合同実習のペアが掲示された。ついさっき食堂でやたらと潮江くんと目が合うなと思っていたんだけど、そういうことか、と思った。相手は彼だった。見知った相手だったことにほっとし、そしてすぐに不安と緊張と申し訳なさでいっぱいになった。今度の実習は私達にとって、特別だからだ。下手をすれば、忍たま全員を敵に回しかねない。 すぐ後に留三郎くんと会ったときに、掲示を見たかと聞かれた。彼も見た後だったらしく、何であいつなんだと文句を言ってはいたが少し安心しているようだった。私と留三郎くんは、なんというかまぁ、そういう仲だ。それを潮江くんは知っている。実習とはいえ二人きりになるわけだから、彼なりに心配してくれたのだろう。ある意味私は、彼を裏切るような行動に出ることになると言えるのかもしれない。 実習内容は、とある城へ侵入し内部の見取り図を作成する、というものだ。表向きは。たまには普段組まないような相手と組むことも大事だろうと合同実習を組んだ、ということになっているが、本当の目的は別にある。くノ一の術の実習なのだ。そして男子側はその術に、つまり、色に惑わされないようにしなければならない。 「いっ…」 目的とされている城は地図を見る限り、いつもより遠い位置に記されていて、通常よりも長い道のりを走らなければならない。潮江くんはさすが普段鍛錬を怠らないせいか、足も速くどんどん道を進んで行った。少し辛いが着いていけない速さじゃない。必死に彼の背中を追いかけ、そして、ある地点で私は声を上げた。 私は指定された場所で足を挫いたふりをしたのだ。私の声と気配に気付いたのかすぐに足を止めて振り向いた潮江くんは、眉間に皺を作りながらも少し心配そうな声色で「大丈夫か」とこちらへ歩み寄る。 「挫いたのか」 「あー…でも大丈夫。早く先」 「おい、ちょっと見せてみろ。…腫れてんじゃねぇか」 私のおさえていた右足首は確かに腫れていた。実習開始前に先生に塗ってもらった作り物、なのだけれど。 心配そうに私の足をみてくれる潮江くんに申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、本当に忍者になるのだとすれば、こんなことくらいで怖気づいてはいけないのだ。私は用意されていた台詞を思い浮かべて、辛そうな表情を作った。 「ごめん、足引っ張るし、先行って」 「ばかたれ!何言ってんだ、二人でこなすってのが重要なんだろう!…腫れが引くまで休もう、時間の指定はされていないし最悪明日になっても構わんさ。…確か少し戻ったところに小屋があったな、そこへ行こう」 差し伸べられた手を掴んで、痛くもない足を引きずりながら道を戻る私、と、潮江くん。予定通りだ。予定通りで、泣きたくなった。本当は小屋のことや時間のことはこちらから切り出すはずだったのに、彼は気付いて私に気を遣ってくれた。 もう月が昇っていた。暗くなってから学園を出たから当然と言えば当然だろう、小屋の中にはもちろん人はいない。蜘蛛の巣がそれらしく天井に伸びていて、ご丁寧に掛け布団ほどの大きさの布が一枚だけ、無造作に置かれていた。 小屋の中へ入った私達は少しだけ離れて座り込んでいた。潮江くんは辺りを警戒しているようだったが、何の気配も感じられない。ここが実習の舞台だからだ。実際には先生たちが数人近くに潜んでいることを、彼は知らない。 「ごめんね」 もったいつけたような台詞だ、と自分で思った。彼がどう感じたかは知らない。ずっと沈黙していたから、少し驚いたように潮江くんの肩が跳ね上がる。 ふぅ、と彼が一息つく声が聞こえた。そして振り返って私を見ると、予想外の言葉を返して来た。 「いや、俺も悪かった」 まさかここで彼に謝られるとは思っていなかったから拍子抜けだ。別に構わない、なんて言葉が返ってくるものだとばかり思っていたから。 何故かと首を傾げると視線を逸らされ、申し訳なさそうな悔しそうな表情に彼の顔が変化していくのが、月明かりの中で見えた。 