お砂糖漬けの悪意


久し振りに被った非番を一緒に過ごそうという話になったのは一週間前のことだった。行きつけの居酒屋でお互いに仕事の愚痴やら笑い話やらを云いながら料理をつついていた時に、偶々休みの話をした。

「そういや手前、次の休みは何時だ」
「えっと…確か一週間後の水曜だったかな。何もなければだけど」
「なら丁度いい。火曜の夜、仕事が終わったら俺ん家に来い」

そういうことになった。
事前に合鍵を預かっていた私は、部屋の主より先にマンションの最上階の一室に上がり込む。今夜は私が料理をすると約束していた。本当は中也の方が上手なのだ――少なくとも私はそう思っている――けれど、中也が私に作れと云ったのだ。その代わりワイン選びは中也の担当である。ボトルを買ってくるのかワインセラーから選ぶのかは知らないが、中也が選ぶのだから間違いは無いだろう。

台所を借りて一先ず手を洗いながら時計を確認する。「少し遅くなる」と彼の告げた帰宅予定時刻まであと三時間程。今から数品作るとなれば、手際の悪い私には丁度いい。玉ねぎとサーモンのマリネ。ローストビーフ。カルボナーラ。そしてフォンダンショコラ。…これは私が食べたいだけ。中也のお気に入りはマリネだ。私が料理をすると中也は必ず作れと云うから、相当好きなのだろう。

マリネはさっさと作り冷蔵庫で寝かせ、牛肉の塊に味を付けてからフライパンで焼き、パスタは茹でた後に作ったソースと絡め、オーブンレンジでフォンダンショコラを焼く。
後は盛り付けるだけという頃、玄関の扉の開く音がした。

「ナイスタイミング。もう直ぐ出来、る……」

室内に入ってきた中也が帽子を脱ぐと同時に言葉を失う。不審に思った中也がくるりと私を振り向くが、翻った彼の外套の裾から一瞬だけ覗いたそれに己の目を疑った。

「おい、如何した」
「如何って……自分で気づいてないの?」
「あ?何のことだ」

どうやら自分の状況を自覚していないらしい彼の手を無言で引き、洗面台の前に立たせる。大きな鏡に映る中也の頭の丁度耳の上あたりに、ある筈の無いものが生えていた。

「あァ!?何だこりゃ!?」

漸く己の身に起こっている変化に気づいた中也が叫ぶ。普段と同じように左の髪は耳に掛けられているから、耳の位置と形状が変わったのではなく本当に“生えた”のだろう。中也の髪と同じ色をした、獣の耳。
呆然と立ち尽くす中也には悪いが、私は先刻見たものが間違いではないと確認すべく黒い外套を脱がせる。追い打ちをかける結果になるのは分かっていたが、矢張り彼の腰の中央からは尾も生えていた。

「…中也、」

私はリアルすぎる其れにそっと触れ、変化は耳だけではないことを知らせる。耳の形、尾の長さから考えると、猫或いはネコ科の動物であることは間違いなさそうだった。
何此れ誰得だよ神さまありがとう、と私が心の中でひれ伏す一方で、中也は恐る恐る尻尾を掴み本物であると確かめるように引っ張っては「痛っ」などと呻いている。…痛いという事は、耳や尾は中也の神経と繋がっているという事だ。変化しているのは外見だけではないのかもしれない。

「…中也、今日はマリネ食べちゃ駄目」
「あ?何でだよ」
「動物にねぎは毒なの。身体の内側まで変化していたら、死にはしなくても体調を崩すかも。ワインも駄目。今日は大人しく寝て、明日首領に診てもらおう」

私がそう言うと不機嫌に皺を寄せられた中也の眉間。折角の休みが台無しだと云う中也の不満が言外に伝わって来るが、此ればかりは仕方無い。
マリネの残りの鮭を焼き、みそ汁を作り、簡単な和食を用意する。先刻私が作った料理には全て動物に食べさせるべきではない物が入っていた。マリネの玉ねぎと生魚。ローストビーフの味付けに使ったニンニク。カルボナーラの生クリーム。フォンダンショコラのチョコレート。
何と運の悪い。

