私が紡ぐただひとつの詩


「…おい、こんな所で寝てたら風邪引くぞ。…ったく、仕方無ぇなァ」

ゆらゆらと体を揺すられ、軈てふわりと浮いた。カチャリと金属の擦れる音がする。…其処まで認識したところで、雪は漸く目を薄く開いた。
部屋は白い光で満たされている。――陽は未だ高い。

「…中原さん…?何で…」
「あ?自分の家に居ちゃ悪いかよ」

外気の匂いを纏った中原の服に擦り寄り、雪は首を振る。主人の帰りを喜ばないペットがいるだろうか。少なくとも雪には考えられない。

「元々今日は非番だったのを呼び出されただけだ」

中原は言う。雪の考えなど最初からお見通しで、あえて悪態をついたのだ。然しそんな憎まれ口にも嫌な顔一つせず、雪は中原の首へ腕を回す。中原は雪の行動に動じることも無く、当然と云った態度で以って雪の甘えに応えた。

「で、手前は何であんな所で寝てた。…それと、いい加減名前で呼べ。部下じゃあるまいし」
「……中也…さん、」
「“中也”だ」

中原は雪をベッドに降ろし、その身体に覆いかぶさるように両手をつく。中原の青い瞳が雪を射抜き、震動の一つ一つにカチャカチャと金属音が反応した。

「…中也…」
「ん。いい子だ」

囁くように名前を呼んだ雪に、中原は目を細める。そのまま雪の隣に転がり、擽るように首や頬を撫でた。その様は飼い猫を可愛がる飼い主そのものだが、抑も飼い猫と飼い主の図を見たことのない雪には知る由もない。唯、己が中原のペットであるという自覚はある。雪の首には、金属の鎖に繋がれた革の首輪が嵌められているのだ。先刻から音がしているのは、この長い長い銀色の鎖である。中原であればこの程度の拘束を引き千切るのは朝飯前だが、雪は何の力も持たない非力な飼い猫。如何足掻いてもびくともしない。其れ処か、雪は自分の首に中原と同じ首輪が付いていることを喜んでさえいる。しかも無知な雪が勝手に揃いと喜んでいるのでは無く、本当に中原のチョーカーと同じ物に鎖が付いているのだから質が悪い。重ねてその悪趣味を飼い猫も飼い主も自覚しておらず、他に指摘する者もいないのだから救われない。

「なァ、雪」

雪、雪。
何度も名を呼び乍らつんと尖った雪の愛らしい唇に、中原は噛み付くようなキスを繰り返した。雪は抵抗するでも無く、中原に縋りつくでも無く、されるが儘中原に口内を犯されている。
中原が態と立てる水音と漏れる吐息に聴覚を嬲られ乍ら、服の裾から侵入して来た手に雪がぴくりと反応した。中原は雪の身体の震えを敏感に察知し、一瞬だけ唇を離しニヤリと笑う。
鋭くぎらつく瞳。己を絡めとる舌。体中を這い回る腕。雪は時々、中原が蛇であると云う妄想をする。中原が蛇なら、雪は獲物だ。流し込まれる唾液は身体の自由を奪う毒。身体を這う二本の腕は、やがて雪を徐々に締め上げ細くか弱いそれをポキリと折るだろう。

「――…雪?何考えてやがる」

妄想から雪を引き戻した中原は熱い吐息を漏らす。青の視線に射抜かれて、雪は咄嗟に「昔のこと、」と嘘を言った。

「昔?…貧民街のことか」

中原の視線が気遣うようなものに変わり、雪は言葉選びを間違ったことに気づく。
雪は貧民街に倒れていたのを中原に拾われた。幼くして捨てられた雪は一人で生き抜く力を持たず、最初は多くいた仲間たちも一人また一人と減っていき、中原と出会った時には雪一人だった。親を知らない雪は、故に自分の苗字も知らない。名前の響きは貧民街にいた頃から使っているものだが、それに字を当ててくれたのは中原だ。
自分のような薄汚い小娘に、何故中原が此処までするのか雪には分からない。問うても答えてはくれない。
唯、身体を清潔に保ち、高い服を着せ、空腹を知らぬ日々を、中原は雪に与えてくれる。過去という亡霊が夢枕に立ち雪を泣かせれば、それが例え徹夜後の久方ぶりの睡眠であっても中原は起きて宥め、雪が少しでも不調を訴え――或いは其の兆しを見せれば、中原は医学書を片端から引っ繰り返し終いには己が首領に伺いを立てる。
そうまでされても雪が自分は中原のペットと自覚するのは、雪が親としての愛も異性としての愛も知らぬからである。
以前貧民街で、首に鎖を繋がれた人を見たことはある。其の人は奴隷だった。そこで雪は自分は中原の奴隷かと訊ねたが、中原は眉間に皺を寄せそれを否定した。ならば何かと思案した結果、雪が思い当たったのは同じく首に鎖を繋がれた犬だった。同時に遠い昔、貧民街の仲間の一人が自分に教えてくれたことを思い出した。物好きな金持ちの中には、動物に人間と同等の贅沢をさせ可愛がる者がいるのだと。

「…雪。貧民街でのことは忘れろ。手前の家は此処で、手前は俺のモンだ。誰にも居場所を奪わせたりはしねえ。少しでも害する奴ぁ俺が殺す。いいな?」

中原の言葉の真意を自分の歪んだ了解を通して受け取り、雪は頷く。中原は雪の勘違いなど知る由もなく、満足げに微笑む。

「愛してる雪。手前は俺のモンだ。俺だけの…」

中原はまた雪の唇に噛みつく。何度も何度も。角度を変え、熱い吐息を漏らし、雪の口内を犯しながら。雪の聴覚を嬲りながら。
んく、と中原の唾液を飲み下しながら、雪もまた蛇の妄想に囚われる。
奇妙な二人の揃いの首輪を非難するように、冷たい鎖がカチャリと音を立てた。


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title by 喉元にカッター