誰にも届かなかった手紙


今日私は、生きる理由を亡くしました。昨晩から行方の知れなかったあの人は、今朝になって川の下流から見つかったのです。
――私の知らない、女性と一緒に。
確認をと見せられたあの人は、川を流れていた時間が短かったのか普段と然程変わりない姿で、また何時もの様に私を驚かせるための演技なのではないかと淡い希望を持ちました。…けれど、指先に触れたあの人の身体は冷たかった。
抜け殻のような私を支え、社の人達が家へと送ってくれました。あの人と、私の家。もう自分の足で立つことも無い、あの人の身体と一緒に。
国木田さんが葬儀が如何のと云っていたような気がして、私も何となく聞いている風に頷いていたような気もしますが、何を言われ如何応えたのか全く記憶には残っていません。白い布団に寝かされたあの人をぼうっと眺めていると、敦君が遠慮がちに私の手を引いて立たせ居間へ連れ出しました。此方の部屋では社の方々が家具を別室に移したり、どこかに電話を掛けたりと忙しそうです。部屋の隅にあった椅子に誘導された私は時折何かを話しかけてくる人に対してただ頷くことしかできず、私がぼうっと相手を見つめると決まって目の前に立つ人は悲しそうな顔をしました。

――雪ちゃん。

…ふと、あの人に呼ばれた気がしました。
辺りを見回しても勿論あの人はいません。あの人は、もう二度とその声で私を呼んでくれる筈が無いのです。けれど私は、何処からあの人の声が聞こえたのか分かったような気がしました。
椅子から立ち上がり部屋を出て、確信だけをもって階段を上がり入ったのはあの人の部屋。殺風景な部屋には本棚と椅子と机とスタンドライトが一つずつ。部屋の窓際に備え付けられた机の上に、二つ折りにされた紙が一枚置いてありました。自分の名前が記された其れを手に取りそっと開いた私は、そこに書かれた文字を見て静かに崩れ落ちたのです。

『誰よりも愛していたよ。
雪ちゃん、どうか、幸せに。』

たった二行。
けれどその二行は確かにあの人の声で以って、私の脳から耳へ伝えられたのです。
…如何して。如何してですか。“誰よりも愛していた”のなら、如何して他の方と死んでしまったのですか。如何して私を置いて逝ってしまったのですか。如何して。私があなたを喪って、幸せになれるとお思いですか。死ぬ時は一緒にと云っていたのに。悲しい思いはさせないと約束して下さったのに。
あの人の手紙をくしゃりと握って、私は何時まででも泣き続けました。あの人の死を確認してから今まで一度も涙の一つも零さず、今こうして初めて泣いているという事に私は気づきませんでした。

――どうか、幸せに。

悲しそうに笑ってあの人がそう言うのを容易に想像できてしまって、如何しようもなく胸が苦しくなりました。あの人の髪も、声も、匂いも、眼差しも、未だ全て覚えているのです。斯うして一人で泣いていれば、あの人が来て慰めてくれるような気さえするのです。
そんな筈は無いのに。
あの人は死んだのです。下の部屋で、白い布団の上で、今もその冷たい身体を横たえているのです。もう二度と、私を撫でてはくれないのです。
もし、叶うなら。
もう一度その声で「愛してる」と云って欲しい。過去形ではなく。文面ではなく。

「……如何して…如何してですか、太宰さん…」

如何して、私を置いて逝ってしまったの。
私は、あの人がそう望むなら死ぬのでもよかったのに。

――幸せに。

…幸せとは何ですか。如何すれば、あの人の望む幸せになれるのでしょう。あの人は、何時も啓蒙的でした。私が迷っていれば、何時も其の言葉で以って照らし進むべき道を示してくれました。
あの人を喪った今の私には、もう進むべき道が分かりません。立ち上がることすら出来ません。今の私にあるのは、思い出になってしまったあの人の記憶と、果てしなく続く暗闇だけ。
私はこれから、如何したらいいですか。ねぇ太宰さん。
一先ず、それを聞きにあの人の処へ行ってみましょうか。


     *     *     *

title by コペンハーゲンの庭で

明治の天才作家にして屑野郎、本家本元の文豪・太宰治のエピソードより。
あんな手紙を残されて、奥さんは如何したらいいのでしょう。