常夜灯を消さないで
「……先生…」
「雪。どうしました」
「怖い夢みた…」
ドストエフスキーが画面から目を離し振り向くと、薄暗がりの中に目をこする少女が立っていた。桃色に染まった頬は涙で濡れている。
「…雪。夢というのは、睡眠中に脳の一部が活動していることで過去の記憶映像などが再生され、それに合致するストーリーが作られていくもので、」
「理屈じゃないの。理屈じゃどうしようもないの…」
めそめそと泣きつく雪を抱きとめ、ドストエフスキーはその小さな背中を撫でる。
彼は珍しく言葉選びを間違った。理屈を並べたつもりはなく、ただ、それは夢だから大丈夫と言いたかっただけなのだ。
雪のことになると、ドストエフスキーは時々思い通りに事を進められない。特に、彼女を慰めることに関しては。機嫌をとることはできる。行動の予測など呼吸をするより易い。けれど、ぐすぐすと愚図ったり泣き出した雪をあやすことだけは、なかなか上手くいかない。今回も失敗してしまった。
閉口したドストエフスキーは、自分の肩口に顔を埋めて未だ鼻をすする雪の背中を優しく一定のリズムで叩く。
「…さあ、雪、そろそろベッドに戻ってください。ここは冷えます」
ドストエフスキーのいる部屋は仕事部屋で、雪が寝ていた寝室は別にある。仕事部屋に暖房器具はあるものの、打ちっぱなしのコンクリの床と壁のせいで室内は冷えきっていた。
小さな背から手を離し、部屋に戻るよう促すが効果はない。いやいやと首を振る雪は、ドストエフスキーの血色の悪い首に、腕を回してしがみつくだけだった。温かい、寝起き特有の体温。このままこの部屋にいては、雪の体が冷えてしまう。それは良くない。けれど今のように愚図る雪に云うことを聞かせられたためしが、ドストエフスキーにはなかった。ちなみにゴーゴリは雪を笑わせてご機嫌取りをするのが上手い。とても妬ましいことに。
「……ここにいちゃだめ…? 先生の邪魔はしないから…」
まだ赤い潤んだ目で見つめられ、ドストエフスキーに「だめ」と言えるはずがなかった。
せめてできるだけ身体を冷やさないようにと、傍にあったブランケットを雪に巻き付ける。それでも不十分な気がして、一度席を外したドストエフスキーは蜂蜜入りのホットミルクを作って雪に手渡した。すんすん、小さな鼻がホットミルクの匂いを嗅ぐ。白くほんのりと甘いそれに、安心を求めるように。
「雪、こちらへ」
もこもこの塊になった体を持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。カタカタとキーボードを叩くドストエフスキーの指先を、雪は黙って見つめる。
キーボードを指先が叩く。
いくつもある液晶ディスプレイにそれぞれ違うページが表示される。
カタカタと指が素早く動く。
ディスプレイの文字列が変化していく。
「…先生、」
「はい」
「指、噛んじゃだめ」
「………すみません」
自分の指先を見つめ、自分を見上げる雪に視線を移し、ドストエフスキーは静かに謝った。
仕事を邪魔されているという感覚はないらしい。自分よりはるかに弱い存在に窘められていることに、居心地の悪そうに身じろぎする。雪に怒られて、ドストエフスキーは素直に反省していた。キーボードを叩いていた手を止め、真っ直ぐに雪の目を見つめる。どちらが子どもか分からなかった。
「…約束ね」
「はい」
差し出された小指に、小指を絡める。
お日様の匂いさえしそうな温もりと、乾燥し冷えきった指先が、ほんの一部だけ交わった。
温度を共有し合う。
柔く湿った手と、冷たく血が滲む皮膚。
決して触り心地はよくないであろう指先に触れ、それでも雪は嬉しそうに笑った。
すっかり機嫌は直ったらしい。
ホットミルクが冷めないうちにと勧め、ドストエフスキーはまたキーボードを叩き始める。
……明日はマフィア幹部、Aの元へ行く予定である。尤も、向こうはドストエフスキーを捕らえたと思うかもしれないが。恐らく数日は帰ってこられないだろう。雪は寂しがるだろうか。
…そうであって欲しいと、ドストエフスキーは淡い期待をする。そして明日から数日の間留守にする旨を、膝に乗せたもこもこに伝えた。
「うん。分かった」
こっくりと、雪は頷いた。
………寂しそうでは、なかった。きりりと引き締まった表情をして見せ、「ちゃんとお留守番してるね」と言う。期待は打ち砕かれた。ドストエフスキーはがっくりと項垂れる。
「……雪……ほかに何か言うことはありませんか」
「? えーと、いってらっしゃい?」
「………もういいです」
「???」
ドストエフスキーは黙って雪を抱きしめる。状況を理解できぬまま、雪はその小さな手で落ち込む背中を撫でた。よしよし、先生どうしたの? もう寝る?
ドストエフスキーは雪の言葉に黙ったまま首を振る。奇しくもそれは数十分前と逆の立場の二人とよく似ていた。
* * *
title by コペンハーゲンの庭で
ドスさん見事にキャラ崩壊。誰だよ。