じくじくと痛む。じくじくと。
 痛みの程度は、まあこんくらい放っておいても治るかなー、っていうくらい。問題は流れる血だった。じわりと生まれて放っておけば指を伝う、気づかずにしばらく居たらセーターを汚していたことに気づいて、私は慌てて傷口を舐めとった。今日は紺色で良かった。
 傷の独自の味が舌に広がる。ぴり、と、少しだけ痛い。

「おー苗字、ど…」

 顔を上げる。声をかけてきた人物はその声音からわかっていた、だけど彼の顔を見たとき少しだけ、さわ、と心臓が囁きだす。さわさわ、さわ。唇を離した指先が、涼しい風を受けて。割り入るような、声。

「…うした怪我か!?」

 響く響く。廊下に響く。
 目を見開いて笹木先生はこちらへ寄ってきて、心配そうに首を傾げた。大丈夫か、消毒はしたか、痛むか、と次々に飛んでくる弾丸のような心配の言葉に、私は嬉しいやら恥ずかしいやらで通りかかった生徒の視線を避けるように困った笑いで軽く俯いた。大丈夫ですよ、とかなんとか、言いながら。
 下げた視線の先では、利き手の人差し指にまたぷつりと赤が浮かんでる。私に釣られて下を向いた先生もそれを見たようで、うおっ、と声を漏らした。それを合図に私だけ目線を上げると、眉を顰めて眉尻下げて、唇を引き結んだ先生の顔があった。痛そう、って顔に書いてあるみたいだ。

「どうしたんだこれ、切ったんか?」
「紙で」
「うわあーー、地味に痛いよなぁ、紙!」
「気抜いてるとたまにプリントでやっちゃうんですよ」
「ひーだめだ、想像すっとぞわっとすんな…!」

 肩を竦める先生を見て、私は自然と目を細めていた。綻ぶ。緩むのだ。痛みなんて忘れちゃうくらい。
 理由は簡単だ。だけど、私はそれを口にしたくはない。名前すらつけたくなかった。認めたくて、認めたくない気持ち。もし其れを知ってしまったら、多分、この先生の前でこんな風に笑うことが、難しく辛いものになってしまう。それだけは嫌だった。

「お、…そうだ」

 いい事を思いついた顔をした先生は、おもむろにゴソゴソと着ているジャージのポケットをまさぐりだした。そこから何が飛び出てくるのか、ちょっと考えれば簡単だったんだろうけど、特に何も考えていなかった私は思い浮かべようともせずに発覚するのをただ見つめて待っている。
 直ぐにそれは顔を出した。先生は嬉しそうに笑っている。

「さっきな、たまたま保健室で使ったんだよ。いるだろ?」

 絆創膏。普通サイズのそれはちょっと指の折り曲げの邪魔にはなるだろうけど、少しの間なら問題無い。私はそれを必要としていた。だから、差し出されたそれに私も嬉しくて笑った。
 お礼と共に受け取ろうと差し出した手。だけど私の手は絆創膏を掴むことはできずに、すかりと空を掴む。「あー」という言葉と共に、笹木先生が絆創膏を引っ込めたからだ。多分、先生のこれはわざとじゃなくて、本当なんだろう。
 そしてまた先生は、いい事を思いついた顔をして、言った。

「そっち利き手だよな。手出せ、手ー」

 嬉しそうに、笑って。ぺりり、絆創膏がシートから剥がれる音で、私はその言葉の意味を理解する。

「えっ、いや、大丈夫ですよ、できますし」
「はは、できてもやり辛いだろー?手え出せって、ほら」
「えっ」
「ほーら」

 ちょいちょい、と先生の手の先で呼ぶように指が動くから、つられて私は引いていた利き手を差し出した。先生が少しだけ屈んで、たまたま視界に入った首筋と喉仏に一瞬目を奪われて、直ぐに横を向いて逸らす。何、なに、どうなってんの、色々、私。なんでもないことなのに。先生にとっては、特別でもなんでもない、そう、なんでもないことなのに。私にとっては、それは。
 だめだ、だめだ。これじゃあ、これじゃあ、

「…苗字、手ー冷たくね?ちゃんと温かくしなきゃダメだぞー」

 そう言って先生は、ぐるりと巻き終えた少し不恰好な絆創膏の上から、人差し指をぎゅっと握った。肩がひくりと震えたのは、傷の痛みのせいじゃない。
 じくじくと痛むのは。じわりと、生まれるのは。

「苗字?」

 笑いながら言う彼に、何の罪も、意図も、下心も無い。その事実が少し悲しい。
 触れたのは指先だけで、握られたのは粘着のためで。それでも、でも、もし私に理性とか、羞恥心とか、常識とかが無ければ、本能のままに動けたならば、そのまま私は彼の手を繋ぎとめて離したがらなかったに決まってる。だって、私よりずっと大きい手と、指と。温度差に、くらくらするんだもの。

「…先生の乱暴者」
「え?あー、痛かったか!?」
「痛かったです」
「マジかー、すまんなー、手加減すりゃ良かったなー」
「ほんとに」

 本当に。
 だって、もう、ほら。うまくわらうのが、むずかしくなってしまった。
 それでも私はちゃんと彼と先生と生徒のやりとりが出来たようで、ごめんごめんと眉尻下げてた笹木先生も、私が冗談めかして文句を並べればすぐにまた調子を合わせて笑い出してくれる。
 悪化したら先生のせいですよー、とか。責任とってくださいねー、なんて。言おうとして、冗談ぽく言えそうだったけど、でもやっぱりやめた。自分で悲しくなりそうだから。
 先生はそんなことには気づかずに、絆創膏のごみをくしゃくしゃと手の中に丸め込んでる。

「でも、助かりました。ありがとうございます」
「おー、気をつけろよ、もう切んなよ?」
「出来る限りは」
「また切ったら放っとくんじゃないぞー、絆創膏持ってなかったら言ってくれりゃーまた貼ってやる」
「うそだー、先生普段持ってないくせに」
「じゃあ常備するか!」
「あはは、」

 ちょっとだけ、失敗した。でも大丈夫、先生は気づかない。気づいてない。…だといいな。でもちょっと、嫌だな。
 耳が熱いのは髪の毛が隠してくれるから、私は何でもないふりしてへらへら笑った。別にわざわざ持ってなくたっていいですよ、とは言わなかった。きっと、次に怪我をしたら私、大きい怪我でも小さい怪我でも最初に先生を探しちゃうから。
 まだ名前はつけない、当てはめない。でも、確かにそこにある。だって、それじゃあなと声響かせて去ってく笹木先生の背中を見て、勝手に目元が緩むんだもの。
 彼のくれた絆創膏が取れたら、この傷は治るのだろうか。私はそっと人差し指を握り締めて、あの温度を思い出していた。




(2010.12.28)


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