…最近、彼の帰りが遅くなった。浮気、という訳では無いと思う。そんなに器用な人じゃない。毎日疲れた様子で帰って来るから、仕事が忙しいのだと思う。何か大きな任務でも任されたのだろうか。マフィアに属している以上、危険が付き物なのは分かっている。でも、彼が大きな怪我でもしてしまうんじゃないかという不安は拭いきれない。
いっそのこと医師(せんせい)に聞いてしまおう。
そう思い立って久し振りに小型の電子機器の通話釦を押したのが、10分前のこと。…結局、医師は曖昧な言葉で誤魔化すだけで、明確な答えをくれなかった。
問題は其れだけじゃない。
此れまではほぼ毎日一緒に摂っていた朝と夕の食事も、今では週の半分は一人。辛うじて寝る時間までには帰って来るけれど、朝起きたら既にいない日も増えた。最早、退屈云々を通り越して純粋に寂しい。以前までは毎日していた行ってらっしゃいも、最近は週に一度するか否か。引き止めてしまいそうになるからいけない。私が言えば、彼はきっと出掛ける時間を遅らせようとするだろう。彼の仕事の邪魔をしたくはない。

「…雪? …飯、食ってねえのか」

いつの間にか帰って来ていたらしい。冷蔵庫の中を確認しながら彼が言う。
腹減ってねえのか?
彼が冷蔵庫から取り出した皿の上には、綺麗なオムライスが乗っていた。今日の夕食はオムライスだったらしい。
彼が外から冷気でも持ち込んだのか、ぞわりと寒気がした。

「…いらない」

テディベアを引き寄せ、プイと顔を逸らす。ふかふかの毛並みに口元を埋めて発した声はくぐもっていた。

「…雪…? 如何した」
「いらないもん」

こんなの、ただの八つ当たりだ。彼は何にも悪くない。私が勝手に拗ねているだけ。彼は仕事で忙しいだけなのに。こんなことで、彼を困らせたくはない。

「…悪い、ちと、触んぞ」

彼が隣に座る気配がして、その振動にぐらりと視界が揺れる。手袋を脱ぎ捨てた彼が、私の髪をかき分け額に手を当てた。
…どうして、謝るの。謝らなきゃ、触っちゃいけないの? 私は、好き、なのに。

「…熱あるな。身体、辛いだろ。気づいてやれなくて、悪かった」

顔を顰めて言う彼の言葉に首を振った。彼は何にも、悪くない。
「明日首領に診てもらうか」彼が立ち上がる。
医師…?病院に行くのではなく…?

「粥なら食えそうか? 何か食わねえと、薬飲めねぇだろ」
「…いい…オムライス…」

キッチンで彼が鍋を取り出すのを見て、それを止める。立ち上がろうとすると、彼に制された。持って行くから座ってろと言われ、ソファに座り直す。
熱があると言われると、途端に体が重くなるから不思議。

「…何処か痛むか?」
「ううん、」
「他に症状は」
「…何も、」

オムライスをサイドテーブルに置いた彼が、再び私の額に手を当てた。オムライスの隣には、水の入ったグラスと風邪薬が並んでいる。
…ただの風邪だといいな。
私の前髪を手で梳きながら彼は眉を下げて言った。
オムライスを受け取ってスプーンを口に運ぶ。…少し、匂いが分からない。普段と違う風味に、自分が風邪を引いたことを改めて自覚する。ケチャップの酸味と塩味が矢鱈と口内を刺激してくるオムライスは、何時もより美味しくない。匂いって、大事。
半分ほど食べたところで深く息を吐くと、彼が私からお皿を取り上げた。

「無理に全部食おうとすんな。薬さえ飲めりゃそれでいい」
「……今日、一緒に寝ない…」
「あ?」

オムライスの残ったお皿をキッチンへ持って行く彼の足がぴたりと止まる。
急にどうした。
訝しむ彼の声に、苛立ちが混じっているような気がした。彼の足音がキッチンへ遠ざかっていく。

「…一緒に、寝ない」

もう一度そう言って、テディベアを抱きしめた。彼の顔が見られない。きっと、我儘ばかり言ったから怒ってる。でも、伝染すくらいなら怒られた方がいい。
モフリとテディベアに顔を埋めると、彼がため息を吐いた。

「…余計なこと考える余裕があんなら、さっさと薬飲んで寝ろ」

頭上から降ってきた声は案外優しい。驚いて顔を上げると、彼は片手に氷枕と体温計、もう一方に加湿器を持っていた。…準備早い…。

「一人で寝るだァ? ただでさえ寂しがる奴が、こんな時に何言ってやがる。我儘ならベッドに入ってからにしろ」
「……なんで、」

何でそれを知ってるの。
私、「寂しいから一緒に寝て」なんて彼に言ったことないのに。

「なんでもクソもねぇよ。俺が遅くなった日は必ず俺の服握って寝てんだ。気づかねぇとでも思ってんのか」

驚きのあまりぽかんと口を開けたまま彼を見上げ固まっていると、彼は眉間に皺を寄せる。

「いい加減ベッドに行くぞ。熱が上がったらどうする。まだ駄々捏ねるってンなら、そろそろ怒るぞ」
「…あ、はい…」

素直にゆらゆら頷いて立ち上がる。一瞬ぐらりと目眩がして、私よりも彼が慌てた。
へいき。そう告げて寝室まで自分の足で歩く。ベッドに入ると彼が隣に腰掛けた。

「果物でも持ってくるか?」
「…蜜柑」
「そこは林檎じゃねえんだな」

苦笑いした彼は加湿器をセットして部屋を出ていく。氷枕には彼と一緒にご退場してもらった。実際に寝てみると寝心地が悪かったのだ。「熱が上がったら無理にでも使わせるからな」彼はため息を吐いてそう言った。
…そういえば、今どのくらい熱があるのだろう。興味本位でサイドテーブルの体温計を使った私は、表示された数字を見て後悔した。
〈38.6℃〉
…見るんじゃなかった。

「…雪? 何してる」
「…熱、測った」
「おう。何度だ?」

蜜柑片手に近づいてくる彼に無言で数字を見せる。
深刻そうに眉を寄せた彼は一言、「寝ろ」とだけ低い声を発した。


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title by ライリア