「中也の阿呆が戻ったそうじゃ。会いに行くかえ?」
「! はい!」

…彼が出張──少なくとも私にはそう言った──に行ってから約半年。真逆こんなに長いとは。
彼が留守の間、私は紅葉さんの所に預けられた。頼みます、と紅葉さんに頭を下げた彼の苦々しい顔は今でも忘れない。ものすごい顔してた。

「居らんのぅ。雪の元へ飛んでくるものと思っておったが…何ぞ、問題でもあったかの」

紅葉さんの後ろを付いて歩き彼の執務室だという部屋へ行ったが、中に人はいなかった。口元を袖で覆った紅葉さんが、怪訝な顔で言う。二人で首を傾げていたところへ、紅葉さんの部下らしい人が小声で何かを告げた。みるみる紅葉さんの顔が険しくなっていくけれど、部下の人の声はモソモソしていてよく聞き取れない。
やがて此方を向いた紅葉さんは張り付けたような笑みを浮かべていた。背後に金色夜叉とは違った夜叉が見えたような気がしたのだけど、気の所為だろうか。

「雪、此処で待って居れ。私はちと用ができたでな」

…怒ってた…?
既に遠ざかりつつある背中を見送りながら、再び首を傾げる。紅葉さんは何処へ行ったのか聞こうと振り返った時には部下の人の姿もなく、私は大人しく部屋の中に入った。
…私が彼の昇進を聞いたのは、彼でなく紅葉さんの口からだった。幹部になったなんて、私は一言も彼から聞いてない。紅葉さんから聞いた彼の昇進の時期と、彼の帰りが遅くなった時期は合致する。
──「病は気からって云うしねえ。雪ちゃんは何でも溜め込む癖、直ってないみたいだね。…今回のはまあ、知恵熱みたいなものかな」──
熱を出した私を診察して、医師(せんせい)はそう言った。つまり。あの熱は彼の所為…な部分もある。たぶん。熱が出るまで、風邪の症状なんて一切無かったし。
…彼は如何してそこまでするのだろう。抑も、マフィアの構成員と一つ屋根の下に住んでいて、私自身もマフィアの首領の弟子なのに、今更マフィアと無関係な生活を送るなど不可能なのだ。“約束”をした時は何も考えずに頷いてしまったけれど、医師の命令が絶対なことに変わりはないし、今回のこともあるし、私はあまり“約束”を守る心算が無いのかもしれない。

「…?」
「雪っ!」

つかつかと忙しない足音が近づいてくるのが聞こえて、私が振り向くのと同時に扉が乱暴に開かれる。半年ぶりに見た彼は疲労困憊なのが全身から滲み出ていた。

「おかえりなさい」

何故か入り口で私を見るなり固まってしまった彼に、全体重を掛ける勢いで飛びつく。…ちっともよろめかないのが少し悔しい。

「…中也さん?」
「……あー…似合ってる。姐さんに着せてもらったのか」

反応がない彼を不思議に思って呼び掛けると、疲れ切った蒼白の顔に血の気がさす。赤くなるのではなく、あくまで血の気がさしただけだけれど。その要因となったのは、紅葉さんに着付けてもらった着物。彼にも何度か着せてもらったことはあるのだけど、流石紅葉さん、プロはセンスが別格らしい。

「あ、そうだ、あのね、報告があるの」

医師にも紅葉さんにも私の口から言うよう、云われていたのを思い出した。
身体を離しふふふと笑う。彼は此れを聞いたらどうなるだろう。目が飛び出るほど驚く? 疲れも忘れて医師の所へ直談判に行く? あ、でも、泡を吹いて倒れてしまったら流石に困る。

「…ああ。俺も聞きてぇことがある」
「?」

私は首を傾げた。彼は急に深刻そうな顔で、言いにくそうに言葉を選びながら切り出す。

「…4年前、太宰が消えた日…アイツに会ったってのは、本当か」

…4年前。彼の車が爆発し、彼が超高級ワインを開けたあの日。私は確かに、彼の人──太宰さんに会った。正確には、彼の人がマンションに不法侵入をしてきた。オートロックの筈の入り口を、自動ドアを通過するみたいに入ってきて、勝手なことだけ言って去って行った。

「…会ったよ。太宰さん、マンションに来たもん」
「はァ!? 何でそれを言わねぇんだよ!」
「だって、言ったら中也さん、機嫌悪くなるし。…で、どうしてそれを知ってるの」

そう問いつつも、私は何となく予想がついていた。
帰って来たと連絡を受けたのに姿の見当たらなかった彼。何かの報告を受けて何処かに行ってしまった紅葉さん。彼が問い質す、私と太宰さんしか知らないはずの4年前のこと。…そこから考えられるのは。

「…芥川が太宰を捕らえた。今、地下にいる」
「で、中也さんはそれを聞いて私そっちのけで太宰さんに会いに行って、太宰さんの口から煽り半分で4年も前のことを聞かされた、と。ふーん」
「っ、…悪かった」
「早く会いたいって思ってたのは私だけ? 半年も会えなくて、私、寂しかったのに。あ、でも、太宰さんと会うのは4年ぶりだもんね。そりゃあ私より優先されて然るべきよね。でも知らなかったな、中也さんが太宰さんと仲良しだったなんて」

そこまで一気に言うと、彼はぐっと押し黙った。気分は最早、夫の浮気を責め立てる妻の其れ。気まずそうに視線を下げる彼に、私は内心ほくそ笑む。散々怒って見せてはいるけれど、実は彼の狼狽える姿を楽しんでいたりする。
きっと、太宰さんに恨みを晴らすはずが逆におちょくられ、紅葉さんにこってり絞られ、今の彼のメンタルは粉砕される寸前のはず。そこへ私が止めを刺す。完璧。
ただでさえ半年間彼不在で私は寝不足なのだ。そんな私より先に太宰さんに会いに──仕返しに? ──行ったのだから、これくらいしても罰は当たらない。多分。
私は顔がにやけてしまわないよう、出来るだけ綺麗な笑みを浮かべた。突然笑顔になった私に、彼はギョッとして青ざめる。すっかり彼の血の気は失せていた。むしろ、部屋に入って来た時より顔色が悪い。
…今夜はゆっくり寝よう。きっと、医師に頼めば彼の明日の仕事は休みにしてくれる。
満面の笑みを浮かべて、私は口を開いた。

「私、中也さんの秘書になった」
「……………は?」

えらく長い間を置いて、漸く私の言葉を処理した彼は間の抜けた声を発する。私は笑みを深めてさらに追い打ちをかける。

「これからよろしくお願いします、中原幹部?」

ぺこりと頭を下げた私が笑みを崩さないのを見て、冗談ではないと悟った彼は静かにその場に崩れ落ちた。


     *     *     *

title by コペンハーゲンの庭で