日が暮れるとオレンジのフィルターを通したように橙色に染まる、小さな商店街。幼い頃は、学校と家と公園と、この小さな町の一角が私の世界のすべてだった。
 小学校高学年あたりで、この世はこの町のある駅とおじいちゃんやおばあちゃん達が住む町以外にも存在するのだと、この足で、ひとりでそれらに向かうことができるのだと知った。中学を卒業する頃には他県どころか外国にだって目が向いて、高校生になると学校も他駅となり通学も遊びに行くのも電車移動で、活動範囲がこの町を越えどんどん広がっていった私は、気がつけばそんな小さな世界の存在など気にも留めなくなっていた。時折母から近所の話を聞いた所で、興味などわきもしない。つまらないと思っていた。目まぐるしい日々の中、長い間、町の様子を眺めることなどなかったのに。

 乾物屋さん行ってきて、と体調を崩した母に頼まれたのは、高二の夏休みのことだった。
 夏バテでもしたのだろうか。できることならば断りたくてしばらく渋ったが、結局立ち上がって鏡台へと向かい、簡単に眉毛だけペンシルで整える。まつげはー……あげなくてもいっか。どうせ乾物屋に行くだけだし。
 財布と携帯だけを入れたエコバックを手にラフな格好で家を出た私は、暮れる陽の中吹く風の涼しさに感謝しながら日陰を選んで歩いていく。駅へと向かう道は反対方向だから、こちらの道を行くのは久しぶりだった。

 乾物屋を覗くのも数年ぶりだ、少し小太りでいつも元気なおばさんの顔を思い出す。私のこと、覚えているだろうか。最後に話したのはおそらく小学校の時だ、今日の私はコンタクトレンズを入れるのも面倒で黒縁のめがねをかけているから、もしかすると、気づいてもらえないかもしれない。名前を言えば、わかるかな。
 懐かしの再会をしたいような、それは避けて通りたい恥ずかしい道であるような、どちらも望む自分と向き合いながら夕暮れの道を行く。夕飯時の商店街は賑わっていて、あの頃と少しも変わってはいなかった。
 たまたま人が捌けたところだったのだろうか、幼い頃訪れていた際はこの時間いつも何人かの主婦が品を眺めていた乾物屋に今は客がいない。店番だろう、並べた乾物たちの隣に置かれた椅子に座って読書をしている人の姿が見えた。大柄なその人は、おばさんではないようだった。
 すると、その人物は顔を上げる。近づく私がコンクリートの砂利を蹴る音に気がついたのだろう。そこで私も、はっとした。見たことがある。とても。見たことがあるような気がしたけれど、その瞬間はそれまでで。

「あ」

 そう声を出したのは彼だった、だからきっと、彼も私と同じように何か私に思うところがあったのだろう。そして私はその声を聞いて、その少しざらついた特徴のある、あのころより低くなっていた声を聞いて、彼と同じように声を上げた。すぐさまその名を呼ぼうと唇を開くのだけれど、思い描いた単語を発する前に、その動作は止まる。懐かしさと照れくささと、恥ずかしさが煮えていく。
 ジャイアン。私は彼をそう呼ぼうとしたのだ、あの時と同じ愛称で。呼べなかったのは、彼と顔を合わせぬ数年のブランクと、あの頃のように自然にそう呼べるほど、私がまっすぐで純粋な子供ではなくなっていたからだろう。この店の息子である彼との遭遇の可能性に私がこれっぽっちも構えていなかったこと、彼の成長した姿を見るのが初めてであったことも、きっと理由のひとつだ。
 三つ年下の彼は身体が大きく腕っ節が強く、乱暴で横暴で、だけれど時折優しさを見せる、大好きな歌が不得意な男の子だった。彼を怖がる人もいたし私も殴ったりする姿は嫌だったけれど、意地悪じゃないたまに見せる無邪気な笑顔が、大きな身体なのに可愛いんだなって、そう思える時間が好きだった。

「…た、けしくんだ。ひさしぶり」

 挨拶代わりの笑顔で空いたまま停止した唇を誤魔化して、もしかすると初めてそう呼ぶかもしれない彼の名を呼び軽い会釈を一度した。ジャイアンはパチクリと小さい頃の面影ばかりを残す瞳を見開いて私をじいと見てから、ワンテンポ遅れて「おう、」と、いつも誰かに怒鳴り声をあげていたその声で、私に小さな挨拶をくれた。
 読んでいた漫画を閉じた彼は立ち上がるとちらちらと私に目を向ける。私はその間お使いメモと商品を眺めていたけれど、意識は彼にあったから、すぐに気づいて顔を上げた。再び目が合って、ジャイアンはきっと一度身体を強ばらせた後に、目をそらした。背が伸びたなあ、と、私は彼を見て感じていた。

