホークスを見た。


「………どうも」


小さくて、不機嫌な声。ホークスが「はーい」と力なく返事をすれば、彼女は今度こそ背中を向ける。
ほどなくして店主が用意したお茶漬けを一瞬で食べ終えた彼女は「ご馳走様」と言い残し、すぐに出て行ってしまった。

嵐のようだったな、と思いつつおでんを味わっていると、店主が眉を下げてホークスを見る。


「…ホークス、気を悪くさせてすまないね。あの子は本当、口も態度も悪くて…申し訳ない」
「いやいや、店主さんが謝ることじゃないですよ。お知り合いなんですか?」
「ああ、友人の…娘だよ」


そう答えた店主が、どことなく、寂しそうに見えたのは気のせいか。

なんとなく深く質問するのが憚られた為、ホークスは「そうですか」と返答したきり、口を閉じた。




20200822





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