救われない君に救済を


日付は既にその数を一つ増やしてかなり経っていた。静寂と月光と中原の呼吸だけが満たされた室内の均衡を、突如鳴り響いた着信音が破る。飛び起きた中原は表示された名前を見て、怒るでもなく寝起きの少し掠れた低い声で静かに応答した。

『……………中原さん、』

すすり泣きに交じって聞こえた電話の向こうの声は、幽かな吐息で消えてしまう蝋燭の灯火の様な儚さを孕んでいる。
たった一声呼ばれただけで全てを察した中原は、肩と耳で小さな通話機器を挟んだまま寝台から飛び起き、素早く外出の用意を始めた。

「家にいるんだな?」
『…はい…』
「15分で着く。一寸待ってろ」

外套を羽織った中原はオートロックの扉に振り向くこともせず足早に昇降機へ向かう。地下に止めてある愛車に乗り込み、ダッシュボードの煙草に手を伸ばすこともせず車を発進させた。唸りを上げてガレージを出た車は、黒光りするその車体に静かな街並みの明かりを映しては流し走り続ける。中原はちらと走らせた視線の先で時刻を確認し、アクセルを踏み込んだ。

…吐息に交じって中原の名を呼ぶ儚い声を思い出し、もどかしさばかりが募る。呼ばれた理由は分かっていた。何故なら、中原がそうするように無理矢理約束させたからだ。如何しようもなくて、消えてしまいたくなったら、何時でもいい、迷惑なんて考えなくていい、頼むから自分を呼べと。彼女は半ば上司命令に近い強制力を持った約束に従ったに過ぎない。想い人が死に、直属の上司は姿を晦ませ、憔悴しきった彼女に中原が出来る事と云えばその程度しか思いつかなかった。森に頼み彼女の移動先を自分の下にしたものの想いを伝えることが出来ず、その声と同様に儚く悲しそうな笑みを浮かべる彼女に何もしてやれない己の無力さだけが、日々中原を侵食していく。

「…雪」

無意識に中原の口から吐き出された彼女の名は、紫煙のように可視化されることも無く空気に溶けた。

中原の愛車はやがて小奇麗な小さいマンションの前で停まり、その車体と同じ黒を纏った人影は何の迷いもなくマンションのある一室を目指す。呼鈴を鳴らして数十秒、出てきた人物を見るなり中原は優しく己の腕の中に閉じ込めた。

「……人に見られてしまいます…」
「こんな時間に起きてる奴なんざ、そう居ねぇよ」

中原の腕を拒むでもなく、かといってその背に腕を回すでもなく、黒に包まれた雪はその腕の中からくぐもった声を発する。その声は電話で聞いたのと同じ儚さを孕んでおり、腕を緩めた中原は赤く腫れた目元へ指を這わせた。中原の指がまだ乾ききっていない己の目元に触れるのもされるが儘になっている雪。彼女が想いを寄せていたのは、元マフィアの最年少幹部・太宰の友人だった織田作之助。

「……すみません、中原さん」
「気にしなくていいって言っただろ。…大丈夫か」
「……はい、」

蚊の鳴くような声で謝った雪に中原は首を振り、涙の跡が幾筋も残っている白い頬を撫でた。元々色白ではあったが、今では青白いと云った方が合っている。雪はこの数ヶ月で酷く痩せた。中原は雪の乱れた髪に指を通して整え、虚ろな瞳を見て胸を痛める。

「なァ、頼むから飯くらいちゃんと食え。辛いなら仕事は休んで構わねぇ」
「…できません、そんな……唯でさえ中原さんには善くして頂いているのに……休めば他の方に迷惑が掛かります…」
「ならちゃんと食え。倒れられた方が迷惑だろ」
「…すみません」

俯く雪に中原は諦めたように「もういい」とため息を吐き、邪魔するぞ、と雪の部屋へ上がり込んだ。雪は中原を止めるでもなく、一直線に続く廊下を歩いていく黒外套の後を追う。雪が真夜中に中原を呼び出すのも、中原が雪を心配して説教をするのも、もう何度も繰り返されたことでしかない。

「…おら、飲め」
「…すみません」

長椅子で膝を抱えぼうっと一点を見つめていた雪に、中原がマグカップを差し出した。自分の家のように勝手知ったる雪の家の台所から中原が持ってくるのは決まって蜂蜜入りのホットミルクである。中原は以前、寝る前にカフェインを摂るなと云っていた。この方が眠れるだろ、とも。

ホットミルクを受け取った雪のネイルが剥がれいることに中原は気づく。爪を噛む癖の所為で両手の爪がぼろぼろになったのを見咎め、昨日の昼間に中原が雪の爪に塗ってやったのだ。

「…爪、気に入らなかったのか」

何気なく聞いただけであったのに、中原の視線に気づいた雪は気まずそうに爪を隠そうとする。「…すみません、」目を伏せて謝る雪は中原を見ようとはしなかった。ネイルの剥がれた爪に包まれたホットミルクに影が落ちる。見かねた中原は躊躇いつつも、出口の見えない関係を終わらせるべく口を開いた。

「…なあ…矢張り、俺と一緒に住まねぇか」
「……それは、」
「俺と付き合えって言ってるわけじゃねぇ。ただ、心配なだけだ。一人で居ても、気が滅入るだけだろ」
「…でも……私、作之助さんを忘れたくないです…」

作之助。――織田作之助。
中原は今までにも何度か雪の口からその名を聞いている。元相棒の友人であり、先のミミック戦で彼が命を落とした事が元相棒がマフィアを抜けるきっかけになったのだ。…中原は会ったことのないその人物を、心の底から恨めしくも羨ましくも思う。中原がどれだけ雪を想い、織田を超えようとしても、死んだ人間に勝つことはできないからだ。

「忘れろとは言ってねぇだろ。このままじゃ手前まで壊れるっつってんだ。その作之助って奴は、手前を道連れにするような奴だったのかよ」
「! そんなことはっ……でも…」

雪は俯いていた顔を上げ明らかな抗議の目で中原を見たが、直ぐに強い意志を持った瞳は悲しみに萎み伏せられた。

「……前言撤回だ。雪、俺と付き合え。今は好きじゃなくてもいい。俺が必ず、惚れさせてやる」
「…え…そんな……」

困ります、
戸惑いに揺れる雪の瞳を、中原の真っ直ぐなそれが捉える。目を逸らしかけた雪の頬に両手を添え、「俺を見ろ」と中原は逃げようとする視線を絡めとった。
尚も何かを迷うように「…でも、」と目線を外そうとする雪。

「他の奴なんか忘れちまうくらい、どろどろに甘やかしてやる」
「………それでも、忘れられなかったら…?」
「そん時は、手前の中にいる其奴ごと愛してやるよ。…頼む、俺に手前を守らせてくれ」

意志の強い中原の青に射抜かれて、揺れていた雪の瞳から滴が落ちた。
閉められたカーテンの向こうの空はいつの間にか雲が全てを覆い、未だ夜明けの気配もない。
ぱたりぱたりと幾つかの滴を落として、雪の瞳は何かを諦めたように閉ざされた。


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