彼のことは知っていた。彼はきっと、私のことを知らなかった。
 ホームに並ぶ。電光掲示板には後三分で電車が来るのだという知らせが流れて消えていく。斜め後ろには、タニハラくん。以前、ユキちゃんがそう呼んでいるのを聞いた。彼も電車を待っている。
 俯いた私には彼の履くローファーのつま先が見えて、それだけで何だかドキドキした。少しだけ揺れるズボンの裾に彼の動きを感じる。振り向きたいけれど振り向けないもどかしさ。
 一方的に知っているんだと、気にしているんだと彼に知られたら気持ち悪がられるんじゃないかって思ってる。でも、知って欲しいとも思っていた。

 斜め後ろ。こんなに近くに居るのは初めてだ。たまたまユキちゃん達が彼と話しているところを見かけて、たまたま目が離せなくなって、それが一目惚れなのかもしれないと、たまたま私が気づいただけだから。
 せめて、同じ学校だったらよかったのに。だって、同じ学校なら話しかけるチャンスもあったかもしれない。今だって、何か理由をつけて話しかけられたかもしれない。知り合うためにこなすものが極端に減るはずだ、そうしたら、ファーストフードで彼とユキちゃんたちが話しているのを遠くで聞いて、彼の名を知れた嬉しさを誰にも言わずに押し込める必要も無い。
 ユキちゃんや京子ちゃんが彼とどんな関係なのかは知らないけれど、それからも何度か一緒に話しているところを見かけたことがある。その度にそれを実感させられた、私も話したいんだと、知り合いたいんだと。でも、私から話しかけに行く勇気は無い。ユキちゃんとはたまに一緒に遊びに行くけど恋愛相談するほどの仲でもないし、変に応援されたくなかった。結局見ているだけとなる。
 彼女はいるのかな。私のことは、少しも知らないのかな。知らないんだろうな。ちょっとでも、知ってないかな。…知らないんだろうな。

 電車がやってくる。扉が開く。
 私がのろのろと乗り込むと、大学生くらいの女性の二人組が揃って席から立ち電車から飛び出て行った。私はその空いた端の席に腰掛けた、手摺りに手をかけ、一息つく。タニハラくんはどこだろうと視線を上げてしまって、それがちょっと自分で恥ずかしかった。
 でも、それどころじゃなくなった。隣に誰かが座る気配があったのだ。すとん。少しだけ肩が触れる。私は固まった、予感があったから。心臓がどくどく鳴り響く。ふたつ空いた席のひとつが私。見上げた視界に彼は居ない。ふたつ空いた席の、ひとつが私。
 恐る恐る首を回して、視線をずらして、横を伺った。さっき彼も着ていたネイビーのセーターが見えた。
 もっと、と首を横に向ける。はだけたワイシャツの上には、少しだけ跳ねた青みを帯びた髪。俯いた表情を生み出すのは、紛れもない彼だ。今、隣に座っているのは、彼だ。半端に開いた唇から零れる声が私に向けられたら、どんなに素敵だろうか。携帯電話へと視線を落とす伏せた瞳はどこかぼんやりとしていて、揺れる睫に目を奪われる。その瞳が私を映し出してくれたら。睫が上がって、両目を開いて、そう、こんな風に――こんな風に?

「何…?」

 怪訝そうな声。怪しむ音。潜められた眉は、疑問と懸念を浮かべている。それが、こちらに向いている。
 私は驚いて目を見開いた、何に驚いたのか自分でもわからない程、脳が停滞して口をぱくぱくさせている。見惚れていたなんて、馬鹿みたいだ。これではただの不審人物ではないか。そんなものを向けて欲しかったんじゃない。そんなものを、与えたかったのではないのだ。
 私は小声でやっと、「いや、すいません」と搾り出してまた俯いた。もっと別のことを言えばよかった、ユキちゃんの友達ですよねとか、そういうことを。多分そのほうがまだマシだったし、もしかしたらそれをきっかけに彼と知り合いになれたかもしれなかったじゃないか。後悔がぐるぐる回った。彼は一度だけ小さく首を傾げてまたその視線を携帯電話の画面に戻していった。ああもう、だめだ。最悪。
 泣きたい気持ちになった私は俯いたまましばらくじっとしていたけれど、目的の駅までまだあることに絶望して、どうにか誤魔化そうと鞄を開きイヤフォンを取り出した。同時に、電車が駅につく。彼はまだ降りる様子が無くて、私が逃げ出したいような気持ちになる反面、ほっとした。

 そこに、見慣れた制服を着た人物が乗り込んでくる。自然と顔を上げた。かち合った瞳の持ち主は、驚いた表情でこちらを見ている。クラスメイトの宮村くんだった。挨拶をするため開く口は自然に彼の名を紡ぎだす。

「「みやむ…」」

 目の前の少年を呼ぶ声が重なる。もうひとつの声の聞こえた方へと視線を向ける。――タニハラくんと目が合った。今度は、彼の目も見開かれていた。




(10.1219)


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