「偶には外で食うか」

彼のその言葉により今日は外食になった。見るからに高級そうなホテルの最上階。明らかに高いレストランの一番景色のいい席で。
紅いドレスは彼の趣味。着替えの全てを自分でするところまでが彼の自己満足。背中のファスナーも、輝きを放つ首飾りも、華やかに纏められた髪も。私は一切触っていない。全部全部、彼の趣味。

「…口に合わなかったのか」
「ううん。美味しい」

食べるペースの遅い私に、彼が気遣わしげな視線を送ってくる。首を振った私はにこりと微笑んで見せた。
…美味しい。其の言葉に嘘はないけれど、正確には少し違う。「中也さんの作ったものの方が好き」それが本音。
私はいつの間にか日常の行動だけでなく味覚まで彼に縛られていたらしい。
…そんなことを考えていた、刹那。
ぱんぱんぱん。

「っ雪!」

連続で響いた銃声と、血相を変えた彼が私の腕を引くのはほぼ同時だった。空いた片手を突き出した彼が、その指先で銃弾を止める。
突然のことに悲鳴を上げ逃げ出す客たち。尚も響く銃声に後ろを振り返ると、上下黒のスーツを着た男たちが除草剤のように鉛弾をバラ撒いていた。
…マフィア? 彼に銃を向けるということは、少なくとも味方でないことは確か。
無差別に撃っているよう思ったが、少しずつ標的が此方に絞られてきている気がする。銃弾が私に届くことはないが、私を庇うようにそれらを払い除ける彼が怪我をしないか不安になる。赤の他人がパタパタと倒れていくのを見ても何も感じないが、彼なら話は別だ。

「…安心しろ。お前に手出しはさせねえ」

私にふわりと外套を掛ける彼の声音には余裕すら感じる。
銃弾をすべて異能で落とし、近距離攻撃を仕掛けてくる奴を蹴り飛ばしながら、彼は誰かに電話を掛けた。…器用だな。私にはよく分からないけれど、彼の言葉から察するに相手は部下らしい。此処に呼んでいるのだろうか。片手が塞がっていても銃弾一つ通さない彼に感心する。感心する余裕があるのは、彼が強いことを知っているからだけれど。
だから、つまり。

「…雪、直に部下が此処に来る。俺は此奴等の取引場所を突き止めるから、お前は部下と来い」
「…何処か、行っちゃうの…?」

一人にされると分かると途端にパニックになる。現役の時だって私は非戦闘員だった。まして、仕事を辞めて久しい上に丸腰な今の私に、一人でこの場をやり過ごせる可能性はない。皆無だ。
焦る私の手を引いて、彼はレストランの隅にあったバーカウンターの奥へ進む。その間も私をエスコートする彼の動きには品さえ感じるが、今はそんなもの要らない。

「本当は一人にさせたくはねえが…ここで守ってるだけじゃキリが無ぇ。部下には雪に怪我させたら殺すと言ってある。先ず邪険にはされねえと思う」

私をバーカウンターの陰に隠れさせた彼は、苦々しい表情で言う。そんな顔をするのなら置いて行かないで欲しい。こっちは涙が出る寸前なのに。
「いい子にしてろ」なんて言葉と共に私に自分の帽子を被せた彼は、ひらりとカウンターを越えて行ってしまった。
室内の黒スーツは全て彼が片付けて行ったのか、彼の足音が遠ざかるのと共に人の気配もしなくなる。銃声や悲鳴が遠くから絶えず聞こえるから、多分敵は他の階にもいるのだろう。彼は大丈夫だろうか。
割れたボトルが散乱する床に蹲って考える。
彼の云っていた部下とはどんな人なのだろう。そういえば私はその人の特徴を一切知らない。外見はやはり黒っぽい服を着ているのだろうか。身長はどのくらい? 男性? 女性? 異能力者? …何にも聞いてない。
心細さと相俟って、少しずつ不安になってくる。
もし、彼の部下の人よりも先に敵に見つかってしまったら、殺されるだろうか。そうなったら、中也さんにはもう会えないな。
それよりも、中也さんが怪我をしていたらどうしよう。
もし、彼の人と同じ、異能を無効化できるような人がいたら?
中也さん、大丈夫かな。
彼が目の届かないところで戦っていると考えるのは、いつだって怖い。

「…ゴホッ」
「っ!」

咳と共にパキリと硝子を踏む黒い足が見え、弾かれたように顔を上げる。立っていたのは全身黒尽くめの男の人。口元に手を当てる彼は、中也さんより若く見える。童顔なのか、本当にまだ若いのか。もう片方の手にも銃は無いようだけれど、この人は敵なのだろうか。この業界の人は皆黒い服を着るものだから、区別ができない。

「…僕は芥川。その外套と帽子は中原さんのもの。貴女は中原さんの婚約者とお見受けしたが如何か」
「……あなたは、ポートマフィアの人…?」

口に手を当てたまま、その人はゴホゴホと咳をした後「如何にも」と頷く。芥川。何だか聞いたことがあるような無いような。とにかくこの人が敵でなくて良かった。そして他人に婚約者とか言われると照れ臭い。

「…あの、中也さんは大丈夫でしょうか」
「中原さんは五大幹部のお一人。この程度、梃子摺る方が難しいでしょう」

行きましょう。芥川さんがそう言って差し伸べた手を掴もうと、脚に力を入れる。しかし、私の意に反して脚はかくんと力を抜いてしまった。
やばい、転ける…。

「…大丈夫ですか」

さっと私の体を支える芥川さんの腕。そのお陰で私は硝子まみれの床に膝を付かずに済んだ。
ごめんなさい。私がそう言うのと同時に芥川さんは私の体を持ち上げる。

「貴女に怪我をさせれば、僕の首が飛びます」

…中也さん、本当に言ったんだ。しかも多分、首が飛ぶっていうのは物理的な方だ。
申し訳ないのと恥ずかしいのとで、私はもう一度ごめんなさいと呟く。芥川さんは私を抱えたままスタスタと迷いなく何処かへ向かっていた。途中、転がる黒スーツたちの体に一つ残らず黒い何かが突き刺さっていく。的確に心臓を狙っていくそれは多分、芥川さんの異能力なのだと思う。

「…あの、何処へ…?」
「先程、中原さんから部屋を突き止めたと連絡がありました。今頃、既に中原さんが制圧し終えているでしょう」

成程。既にお仕事は終わっているのか。
詳しいことは分からない。きっと彼に訊けば私に分かるように説明してくれるのだろうけれど、そんなことに興味はない。彼が無事でいてくれれば、それでいい。

「…此処です」

倒れている黒スーツが一つの部屋の前にだけ矢鱈と積み上がっている。扉が開け放たれた──破壊された? ──ホテルの一室の前で、芥川さんは立ち止った。ゆっくりと私を下ろし、立てるのを確認するように芥川さんがそっと手を離す。

「…ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げると、芥川さんは「仕事です」と言って再び咳をした。

「…雪?」
「! 中也さん、」

彼がタイミングよく部屋から出てくる。芥川さんに「ご苦労だったな」と声を掛ける彼に、思い切り飛びついた。


     *     *     *

title by コペンハーゲンの庭で