冷えた色の目に宿る


失われたものは二度と戻らない。
銃弾の前に枯れゆく花の花弁と散った紫煙の友人に、太宰は思いを馳せる。溶けた雪、燃え尽き色を失った灰、そして、消えた命。絶えず前進し続ける秒針を後ろに進ませることは誰にもできない。
…寝台で眠る少女は、太宰の知らない大人びた化粧を施し、太宰のよく知る隠しきれない幼さを湛え、静かな寝息を立てていた。自分の知らない化粧をする少女に誰がそんな指示をしたのか、他者に問うまでもなく己の脳裏に浮かぶ人物に、太宰はため息を吐く。
刹那、閉ざされた瞼が微かに動いたことに気づき、太宰の表情に緊張が走った。

「やあ、目が覚めたかい?」

出来るだけ落ち着きを払い、太宰の焦げ茶の瞳は開いたばかりの少女の瞳に微笑みかける。色素の薄い少女の瞳は、角度によっては七色にも見える淡い色の其れを戸惑いに揺らしつつも、己を優しく見つめる焦げ茶を確りと捉えた。

「……あなたは…誰、?」

困惑と不安と怯えに震える声は、揺れる淡い色の瞳と共に少女の胸の内を如実に表している。警戒する小動物よろしく、太宰の一挙一動を注意深く見つめる少女に、太宰は無害であると示すべく人工的な白に巻かれた腕を伸ばした。

「記憶が無いのかい?私は太宰。太宰治。君の恋人なのだけど……抑も君、自分のことは覚えている?」

太宰の問いに自分が何者であるかも分からないと気づいた少女は、不安の色を濃くしながら小さく首を振る。
白い頬に伸ばされた手が触れると少女はぴくりと震えたが、太宰が指の背でゆっくり撫でてやると幾分か緊張が和らいだようだった。

「可哀相に。怯えているね。大丈夫、此処に君を傷つける者はいないよ。…却説、先ずは君の名前だね。君は雪。麻乃雪というのが君の名前だ」
「…雪、」

太宰の告げた名を確かめるように口にした少女――基、雪に太宰は微笑んで頷く。雪の頬を撫でていた手が、自分よりも小さく華奢な白い手を握った。

「立てるかい?向こうで温かいものでも飲みながら話そう」

紳士的な太宰の笑みの奥に、雪は底知れぬ闇を垣間見たような気がしてじっと見つめる。視線に気づいた太宰が「ん?」と首を傾げたので、慌てて首を振って立ち上がった。
雪が太宰に手を引かれて入った部屋は事務所のような処で、「此処は探偵社なのだよ」雪の思考を読んだように言う太宰に納得する。室内には事務員らしき女性が一人いるだけで、室内に並ぶ机の多くは主不在でがらんとしていた。雪の姿を見ると女性は心配そうに声を掛けてきたが、戸惑う雪を庇うように太宰が女性を宥める。

「本当は社員がいるのだけど、依頼が多くて皆出払っていてね。戻ってきたら紹介しよう」

太宰は給湯室から持ってきたマグカップの一つを雪に手渡しながら長椅子に座るよう促し、自分もその隣に腰掛けた。
雪は太宰の頭から爪先までを改めてじっと見つめる。
奇妙な男だと思った。
顔にかかる蓬髪。アイロンのかかっていないシャツ。草臥れた外套。けれどそれらから不潔さは感じない。しかもこの男は先刻、自分の恋人だと言っていた。

「そんなに見つめられると照れてしまうよ」

微塵も照れた様子のない微笑みで、穏やかな声は言う。飄々とした態度の優男は人当たりの良い笑みを浮かべているのに何処となく胡散臭い。そして何より目を引くのは、腕や首に巻かれた包帯だ。何か大きな怪我をしているのなら痛がる素振りを見せる筈だが、この短時間の太宰の動きはごく自然なもので少しもそんな様子はない。

「雪ちゃん?まだ少し頭がぼうっとするかい?」
「…いえ、大丈夫です」

太宰は絶えず優しい眼差しを雪に向けながらも、時折気遣う素振りを見せる。雪は目の前の男に敵意が無いことに安心し、その口が紡ぐ言葉を素直に受け入れた。
太宰が語ったのは凡そ次のようなことである。
太宰と雪は恋人であるが、探偵社員と雪に面識はない。社の近くで雪が事故に遭い、救急車を呼ぶより探偵社へ運んだ方が早いと太宰が判断し今に至ること。雪の記憶が無いのは、事故に遭った際頭を強打した所為と思われること。雪を治療したのは与謝野という女医で、異能を持つ“能力者”であるということ。

「…異能…?」
「それも忘れてしまったのかい?…そうだねぇ。異能というのは、稀に人に発現する特異な力のこと。能力は人それぞれ。手帳に記した物を出現させられる者や、虎に変化する者、立体映像――つまり、幻覚を見せられる者もいる。まあ、色々と条件はあるから唯の便利な力という訳でもないけれど…。斯く言う私も、そして雪ちゃんだって能力者だよ」
「…私、も…?」

不安に揺れた淡い色の瞳に、太宰は優しげな笑みを深め雪の手を握った。

「大丈夫だよ。何も怖くないから」

太宰は雪の異能について「特定の領域の温度を操作する異能」と説明し、雪の持つマグカップを指した。「冷やしてごらん」太宰は言う。戸惑い眉を八の字にする雪にうふふと笑う焦げ茶の目は、何故か酷く楽しげで嬉しそうだった。
未だ湯気の立つマグカップの中身を見つめ、冷やせと言われた雪は悩む。
――冷やす?どのように?どのくらい?念でも込めればいいのだろうか。困惑しつつも冷たくなったマグカップを何となく思い浮かべる。

「…っひ、」

刹那、液体の表面がパキパキと音を立てて凍り付いていくことに気づき、雪は危うくマグカップを取り落としそうになった。

「おっと。…大丈夫だよ。ほら、元通り」

下から素早くマグカップを支えた太宰がにこりと微笑む。
液体は何事もなかったように湯気を立ち上らせていた。

「私の能力は、あらゆる他の能力を触れただけで無効化する。…しかし、記憶が無いのにすぐ発動させられるなんて、雪ちゃんはすごいねえ」

子どもを褒めるように頭を撫でられ雪が笑みを零すと、「ようやく笑ったね」と太宰は安堵したように言う。

「撫でられるのが好きかい?おいで、幾らでも可愛がってあげるよ」

腕を広げた太宰に顔を赤くし首を振るが、結局は包帯を巻かれた其れに捕らえられた雪。長い脚の上に乗せられお腹に腕を回されれば、もう何処にも逃げ場など無い。

――失われたものは二度と戻らない。
銃弾の前に枯れゆく花の花弁と散った紫煙の友人を、太宰は思う。
燃やした外套と共に消えた黒い時間。バーのカウンターで横に並び他愛ない言葉を交わす友人関係。そして、雪の記憶。
時を刻む時計たちはその針を左回りに進めることを知らないのだ。
自分の正体も忘れ腕の中ではにかむ無邪気な少女に、太宰は底なし沼の瞳で笑った。


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