「…首領。こんな時間に申し訳ありません。お願いがあります。…はい。明日の朝一番にお伺いします」

拗ねる中也の横で首領に連絡を取り、出来るだけ詳しく検査できるようにして欲しいと頼んだ。それから、獣医も呼んでほしいと。
中也曰く、心当たりがあるとすれば先刻殲滅してきたばかりの組織に能力者がいたことくらいだが、相手の顔も能力も判明していなかった上に首領の命令は皆殺しだった為特に気にせずいたのだとか。
…それにしても。

「何回見ても可愛い〜!」

携帯のカメラ機能で連写する私に鬱陶しそうな目を向けてくる中也。茶色の尾は先刻からずっと大きく揺れ、不機嫌を顕にしている。

「あのなぁ、男は可愛いなんて言われても嬉しくねぇんだよ」

嫌そうに眉間に皺を寄せていても私が触ることは拒まない中也が可愛い。今のところ身体に不調は見られないし、可愛いし、癒されるし、本当に異能様々。こしょこしょと耳の付け根を撫でてあげると、気持ち良いのか尻尾の動きが少し遅くなる。機嫌が直るかもしれないからもう暫く撫でていよう。そうして中也を撫でているうちに私も中也もソファで寝てしまった。
――翌日。
帽子と外套で耳と尾を隠した中也と共に、未だ人の少ない本部ビルを奥へと進む。首領の執務室の前まで来ると、見張りの人達が頭を下げて挨拶してくれた。

「…首領、失礼します」

見張りに片手を上げるだけの挨拶をした中也はそう言ってから扉を開き頭を下げる。普段と同じように脱いだ帽子。普段とは違う中也の頭部。ぽかんと此方を見て瞬いた首領と、既に揃っている医師たち。私は昨晩、出来るだけ知り合いの医師を集めて欲しいと首領に頼んだ。人間ドックなど目じゃない位の精密な検査を中也に受けさせるためだ。体内にも変化が起こっていた場合の為に獣医も呼んでもらった。但し、中也には何も言ってない。
白衣の集団に面食らっている中也を余所に、私は首領に頭を下げた。

「態々ありがとうございます、首領。念の為、昨晩は酒や毒になりそうな食べ物は控えさせました。…後はよろしくお願いします」

医師たちにも頭を下げると、彼らも私に頭を下げ呆然とする中也を連れて部屋を出て行った。引き摺られていく中也の腰元にもさもさと膨らんでいる尾が一瞬だけ見えて、本当に正直な尻尾だなあと思う。

「昨日襲撃した組織の能力者についてね、あれから少し調べさせたんだ」

まあ座りなさい。
首領が資料片手に勧めてくれた一人掛けのソファに、失礼しますと腰を下ろした。それでね、と自分もソファに座った首領が続ける。

「如何やら人間を動物に変えてしまう能力者がいたらしいんだけど、その異能、完全に人を動物に変えるまで時間が掛かるみたいでね。変化が終わってしまえば戻る方法は無いのだけど、能力者は昨晩のうちに中也君に殺されてしまった。で、此処からは私の想像でしかないのだけどね。能力者が死んだ以上、中也君をあのままの姿に留めておく力はもう無い。だから、時間が経てば元の姿に戻ると思うよ。効果が切れるまでにどのくらいの時間が必要かまでは判らないけどね」
「…そうですか。態々ありがとうございます」

――数時間後、未だ検査の途中である筈の中也が首領の執務室に戻ってきた。その頭には獣の耳など何処にもなく、口より正直な尾もその腰に見当たらない。異能の効果は思っていたよりずっと短かったのだ。

「今日こそ呑むぞ!」

嬉しそうな中也を横目に私は写真フォルダの猫耳中也を恋しく思うのだった。


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title by 誰花