「えっと…武くん覚えてる?私」
「そりゃあ…」

 頷く。

「ほんと?しばらく会わなかったからなあ。名前、忘れてたりして」
「んなわけねえじゃん、名前だろ。苗字名前」

 語調強く言われて、久しぶりの、あの頃よりも低い響きに名を呼ばれて、ようやく彼の声をはっきりと聞けた気がした。
 がたんと音がして、ジャイアンは手前にあった椅子を奥へと運びそこに腰掛け下を向く。またあの冊子を開いたのだろう。カウンターの陰になっているからここからではよく見えないのだけれど。きっと、今の席移動はそれが狙いなのだ。
 鰹節、煮干し、カボチャ。リストアップされた商品を手に取って、なるべく良いものをと見比べながら籠に入れていく。その間もページに向けているはずの集中力を散らばらせてこちらを気にしているであろうジャイアンの様子が、なんとなくだけれど伝わってきた。同じように、私も彼を気にしているからだ。

「今、中二?」

 ありがちな話題の振りだと思う、少し後悔したし答えが肯定であることも知っていた。突然質問を振られたことに驚いたジャイアンはだからそのまま驚いたような息の吐き方をして、そうだよ、と、私の知っているあの頃の乱暴な彼では考えられない小さな声で言った。私の中で彼は、もっと堂々としていたから。

「…おまえは」
「高二」
「ふうん」
「今日店番?」
「そうだよ、めんどくせー」
「おばさんは?」
「買い物」
「なるほど」

 言い回し、声の強弱、伏せた瞳とここからでも伺える不満げに尖らせた唇。彼の視線はこちらへ向けられなかったが、声には緊張が乗っているように思えた。私もジャイアンほどではないだろうが、柔和に話すことはできていないように思う。

 幼い頃にも、最後に会った日にも、ふたりの関係を気まずいものにするような出来事が起きたわけではない。あの頃の日常を普通に過ごして、こんにちはとまたねの挨拶をして。ある日の“またね”の次のこんにちはが何年も後の今日になってしまった、きっとそれだけだった。
 元々大きかった彼は更に背が伸びて身体は引き締まっていたし、私の身体も女性らしくなろうとしている。最後に話したのは確か彼が小学四年生の時だ。小学校時代の四年間とあれからの四年間は、同じ時間のはずなのにきっと意味が全く違う。小学校時代の四年の空白の後は、私たちが体験している四年の空白の後の今よりも、きっと気軽で和やかなものに違いない。私たちは取り立てて仲が良かったわけではないし、よく一緒に遊んでいたわけでもない。でもこの店を訪れて彼がもしそこへ居たのならその時は、明るい挨拶と共に昨日何をして遊んだだとか、宿題が面倒だとか、そんな他愛もない話で盛り上がれるようなふたりだったのだ。道ばたで出会ったなら、今から一緒にアイス食べに行かない?と簡単に誘うことが出来るような、そんな気軽さがあった。みっつの年の差も、あってないようなものだった。
 あの頃は。

「眼鏡なのか?」
「え?」
「目、悪かったんだなあ、おまえ」
「あぁうん、悪くなっちゃった。いつもはコンタクト」
「ふうん」

 あの日の、今の、ふたりの関係を。距離を。思い出して答え合わせでもするように、慎重に慎重に、時間は進んでいく。私が見つめる彼の瞳は私の目元を見つめていて、視線はかち合いそうなのになかなか触れあわないもどかしさが、ちくちくと刺すようにむずがゆい。
 ふい、とジャイアンの視線は離れていった。私は少しだけ安心して、かち合わなかったことを不満に思った。

「…なんか違うヤツみてぇだぞ、それ」
「ん?眼鏡?」
「そうだよ。にあわねえの!…高校生みてぇ」

 動かない手元を睨みつけながら、瞼を半分落として彼は言う。失敬な、何よりもまず私は高校生だし、女の子は色々面倒で大変で、アイシャドウもアイラインも塗らずに睫も上げていない目元を隠すにはうってつけのツールなのに、と、いくら彼に主張してもきっとわかってもらえないように思う。ばっかじゃねぇのと一蹴されておしまいに決まってる。
 でも今の彼は何故かどこか拗ねているようにも思えて、それがあのときの彼に重なるような気がして、私の緊張が少しだけ解けた。罵られたはずなのに、唇がわずかに緩んだのがわかる。
 だから、それは。自然と。

「うっさいジャイアン、早く会計して」

 選ばれた乾物たちが乗る籠をレジ前にドンと置くと、彼はびくりと肩を跳ねさせこちらを見る。すぐに鬱陶しそうな目をして誤魔化したようだけれど私は知ってる、その直前に、私が懐かしいその名を呼んだ後に、見開いた瞳の下むずむずと照れくさそうに彼の唇がいびつな形に結ばれていたこと。薄明かりの中でも見えたそれに、私は少しの満足と、懐かしさと、次出会った時への“こんにちは”を手に入れたこと。

 肩にかけたバックで揺れる品の重さと同じだけの気恥ずかしさ、唇に滲むちょっとした嬉しさを胸に、てろてろと橙色に染まった帰り道を私は歩く。
 あの頃とは少し違う、成長した彼への戸惑い。小さい頃はああだったのにというじわじわ浮かぶ悔しさ。もっと話せばよかったという後悔。次会ったら何と話しかけようかという、楽しみで温かな気持ち。

 恋に似ている気がした。


(2011.10.25)




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