海の中に君を見たんだ


「何者だ、手前」

中原は銃を構えながらも躊躇っていた。青い瞳は困惑と驚きで何とも言えない表情を浮かべている。自分の目に映るものに、中原の脳の理解が追い付いていなかった。

「何に見える?」

銃を向けられた女は妖艶に微笑む。
港のコンクリに押し寄せる波とは別に、女の足が水面を叩く音が中原の滑稽な顔を笑った。

「…此処はポートマフィアの縄張りだ。失せろ」

中原は女の問いには答えず銃を構え直して睨みつける。精一杯の脅しをかける中也の言葉に、女は鈴を転がすような声で笑った。楽しそうに弧を描く煽情的な赤い唇。

「海は私たちの領域だわ。それとも、その銃で私を撃ち殺す?私の肉を食べても長生きできる確率は低いわよ」

中原が殺気を向けても女は笑みを絶やさない。若しかすると混乱したままの頭で脅しても、迫力に欠けるのかもしれないと中原は心の片隅で思った。しかし此ればかりはどうしようもない。己に言い訳をするその心を、ぱしゃりぱしゃりと女が足で水面を叩く音がまた嘲笑う。…否、正確には「足」ではないのか。人間なら足に当たる女の下半身は、巨大な魚の尾であった。しかし中原を混乱させているのはそれだけではない。女――人魚と云うべきだろうか――はその上半身に洋服を着ていた。街を歩くその辺の女共と何ら変わらない服である。丈の長い服の裾から巨大な魚の尾が伸びて、海水の中を揺らめいていた。

「…あ、若しかして“人魚が服着てるー!”とか思ってる?あのねぇ、私たちだって何時までも裸でいる訳じゃないの。胸に貝殻くっ付けるとかありえないし。太古の人間が腰に布一枚巻いてるのと同じくらい古いわよ、其れ」

女の姿をじっと見つめ黙り込んでしまった中原の頭に、鈴のような声と波の音ばかりが響く。女の言葉に「そんなものなのか…」と納得しかけて、中原は我に返った。
違う。誰もそんなことは聞いていない。今時の人魚のファッション事情など、尾ひれと腹部の境目がどうなっているのかと同じ位如何でもいい。
断じて興味など無い。
断じて。
…それよりも今は目の前の女を何とかして追い払うのが先だと、漸く優先事項を見つけた中原の脳が告げる。足が魚とはいえ、上半身は人間。人の言葉を話すことも理解することも出来る目の前の女に、これから行われる取引の一部始終を見られるわけにはいかない。

「ごちゃごちゃ五月蠅ぇ。さっさと消えろ。この後の取引を見られるわけにはいかねぇんだよ」
「あら、人が来るの?それを早く言ってよね。偶にいるのよ。私たちを見るなり捕まえようとする人間」

御免だわ、と女がコンクリに座っていた腰を浮かし海へ飛び込んだ。くるりと水中で一回転し頭だけを水面から覗かせた女は、じっと中原を見つめる。

「あなたは話し相手になってくれそうだと思ったのに、残念」

不満そうに白い頬を膨らませ、名残惜しむように中原の目の前を行き来する。滑らかな尾の動きに、女のそれが作り物ではないと思い知らされた。

「判った判った。暇な時にまた来てやるからさっさと行け」

思考を放棄し仕事に専念することにしたらしい中原の脳が、精神的な疲労を訴える。ため息を吐いた中原とは対照的に、女はぱっと顔を輝かせた。

「本当?約束よ!」

嬉しそうにくるりと回って、女は水底へ潜って行く。きらきらと光を反射していた尾の輝きが見えなくなるまで中原は海の中を見つめていた。


       *       *


「…手前、能力者だったんだな」
「あら、本気で人魚だとでも思ったの?冗談でしょう?」
「……」

今日も女は丈の長い服の裾から、艶めかしい魚の尾を揺らしている。ただ、前回とは違い中原の脳には少しの乱れも無かった。
中原の手元には、目の前の女の情報の全てが記された資料。先日の取引を終えた後、女の件の一部始終を聞いた森が興味を持ち、部下に調べさせたのだ。女の能力は、想像上の生物にのみ変身すること。その気になれば妖精にも竜にもなれるのだろう。

「…名は」
「うん?」
「手前の名だよ」
「私のこと、調べたんじゃないの?」

中原の持つ資料を指して、女が首を傾げる。確かに手中の紙にははっきりと、しかも一番上に、顔写真まで付いて女の名前が記されていたが、中原は女の鈴のような声で直接その名を聞きたかった。

「…雪」

いいから云えと視線で促す中原に、女は不思議そうな顔で短く言い放つ。

「…善し。雪、うちの首領がお呼びだ。手前に会ってみたいんだとよ」

満足げに頷いた中原が手短に告げると、女は拗ねたように口を尖らせた。

「なぁんだ。会いに来てくれたんじゃなかったの。…マフィアの首領ってどんな人?怖い?私、殺される?」
「さあな。別に強制的に連れて来いとは言われてねぇし。ただ…あー……子供好きな人だ」

脳裏に森を思い浮かべた中原は最大限聞こえの良い言い方で表す。微妙な顔をする中原の心情などつゆ知らず、意外そうな顔をした女は数度の瞬きと暫しの思案の後に「いいよ」と頷いた。水面から顔だけを出していた女が静かに陸に近づき、両手を地に付けてよじ登る。ざばりと水を巻き上げながら持ち上がった身体の下半身は、不思議なことに人間の其れだった。

「そういえば、あなたの名前、聞いてない」
「…中原だ。中原中也」
「善し中也、首領とやらの処へ連れてって」

満足そうに女が言う。
早速呼び捨てかとも思ったが、自分も女の名を呼び捨てにしていたのを思い出し、口にはせずにおいた。

「…手前、その格好で首領に会う気か?」
「え?この服変じゃないよ?」

中原の険しい視線を受け、女が自分の服を見下ろしくるりと回る。だが、中原の云いたいのはファッション云々ではない。問題は、歩いた道がはっきり分かるほどに水を滴らせていることだ。本部までは車で移動する予定であったが、此れでは車内も本部も水浸しである。

「…適当に買って来てやるから、此処でじっとしてろ。そんなずぶ濡れで俺の車には乗せねぇぞ」
「なるほど」

その発想は無かったと頷いた女は一度去って行く中原の車を見送った。
数十分で戻ってきた中原に渡された服に着替えながら「変なセンスだねぇ」と笑う女に中原は五月蠅えとっとと着替えろと返す。女が着替え終わったのを確認し車を発進させた中原の隣で、「ねえ」と女が口を開いた。

「私、マフィアになる。で、中也と一緒にいる」
「はァ!?」
「痛っ」

女の言葉に驚いた中原が一瞬ハンドル操作を誤る。ぐわんと揺れた車内で頭をぶつけた女が小さく呻いた。


     *     *     *

――海にゐるのは、あれは人魚ではないのです。――
「北の海」中原中也
title by キミが映る水溜まり