「苗字に合わせて走るべきだった、何も考えず俺の速度で走っちまって…無理させただろ」 「や、それはその、私の力不足っていうか…」 「もしそうだとしても、俺も気を遣うべきだった。なんというか…そのための合同実習なのかもしれないな」 二人きりになったのは今回が初めてだから、私は驚いた。彼はこんなにも優しい人なのか。いつも他の人と一緒にいるときは、からかってきたりもするくせに、こんな。 申し訳なさそうに、少し恥ずかしそうに、だけれど優しく言う彼がほんの少し愛しくなる。きっと休もうと言ってくれたのも、申し訳なさと優しさからなのだろう。 それからしばらく私は足を冷やして、潮江くんは入り口付近で見張りをしていた。誰も来ないことはわかっていた。そろそろ彼に、甘えださなければならないこともわかっていた。 痛くないはずの足がずきずきと痛む。心臓も同じだ。罪悪感に飲まれながらも私は彼に近づいた。夜風がカタカタと扉を揺らして、彼がこちらを見た。 「どうした」 「寒いでしょ、これかけてたら。向こうにあったやつだけど…」 「かまわん、俺は平気だ」 「風冷たいじゃない、寒いよ」 「ならお前が羽織ればいい、俺は平気だ」 そう言い張る彼の鼻が赤くて、頬の皮膚も寒そうに染まっていた。少しおかしくて笑ってしまう。笑うなとそっぽを向いた彼の隣に、私は意を決して腰を下ろした。布をぎゅっと握り、彼の体に擦り寄る。 潮江くんは驚いたように目を見開いて私を見た。相変わらず頬は寒さで赤かった。 「な、お、おい…」 「ほら、冷たいじゃん」 「いや、その、おまえ」 「でもくっついてたらあったかいでしょう」 「だからって、少しは考えろ!!おまえは…!!」 「あのね」 うろたえる彼の腕を両腕で掴んで目を閉じた。私が遮った言葉の続き―きっと彼は留三郎くんのことが言いたかったに違いない。聞きたくなかった。 彼の腕を胸に摺り寄せるように抱きしめる。彼の言葉が止まった。 「お願い、抱いて」 視線を上げて彼を見つめて、潤んだ瞳でそう告げる。教え通りの動作に自分で寒気がした。申し訳なくて、申し訳なくて、死にたくなった。彼が何と言うか、怖くなった。けれど彼となら、と思う自分もいて、どうにでもなってしまうんじゃないかとすら思った。そして種明かしをしたときに嫌われるのが怖かった。 潮江くんはしばらく言葉を失ったまま私を見ていた。それからすぐに視線を逸らして、だけど何も言わなかった。私は心のどこかで、あと一押しだと思った。 「潮江くん」 名を呼ぶとその肩が跳ね上がる。熱を持つそこへ触れると、耳を赤くして小さな小さな悲鳴を上げた。 「ねぇ」 なるべく甘い声を出すよう心がけ、目を合わせてくれない彼をただ見つめる。胸板へ指を這わせると、潮江くんの片手が私の肩を掴んだ。相変わらず彼の視線は私の目を捉えなかったが、少し伏せ目がちに此方に向き直る。 「何故だ」 低い声がそう尋ねた。確かに彼にとって、突然すぎる出来事に違いない。しかも私は友人の恋人だ。理由。そんなもの、存在するのだろうか。実習だから?それだけのようで、それだけではないような気がする。 隙間風が冷たく私と彼の間を吹き抜けて行った。月明かりに照らされた潮江くんの耳は、確かに赤い。 「…あたたかかったから」 きっと、彼が温かかったから。こうして触れていて、嫌な気には少しもならなかった。むしろ心地よいのだ。初めて感じる彼の体温に、心臓は高鳴っていた。 「駄目?」 少し掠れてしまった声で、もう一度尋ねる。潮江くんの手のひらが、私の頬に触れた。 体を引き寄せられた。彼の腕の中に私がすっぽりとおさまる。彼に触れていない部分は酷く寒くて、触れている部分は酷く熱かった。泣きたくなった。これは、ほんとうじゃない。 私の忍び装束の裾を彼が弄るのがわかった。少しだけ露わになった肌に冷たい風が吹き付ける。ここまでか、と思った。 