太宰が消えた。
帰って来た時から様子のおかしかった彼を問い質すと、そう返ってきた。彼にとって其処まで悲しむ事だとは思えなかったのだけれど、やはり相棒が突然いなくなってしまうのはショックなのだろうか。そう考えて何処か腹立たしげな様子の彼の話を聞いていくと、機嫌が悪い原因は太宰さんの失踪ではなく、愛車が突然爆発したせいだと判明した。
…どうりで服の裾が少し焦げていたのか。

「中也さん、怪我は」

その爆発は何となく、彼の人の仕業だと思ったけれど云わないでおこう。
とりあえず、包丁を握る彼の手に怪我は見当たらない。

「俺があれ位で怪我なんざするかよ」

ケッと吐き捨てた彼の言葉に気遣いや嘘は感じられないけれど、一応後で確認しよう。
手際よく料理をする彼に無駄な動きはない。野菜を押さえる指先が綺麗に揃っていて美しい。…彼は何時でも優雅だと思う。ただ、私に触れようとする素面の時の彼は酷くぎこちない。帰って来た時のキスは、最近漸く慣れてきたところだ。

「…中也さん、キスして」
「…は!?」

からん、と彼の持っていた菜箸が落ちた。野菜の欠片が幾つかその後を追って落ちる。ガタンという音はしたものの、フライパンは無事だった。
…動揺しすぎ。
心の中で口を尖らせる。
狼狽えてばかりの彼の唇に、強引に自分のを押し当てる。掴んだ肩を通して彼の体がぴしりと固まるのを感じた。

「…な、何かあったのか」

唇を話した彼の第一声がそれ。
どうやら彼は、日中に何かがありその所為で私がこんな事をしたと思ったらしい。…まあ、間違いではないのだけれど。半分は彼が悪いのだ。
――べつに。
彼の問いにそれだけ返し、くるりと踵を返してリビングに向かう。
…彼の人は見抜いていた。私たちの関係も、私の不満も。唯一彼の人が理解していなかったのは、私が彼の人に抱いている感情だけ。
私の不満を見抜いていた彼の人の誘惑は酷く甘いものだったけれど、私はその手を取ろうとは思わなかった。

「なァ、雪、」

少し膨れてソファに座る私の後を、焦ったような声音の彼が追ってくる。テディベアを抱いて顔を埋めた私を、眉尻を下げた彼が覗き込んだ。

「如何したんだよ」
「……脱いで、」
「はァ?」

下がっていた彼の眉が上がる。
本当に訳が分からないという顔で、彼は屈んだ姿勢のまま私を見つめた。ソファの上から私は、ただじっと彼を見つめ返す。私の視線に耐えるように眉間に皺を寄せていた彼は、一つ息を吐いてから自分の服に手を掛けた。
ジャケット、ベスト、シャツ、と彼の着ていたものが順番に床へ落されていく。

「…これで満足か」

彼が上半身を全て晒し、困惑顔のまま私を見る。私はソファを叩いて彼に座るよう促した。腰掛ける彼と入れ替わるように立ち上がりテディベアを床に落とした私は、彼の手を取りピンと伸ばさせる。肩から指先にかけてゆっくりと彼の腕を撫でるように傷を確かめる。二の腕に在った痣が一つ消えたが、これは今日できたものではなさそうだった。
もう片方も、と走らせた視線の途中、先程より皺の寄った彼の眉間を見咎める。

「…寒い?」
「…否、」

彼の目が此れは何なんだと訴えていた。
…此れが何かと問われれば、大事な恋人の怪我の有無の確認という大義名分を立てることはできる。ただ、私の本心は其処じゃない。勿論、傷の確認はしようと思っていたけれど、それは酔っている時の彼の方が色々とやりやすい。それを敢えて素面の彼にしているのは、ある種の八つ当たりに近い。八つ当たりに近い、私の意思表示。何か一言云うのであれば、「このヘタレ」だ。でも言ってあげない。私の不機嫌の理由も教えてあげない。
無言の訴えを無視した私は、彼の腕に指を滑らせながら彼の人の言葉を思い出す。
──「中也は退屈だろう? 私とおいで、雪ちゃん。私なら、君の欲しいものを全て与えてあげられる」──
…確かに彼の態度には些か不満があるけれど、私は彼の葛藤を知っているし、大事にしようとしてくれているのは素直に嬉しいと思う。それなのに、彼の人の言葉に只首を振ることしか出来なかった。彼への批判に対する否定も、この生活についての釈明も、何も。
だから此れは、自分への苛立ちの八つ当たりが七割と、彼への意思表示が三割。別に体を重ねたいわけじゃない。彼がそうしたいのなら構わないけれど、私は彼の慎重すぎる態度に、少々呆れているだけなのだ。
じっと耐えるように眉間に皺を刻み何処か一点を見つめる彼に、私の気持ちが微塵も伝わっていないのは明白で。悔しいからもう少し苛めることにする。

「立って、」
「…なァ、雪」

もういいだろ。
彼が言外に目で訴えるのも無視。
立ち上がった彼の背中。痣や古傷の跡が残る其処へ、腕と同様にゆっくり上から下へ指を滑らせる。途中、赤黒くなった治りかけの痣が全て綺麗に消えた。彼は背中にもお腹にも綺麗な筋肉の鎧を纏っていた。大して長身でもない癖に彼がとても重い理由がよく分かるな、と思う。私は彼の裸をこうしてじっくり見るのは初めてなのだ。

「…何処か痛いところは?」

背中から手を離して言う。
彼の正面に回った私は、自分よりほんの少し上の位置にある蒼い目を見上げた。

「雪、俺は大丈夫だから、」

緩く首を振った彼は深呼吸でもするみたいにゆっくり息を吐く。酷く苦しそうに、もう限界だとでも云うように、顔を歪めて。

「うん。もう少し」

彼の目から視線を外し、私は彼の胸に手を添える。
彼の懇願なんて気づかないふり。掌越しに伝わってくる彼の鼓動が早まって、わざとらしく口を歪ませた。焦らすように彼の胸から腹部へゆっくり撫でると、痣は消える。傷跡は消えない。それが私の異能力だから。

「…うん。お腹空いた。今日はワイン飲むの? 持ってくる」
「……もう直ぐ出来る。ペトリュスっての、分かるか。太宰が消えた祝いだ。お前も飲め」

誰の所為で遅くなったと思ってんだ。
彼の呑み込んだ言葉が聞こえたような気がした。
ペトリュス。ワイシャツを拾って袖を通す彼の言葉を確かめるように呟いて頷く。多分、すごく高いワインだ。酔った彼に先刻の続きをさせる気でいる私は、足取り軽くワインを探しに行く。だって、脚は未だだもの。
“PETRUS”そう書かれたラベルのワインを見つけた私は、ふと彼の人の目を思い出してしまった。彼の人の、暗く光のない目。笑っているようで、何を考えているのか分からない目。
…私が彼の人に抱いている感情は今も昔も変わらない。
それは、恐怖。


     *     *     *

title by コペンハーゲンの庭で