ねえ、届いていましたか。


雪は、中原のしなやかな首筋が好きだった。普段は自分と揃いの黒のベルトに装飾されており、そのベルトを外していいのは中原本人と雪だけであることを理解していた。自分が中原と同じものを身に付けているということも勿論気に入っているが、自分以外の前では晒されない中原の首筋を独占できるこの時間が、雪は何よりも好きだった。
好きと言い表すだけでは足りず思い余ってかぷりと首筋に甘噛みする雪を、中原が止める気配はない。

「甘えてんのか? 可愛い雪」
「……好き。大好き」

そう言葉にはするものの、やはりもどかしい。かぷ、ともう一度中原の首を甘噛みした雪は、うっすらと歯型が付いたそこを舌先でちまちまと舐める。「擽ってぇよ」と笑う中原は、雪の頭を大事そうに撫でた。力関係は圧倒的に中原の方が上であるのに、雪が組み敷いてもマウントを取り返そうとはしない。好きにしろと投げやりな態度、という訳でもなく、その様は飼い猫を腹に乗せて可愛がる飼い主のようだった。…否、そのものだろう。雪は中原の飼い猫であり、中原は雪の飼い主なのだから。少なくとも雪はそう思っている。雪は己の頬を撫でる中原の指を甘噛みし、とくとくと脈打つ胸板に擦り寄り、身体全身で「好き」を表現しながら頭の片隅で考えた。
過去を持たないと云う中原。雪に「昔のことは忘れろ」と言うのは、仲間が欲しいのかもしれない、と。
以前少しだけ、酔った中原から聞いたことがあるのだ。自分はある日突然生まれた。母の胎の中で細胞分裂を繰り返して成長し人に生まれ落ちたのではなく、突然人としての記憶が始まったのだと。
雪の足りない頭では、難しいことはよく分からない。それでも己の過去を話す中原に雪が不安を抱いたのは、常ならば自分を射抜く青い瞳がゆらゆらと儚げに揺れていたからである。ただ、その時の中原は酷く酒に酔っており、原因の半分は酒で情緒が不安定になっていた所為だということを雪は知らない。酔った人間に起こる変化を、酒と無縁な雪は理解できなかった。だから、今のように素面な中原に対しても雪はしばしば、その時と同じ行動をとる。両手でそっと中原の頬を包み、じっと大好きな青い瞳を見つめ、一言。

「…寂しい?」
「…またその話か」

雪が何を考えているのかを瞬時に察した中原は、己の過去を話した夜のことを覚えていない。ただ、雪が時々やるようになったその仕草や雪本人の口から自分が昔のことを語ったと聞き、知ってはいる。
自分が人間ではないと語ったことも雪から聞いた。どのように語ったかまでは不明だが、中原を恐がる素振りすら見せないどころか心配そうに見つめてくる雪に、中原は気まぐれで問いかけてみた。

「…俺が怖くねェのか」

そう言う中原にきょとんと目を瞬いた雪は当然と云った表情で首を振る。銀の鎖がしゃらしゃらと音を立てた。
──だって、あなたは、私のかみさまだもの。
雪の言葉に中原は目を見開く。その脳内で、当時の出来事が甦った。
かつての仲間たち、暴力、依存、不安、羊の群れの終末と、きっかけとなった事件、同時に明らかになった自分の正体。
…不意に、中原が銀の鎖を引いた。
雪の首輪に繋がる鎖。主従を示す最も明確なそれにより、白く細い首筋は締め付けられ、強引に引き寄せられる。

「怖くねェのか」

中原はマフィアに相応しい死の闇を映した瞳で、同じ質問をした。先刻とは違い、低くドスの効いた声で。

「俺の気分次第で、死ぬかもしれねェんだぞ」

それはかつての仲間が中原に向けた言葉であった。
しかし雪は少しも怯えることなく、その愛らしい目を心配そうに揺らす。
中原が言葉とは裏腹に苦しそうな表情をしていたためである。

「…私を殺したいの?」

無垢で愚盲なその瞳に、恐怖は映っていない。ただ、中原に対する絶対的な信頼と崇拝にも似た愛情だけがあった。

「…いいよ」

やがて静かに雪は言う。

「殺したいなら、そうしていいよ。私は、あなたから与えられるものなら、何だって嬉しい」

自分がどれだけ愚かなことを言っているのかを微塵も理解せず、幸福そうに雪は微笑んだ。

「…そうかよ」

張りつめていた中原の表情が、毒気を抜かれたように緩む。愚かで愛しい腹の上の存在は、どんな状況であっても自らの意志で中原を傷つけることは無いだろう。
……愛してほしい、と素直に言えたらどれだけよかったか。否恐らく、中原自身もその欲求に気づいていないのだろう。かつて自分を仲間にしてくれた羊たちは、中原の能力に惹かれ必要としていただけであった。そして、その能力が無ければ、今の仲間や地位も無かっただろう。
中原はただ、自分自身を見て欲しかった。強大な力の枷であり表面を覆う人格としてではなく、一人の人間として愛して欲しかった。しかしその欲求そのものにも、それが既に叶っていることにも、中原は気づいていない。恐らくこの先も、気づく事など無いだろう。
本当に愚かなのはどちらか、と音を立てて笑う鎖など気にも留めず、雪はまた中原に甘え始め青い目がそれを眺める。時折じっと見つめてくる雪の頬を中原が撫でてやると、嬉しそうに目を細めた後、雪はその指に柔く歯を立てた。口に含まれたその指先で中原が小さな口内を弄ぶように犯せば、歯を立てるのを止めされるがままになる。雪がバランスを崩さぬようにと腰に添えるだけであったもう一方の手を華奢な体に這わせれば、潤んだ目が中原を見つめた。

「雪、」

愛してる。
上下を入れ替え雪に覆い被さった中原が言う。愛とは何かを、雪が全く理解していないとも知らずに。
雪がするのとは違いねっとりと首筋に舌を這わせれば、細く白い腕が中原の頭を抱え込んだ。
中也、と最近漸く呼び慣れたらしい名前で、雪が中原を呼ぶ。中原が動きを止め言葉の続きを待ってやるが、それ以上桜色の唇から何かが紡がれる気配はない。返事の代わりとばかりに中原が雪の唇に噛みつく。
二人が互いに愛情を持っていることを、揃いの黒い首輪だけが知っていた。


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