けれど潮江くんはすぐに私を自分から引き剥がすと、下を向いて、口を一文字に結んだ。 「やっぱり駄目だ」 「なんで」 「俺もお前も、それじゃいけないだろう」 彼なりに葛藤があったに違いない、そこはまだ熱いままだったし、眉間に寄せられた皺も、真っ赤に染まった耳もそのままで、歯を食いしばる姿に今すぐ全て吐き出したくなった。 半分ほっとして、半分寂しくなった。寂しさは何なのだろう。私は、彼とひとつになりたかったのだろうか。それは衝動的なものなのだろうか。 彼から離れた私は少し自嘲気味に笑った。 「…潮江くんはさぁ」 「なんだよ」 「優しいよなぁ」 「…なんだ」 「でもね」 「なんだって」 「あたたかかった、ってのは本当」 「え?」 「潮江くんに言った言葉は、全部本当」 彼とペアで本当に良かった。彼とペアで、最悪だった。私からすれば、嘘だらけの実習だった。でも言葉はひとつも嘘じゃなかったつもりだ。それだけは伝えたかった。 天井を見上げる。さすが、先生は気配を消すのが上手い。潮江くんだってもう一人前の忍者に近いはずなのに、少しも気付かなかったようだ。きっと、だけれど。 「もう無理でーす!終わり!出て来てくださーい!」 「おい、ちょっと…」 わけがわからない、と言った様子の潮江くんと私の前に先生が姿を現した。種明かしが始まる。 呆然としたまま先生から話を聞く潮江くんの顔を、私は見ることができなかった。 結局私の点数も潮江くんの点数も半々くらいだ。私は誘惑しきれなかったし、潮江くんは私を抱きしめてしまったから、隙を見せすぎたということで減点されていた。 先生が去った後の沈黙の重さは酷いものだった。 「…ごめん」 沈黙を破ったのは私の謝罪の言葉だった。もちろん実習なのだから、私が悪いわけではないことを私自身もわかっていたが、それでも罪悪感やらなにやらで押しつぶされそうで謝らずにはいられない。 潮江くんには、機嫌悪くあしらわれると思っていた。置いていかれても文句は言えないとも思っていた。 けれど何故かくすくすと潮江くんが笑い出したから、今度は私が呆然とする番だった。 「え、…潮江くん?」 「わははっ、やられたなー!すっかり騙されたぞ、くのたまとペアが決まった時点で気付くべきだったのかもしれんな。俺もまだまだ修行が足りん」 「ちょっと、潮江く」 「あと少しで食満の野郎に殺されるところだった」 おちゃらけたようにそう言う潮江くんはどこかぎこちなかったけれど、少しだけ、重い気持ちが吹っ飛んだように思う。きっとこんなことを言うような性格じゃないだろうに、本当に優しい。 偽者の任務で指定された城は本当は存在しない、地図の上だけの場所だ。だから私達は真っ直ぐ学園へ帰った。気まずい雰囲気は流れなかった、彼のおかげだろう。ありがたすぎて言葉も出ない。 「他の奴もみんなこの実習なのか?」 「うん、多分そう。くのたまにしか知らされてないはずだよ」 「ひでぇ実習だよなぁ」 「あははっ、ほんと。どうしよ、留三郎くん浮気してたら」 「人のこと言えんのか?」 「それは言わないでよー!いいんだ、浮気されたら私も潮江くんとこ行っちゃうんだから」 「ばかたれ、もう騙されないからな」 「あははっ」 ゆっくり歩いて帰る道のり。笑い混じりのちょっぴり探り探りの会話が照れくさくて、恥ずかしくて、少しだけ切なくて。 だから思わず聞いてしまった。彼の目は、真っ直ぐには見れなかったけれど。 「私が留三郎くんと恋仲じゃなかったら、どうしてた?」 「……さぁな」 そっか、と泣きそうに笑った私も、否定も肯定もしなかった潮江くんも、きっと今後この話をすることはもうないだろう。時折酷く愛おしくなって、だけど忘れてしまいたい思い出になるに違いない。 そしてきっとこれから先も、みんなと同じように仲良くやっていくのだ。何もなかったように。少しだけ、心にしこりを残したまま。 そのとき苦笑した潮江くんの耳が染まった色は、私だけが知っている。 (2008.04.18) |