触れ合った箇所から電流のように流れる。小さな痛みは、苦しみとは少し違うものに感じられた。

 授業中何気なく、視線が黒板や壇上に立つ教師から逸れることがある。大抵、それは窓の外。浮かぶ雲。見下ろす先の、校庭での授業風景。
 最近の定位置は、斜め前方の少女の姿だった。少し離れた席に座っていた、苗字の指先。シャープペンシルをくるりと回して、消しゴムを筆箱に放って、時折髪を耳にかける仕草。俺の席からはそれがよく見えた。そのことに気がついてからは、よく彼女の方へと目を向けていたように思う。
 苗字の指は、特別な力を持つわけではなかった。その仕草もありきたりで自然で、ありふれたものだった。それなのに、なぜだろう。生み出すリズム?緩やかな動き?滑らかに滑る動作と速度と、ちょっとした角度の違いだろうか。分析すればするほどわからないものだが、他の女子の仕草と彼女の仕草は、同じようなものでも違って見えていた。
 たぶん、俺はそれを眺めるのが好きだった。大して話したこともない、クラスメイトという以外では接点のない少女だったのだけれど。

「あ、」

 隣から、何かを含んだ声がする。忘れていたことを思い出す声だ、鞄の中をひとしきり漁っていたことを知っていたから、俺にはそれがわかった。ちょうど、窓の向こう、見下ろす先の校庭で、どこかのクラスの誰かがシュートを外したところだった。俺なら入れるのにと、そう思っていたところで。
 彼女は今、隣の席にいた。先日の席替えで、俺の授業中の静かな楽しみは失われてしまったわけだ。
 それまでも彼女の動きは少しだけ意識していたけれど、彼女の声を聞いたことにより、俺は自然にそちらへ目を向けられる。わずかな間の後、目が合った。俺の視線に気づいたようだ。

「どうしたの」

 小さな声で尋ねた。教壇で俺たちに古典文法を伝える教師の邪魔をしないように。
 苗字の瞳が俺を映して揺れた。思えば、もしかすると、彼女とは初めて正面から目が合ったような気がする。おはようは一瞬で、またねも一瞬で、隣の席が決まった際のこれからよろしくねだって、彼女は俺の目より少し下に向けて放っていたように思うから。
 ええと、と考える素振りで彼女の視線は逃げてしまった。俺は、変わらずに苗字を眺め続ける。
 いつもは横顔と、背中と、それ越しに見える指先だった。それから近づいたはずなのに、遠ざかった気でいたのだけれど。

「消しゴム…」
「忘れたの」
「うん。新しいの買おうとしてて」
「忘れたの」
「うん…」

 失敗を誤魔化すように苗字が笑って、俺はそれを見て、ああ彼女はこんな笑い方もするんだなとそう思った。
 自分の表情がおかしくなるまえに、呆れたようなため息をこぼせたことに少しだけ安堵した。

「…貸して欲しいってこと?」
「あ、…いい?」
「しょうがないな」
「やった」

 そうして、差し出されたてのひら。
 遠ざかったつもりでいたけれど、彼女の仕草に触れればこんなにも、じんわりと何か、名前をつけ辛い気持ちが運ばれてくるのだ。温かで、優しいもの。目を離しがたいもの。触れてみたくなるもの。
 電流のように。水のように。熱のように。一瞬で広がるそれは。

「はい」

 そっと伸ばした俺の手。指先。彼女のそれと触れ合った瞬間、小さく跳ねたのは俺の指だったか、彼女の指だったか。俺だとするならばそれは、魔法でも何でもない彼女の持つ体温が、指先を通って俺の心臓へと届いたそれだけの話だ。
 転がり落ちた消しゴムを、苗字は慌てて拾った。俺はとっくに引っ込めた手で頬杖をつきながら、その様子を見ていた。
 手のひらで覆ったのは、まだあの柔らかな感触を、温度を覚える指先のせいで、どんな形を取れば良いのかわからぬ唇だ。

「ごめん落ちちゃった」
「いいよ」
「借りるね」
「あげるよ」
「え?」

 俺は真っ直ぐに黒板の方へと目を向けていた。白のチョークで描かれた言葉は、今の頭に意味を持った記号として反映されない。
 もう一度その手に触れたら、またあの熱がやってくる。俺はそれをどこかで望んでしまっている。突っぱねるように言葉を発する俺の唇も、きっとぐずぐず力がこもっておかしな形をしてしまうのだろう。俺はそれを許せない。
 苗字は一度首を傾げて、それから「ありがとう」と目を細めてから、再びノートと向き合った。俺から苗字のものになったばかりの消しゴムを使って文字を消して、そうして、見慣れた仕草で、握ったシャープペンシルをくるりと回した。
 頬杖の上で瞬きを繰り返す瞳でその様子を映し出していた俺は、再び彼女と目が合い、自然と瞳を細めた。やっぱり俺たちは、ほんの少しではあるけれど、距離の通り近づけていたのかもしれない。


(2011.04.17)


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