灰まで愛してくれますか


※暴力、軽い性描写注意








「あなたはあなたの好きなようにしていいのですよ、雪。ただし、僕の目の届く範囲にいてください」

お腹を蹴られる。
床を転がる。
また蹴られる。
壁にぶつかった。
殴られた頬も、踏みつけられた脚も、ワインボトルを叩きつけられた腕も、全部が痛い。
口からは声のならない呻きと血だけが漏れた。
ドストエフスキー様。
私のご主人様。
青白い顔は眉一つ動かない。仄暗い目が淡々と床に転がる私を映している。口元だけが、ほんの少しだけ愉しそうに歪んでいる、ような気がした。
しかしすぐにそんな思考は吹き飛んだ。
お腹を思いきり踏みつけられる。少量の血と空気が同時に吐き出された。
ずっと立ったまま私を見下ろすだけだったドストエフスキー様が、私に顔を近づける。ぼろぼろで血が滲む指が、血色の悪いふたつの手が、私の首元に伸びてきた。首を絞められる。じわじわと、気道が塞がれていく。視界が少しずつぼやけていく。
けれど私は知っていた。ご主人様に、私を殺す気がないことを。
意識が飛ぶ寸前で、首元から手が離される。ゲホゲホと咳き込む私の、生理的な涙をドストエフスキー様は愉しそうに舐めた。今度は、目元も弧を描いている。

「雪、雪。ぼくの可愛い雪。たくさん可愛がってあげましょう」

貧弱そうな細腕で、いとも簡単に私を抱き上げたドストエフスキー様。これからされることも、勿論知っている。
服を脱がされ、傷や痣にまみれた汚い肌が晒された。一糸まとわぬ姿になった私を壊れ物のようにそっと寝台に寝かせたドストエフスキー様は、自分の服にも手をかける。
ドストエフスキー様は何処も彼処もひんやりとしている。指先や頬だけでなく、胸や腹、身体の中心部に近づいても低い体温に変わりはなかった。ただ、行為中に吐き出される息と、私の胎に残された白濁だけが熱い。それだけがドストエフスキー様から感じる温度だった。私が熱すぎるせいかもしれない。全身がひんやりとしているドストエフスキー様に比べ、私は何もかもが熱かった。彼方此方にできた痣や傷、ドストエフスキー様のものを受け入れた胎内、冷たい指先に触れられた肌。そのどれもが熱い。
熱で浮かされてろくに働かない頭で、また首に手が回されたことを辛うじて認識する。気道が塞がれていく苦しさと、胎から絶えず与えられる快楽に、今度は簡単に意識を飛ばした。



好きなようにしていいのですよ。
ドストエフスキー様は言う。あなたの好きなようにしていいのですよ、と。
事実、私が勝手に外を出歩いても、ドストエフスキー様は一度も叱ったことがない。帰るのが遅くなると小言は言われるが、怒られはしない。なのに何故、昨日はあんなにも怒っていたのか。
ドストエフスキー様がここまでするのは、相当怒っている時だけだ。体中にできた痣を眺める。
怒っていた。……何に?
ドストエフスキー様が帰ってきたのは昨日の昼で、私は本を読んでいた。その前はゴンさんとお茶を飲んで、朝はコーヒーとトーストとスクランブルエッグを食べた。一昨日は街に出て宛もなくふらついて、変な男の人とお茶をした。
包帯を巻いた、背の高い、変な男。
イレギュラーだった事はそのくらいだ。
普段なら絡まれたって一言も返したりしない。完全無視だ。私があの変な男の誘いに乗ったのは、目がドストエフスキー様にどことなく似ていたから。目元が、じゃない。目が似ていた。心の内まで見透かされているような、笑っているようで冷ややかなような、仄暗く翳りのある目。
名前は知らない。互いに名乗らなかった。
やたらとボディータッチをしてくるのが鬱陶しくて、お茶をしたあとは早々に別れた。
…もしかしてあの男の匂いでもついていた? ドストエフスキー様が怒っていた理由を考えて、やはり違うと思い直す。だって一昨日の夜は長めにお風呂に浸かったし、昨日と一昨日では着ている服も違うのだ。
ダメだ、わからない。
──大変だねぇ、君も。──
憐れむような、同情するような、救いようのないものを見るような男の目が、何故かずっと頭から離れなかった。






「やァ。聞こえているかい? 君も飼い猫の首に鈴を付けたりするんだね。それにしたってこれは付けすぎな気もするけれど」

盗聴器から聞こえる会話で、あの男と彼女が一緒にいるのは分かっていた。彼女の対応からして、初対面だろう。今すぐにでも彼女をアジトに引っ張って帰りたかったが、どうやっても無理な状況だった。やきもきしながら、会話を一言も聞き漏らすまいと息を詰める。彼女がやっと帰る意思を見せた時は安堵した。
しかし。
あの男と彼女が別れた瞬間、付けていた発信器の反応が全て消えた。複数の盗聴器も一つを残して全てノイズだけになった。そして、残された最後のひとつから、あの男の声がした。
何よりも腹が立ったのは、彼女の全身の至る所に付けた小型機械の全てを取り外されたことだ。ゴミが付いていると言って外すには少々無理がある場所だってある。ベタベタと彼女の体に触った男への怒りが一番だったが、抑えきれない怒りは彼女にも向けられた。
普段ならどれだけ話かけられようと無視を決め込むくせに、何故よりにもよってあの男の誘いには乗ったのか。
これはきつくお灸を据えなければ。
ドストエフスキーは盗聴器の受信機を握り潰した。


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title by 誰花