暖かい部屋も眠る君も


「ゲホッゲホッ……あー糞、頭痛ェ…」

ごろりと寝返りを打ち仰向けになった中原は、額に手を当て呻く。薄暗い室内はスタンドライトの淡いオレンジで満たされていた。

…中原が首領である森から暇を言い渡されたのは2日前、任務後報告の為に森の執務室に訪れた際のことで、顔が赤いと見咎められた中原は言われるままに熱を測り38度の数字を叩き出した。流行性感冒(インフルエンザ)の疑いもあったが、念入りな検査の結果ただの風邪であると診断されたのである。しかし、日頃の不摂生な生活が祟ったのか一向に回復の兆しが見られない。

中原がため息を吐いた時、薄暗い室内に白い光が差し込んだ。ドアが少しだけ開き、隙間から猫が身体を捻じ込んで入ってくる。

「……雪?」

少し掠れた声で呼ぶと、猫はにゃあと返事をした。…返事をしたが中原の傍へ来る気配がない。ドアの方へ視線を遣ると、薄く開いたドアを頭で押して大きく開き、ずるずると何かを引き摺ってくる後姿が見える。姿勢を低くして踏ん張っている後ろ足が愛らしい。中原がじっとその様子を見守っていると、オレンジの照明に照らされて猫の引き摺っている物が見えてきた。――盆。その上に、グラスと水差し、薬。小さめの土鍋と器、散蓮華。
重そうにゆっくりと盆を運んできた猫は、サイドテーブルの下まで来ると盆の取手から口を放し中原を見上げる。
にゃあ。
食えとばかりに一鳴き。
中原が重い体を起こし盆をサイドテーブルに乗せると、猫もベッド脇のスツールに飛び乗った。

「…出てけ。伝染るだろうが」

グラスに水を注ぎながら低い声で中原が言うが、猫は其処から動く気配がない。スツールから垂れた尻尾だけがその部分だけ独立した生き物であるかのようにゆらゆらピコピコと動いている。薄暗い室内の所為でまあるくなった猫の目が、じっと中原を見つめていた。

「聞いてんのか、おい…ゲホッ、」

眉間に皺を寄せた中原が苛立ちを含んだ声を発し、咳き込む。土鍋から卵粥を器に移す中原を見つめていた猫は徐に口を開いたが、そこから発せられたのはにゃあという鳴き声ではなかった。

「…伝染らないよ。今は。種族が違うから」
「あ?手前…ゲホッゲホッ」

何かを言いかけた中原が再び咳き込むと猫はため息を吐く。尾の先が不機嫌そうにスツールの側面を叩いた。

「何でもいいから早くそれ食べて薬飲んで」

中原は不服そうな顔をしながらも器に移した卵粥を口に運ぶ。何口か食べた後噎せた中原に心配そうな視線を送り、そわそわとその場で身じろぎしたが結局、猫はスツールの上から動かなかった。猫の姿で寝台に乗れば怒られると思ったからである。かといって人の姿になればそれはそれで、後で雪の異能の仕組みを知った中原に文句を言われるだろう。なぜなら――

「…手前、前に流行性感冒に罹ったじゃねぇか」
「あれは鳥流行性感冒。鴉で情報収集してた時に伝染されたの」

――なぜなら、動物になれば動物の、人になれば人の感染症に罹る可能性があるからである。逆に言えば、動物の姿でいる限り人の感染症は伝染らない。だから態々物を運ぶには不便な猫の姿で中原の部屋に来たのだ。

「あの時は首領が診察をしてくれたでしょう。首領は私がただの流行性感冒ではないと気づいていた」

猫が話すのを聞きながら、中原は食事を続ける。
猫は鍋の中身が順調に減っていくのを見て満足そうに鼻を鳴らすと、スツールから降りてドアへ向かった。

「…何処行くんだよ」
「先刻は出て行けって言ったくせに、今度は引き止めるの?」
「……寝つきが悪ィんだよ。此処に居ろ」

薬を飲んで落ち着いたのか、食事をして多少喉が潤ったのか、先刻より中原の声は普段のものに近づき咳もない。
猫はため息を吐いたが、その尾が不機嫌に揺れていないのを見る限り、呆れて怒っているわけではないらしい、と中原は思う。

「…果物持ってくるだけ。眠れないなら、一緒に寝る?」

食べ終わったなら下ろして、と盆を見上げて猫が言うと中原がサイドテーブルから盆を床に下ろした。

「…シャワー浴びてこい」
「………言っておくけど、シないよ?」
「違ぇよ!毛が落ち…ゲホッ」

沈黙の後に猫が発した言葉に思わず大声を出し、中原は再び喉を悪化させたらしい。盆の取手を咥えながら、どうやら自分は寝台に乗っていいようだ、と猫は思う。盆は鍋が空になった分、運んで来た時より軽かった。

寝室から出た猫はドアを閉め、人の姿に戻る。雪は動物に姿を変えられる能力者であり、その異能を買われマフィアの諜報員を任されているが、この異能は制約も欠点も多い。動物の姿で動き回れば普通の人間が罹らない様な感染症を伝染されることもあるし、動物の姿になって鳴き声を出すことはできても理解できるのは人の言葉だけである。

…浴室の戸を閉めたところで、雪はふと思った。
――猫の姿でシャワーを浴びた方がいいのだろうか――
雪はこの異能との付き合いは長いが抜け毛を気にした事など今まで一度もない。猫になればどのみち毛は落ちることになるのだが…。少し迷って雪は人の姿で体を洗うことにした。誰の手も借りずに猫の姿で体を洗うのも乾かすのもかなり面倒だからだ。

結局普段通りにシャワーを浴びた雪は、擂り林檎とスポーツドリンクを盆に乗せ、猫に姿を変えてから寝室のドアを開ける。先刻と同じ要領で盆を運び入れると、中原は上半身を起こしていた。

「如何したの?トイレ?」
「…眠れねぇ」

扉を閉めた猫が再び盆の取手を咥えるより早く、寝台から立ち上がった中原が小さな獣を抱き上げる。驚いた猫が己を抱えた腕の中で体を捻り、中原の胸に小さな前足を付いて藻掻くが解放される気配はない。

「一寸、何なの?一緒に寝てあげるってば!」
「…遅ェんだよ」
「待って、分かったから!林檎を置き去りにする気?」
「あァ?」

毛を逆立てる猫の抵抗などそよ風程度でしかない中原は、片眉を上げて寝台に戻りかけていた足を床に置かれたままの盆へ向けた。
そのまま屈むことも無く足先で盆に触れると、乗っていた擂り林檎やスポーツドリンクごとふわりと宙に浮き、宇宙に漂うかのようにゆっくりゆっくり中原の後ろを付いてくる。中原は寝台に戻り、猫は漸く解放された。猫が乱れた毛並みを直していると中原が隣を叩いて呼ぶ。視界の隅で、盆が中身ごと無事サイドテーブルに着地した。

にゃあと一鳴きして中原の身体の脇からベッドに潜り込んだ猫はぐりぐりと額を押し付けて甘え、喉を鳴らす。薄暗い部屋でまあるくなった瞳は、中原が穏やかな寝息を立てるまで見守っていた。


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