地下の避難室で眠る医師(せんせい)の見張り。探偵社との衝突を避ける旨の指示の伝達。それらが紅葉さんへの頼み事だった。医師が無理に抜け出そうとするようなら、多少切り刻んでも構わないと言ってある。それでも駄目なようなら、この件が片付いてからひと月の間エリスちゃんは、私と一緒に中也さんの部屋で遊ぶと脅してほしいとも伝えた。
私に行っておいでと告げた手前、医師が無理をするとは思わないけれど、念の為、だ。
──長というのは、組織の頂点であると同時に組織全体の奴隷だ。──
医師がたまにいう言葉だ。
医師が奴隷となるなら、私は医師を助けたかった。医師が擦り切れてしまわないように。
古びて廃墟となり果てた洋館の前まで辿り着き、深く息を吐く。今日はずっと走り回っていたような気がする。自分の体力のなさにうんざりした。
人気のない館内に足を踏み入れ、目的の人物を探す。どの部屋にいるかなんて知らない。医師に聞いたのは、この建物の場所だけだった。足早に部屋を覗いて回っていると、着物姿の男の人が腰掛けているのが見えた。

「……あなたが、探偵社の社長さんですか」

私の言葉で即座にマフィアの人間であると悟ったのか、顔色の悪いまま鋭い眼差しを向けてくる。その雰囲気や放つ殺気の所為で、男の人は幽鬼のようにみえた。…まだ生きてるはずなんだけどな…。

「…森医師は如何した」
「医師は来ません。そして私は、医師の代わりに決着をつけに来たわけではありません。刀を引いていただけませんか」

私が来る前からずっと構えていたのだろう。男の人は何時でも抜刀できる姿勢を保っている。恐らく、この人も暗殺者の類なのだろう。私が到底かなわない相手なのは瞬時に分かった。

「…ならば何をしに来た」

低い声でその人は問う。
私は端的に「期限の延長を」と答えた。
相手の白い眉が、訝しげにひそめられる。

「…私は麻乃雪といいます」
「…福沢だ」

殺気と警戒はそのままに、刀の持ち方をわずかに変えた福沢さんが名乗った。じっと注がれている視線が、私が衣嚢に手を入れたことでより険しいものになる。

「ただの砂時計です。確認されますか?」

私が取り出した二つの小さな砂時計を見て、福沢さんは首を振った。
私は福沢さんの目の前に砂時計を二つとも置く。

「私の異能は、時間の進む速度を変えるものです」

ふわり、と片方の砂時計を掌で包み、放す。
さらさらと落ちていた砂が、落ちる速度を上げた。
もう一方の砂時計も同じように掌で包み、放す。
今度は重力を失ったかのように、砂がゆっくりと速度を落とした。

「普段は傷の回復など、部分的にしか使用しませんが、頭に触れればその効果は全身に及びます」
「……貴君が私の時間を早める可能性もある」

砂の落ちきった方の砂時計に視線を投げて、福沢さんが言う。…探偵社には一瞬で物事を見抜く人がいると聞いたことがあるけれど、少なくともこの人はそこまで鋭い人ではないらしい。
それとも、熱で頭が働いていないのだろうか。

「…医師には既に異能を掛けてあります。現段階で、48時間が経過して死ぬのはあなただけ」
「…態々私を殺しに来る必要はないという訳か」

何かを考えるように目を閉じた福沢さんが、「…頼む」と一言発した。
私が指先に意識を集中させ、福沢さんの額に触れた、その時だった。

「…おや、一足遅かったようですね」

かつり、と足音を響かせながら部屋に入ってきた人影。
青白い肌と不健康そうな顔色の、線の細い男の人。仄暗く澱んだ瞳に、この人はこの人で亡霊のようだと思った。

「貴方の異能はリストに載っていなかったもので。急いで来てみたのですが、手遅れでした」

急いできた、というわりには焦った様子がない。
この部屋へもゆったりとした足取りで向かって来たと思われる。

「…あなたがドストエフスキーさんですか。この潰し合いの首謀者。そんな人が、私に何の用です」

福沢さんには、亡霊男の言うように既に異能を発動させていた。それを止めに来た、と建前で言う以上、私がここに来ることは分かっていたのだろう。医師がここへは来ないことも。だとすれば亡霊男の目的は福沢さんではない。自分の手で一方の長を殺しては、潰し合いをさせた意味がないのだから。それに、仮に殺すつもりなら、正面から堂々と現れたりはしない。
つまり、目的は私の誘拐もしくは殺害。

「…デートのお誘いに」
「はい?」

すっと胸に片手を当て姿勢を低くした亡霊男が、私に向かってもう一方の手を差し出す。
流石に予想外過ぎて聞き返してしまった。
中也さんがこの仕草をしていたら、きっとすごく格好良かったのに。残念ながら、見るからに不健康そうな亡霊男では手を取る気にはなれない。

「ぜひ私と一緒にお茶を」

律儀に言い直した亡霊男に、少し逡巡する。

「……今ここでは福沢さんに一切の手出しをしないと云うなら、一緒に行きます」
「ならん!」

福沢さんが声を張る。
けれどこの場にいる誰にも、その制止を聞く義理は無かった。
亡霊男がにっこりする。

「いいでしょう」

背後で福沢さんが、今までとは比べ物にならない殺気を放った。かちゃ、と幽かに刀を構える音がする。

「福沢さん。大人しくしていてください。私の異能が発動してから身体に馴染むまで数十分の間は眩暈やふらつきなどの症状がある筈です。…私のことはお気になさらずに。目的は達成されました。これも覚悟の上です」

…そう。最初から覚悟していたこと。
この亡霊男が相当頭の切れる人物であることは分かっていた。そしてこの男が私の存在に気づかない確率がかなり低いことも。気づかれれば、最悪殺される。
医師はそれらの覚悟も含めて、私の考えを見抜いていた。見抜いたうえで、「行っておいで」と云った。
何も問題はない。ちゃんと成し遂げられてよかった。
ああ、だけど、中也さんに何も言えなかった。
行ってきますも。ごめんなさいも。

「では、行きましょう」

差し出された手を無視して歩き出すと、亡霊男が悲しそうな顔をした。
無視。

「待て!」

福沢さんの声が、洋館中に響いた。





…ほぼ一日、亡霊男に連れまわされた。
福沢さんと別れた後、亡霊男は私をホテルの一室に案内し「疲れたでしょう。今夜はゆっくり休んでください」などと云ってどこかへ行ってしまった。そして今朝、部屋まで迎えに来た亡霊男は私を散々連れまわし、今ようやく見晴らしのいい喫茶処のテラス席でお茶を飲んでいる。
…何と日向の似合わない男だろう。
正面で紅茶を口にする亡霊男を見て思った。私も決して人のことを言える立場の人間ではないけれど、そういう意味ではなく、不健康そうな顔色の亡霊男と日当たりのいいテラス席というのが、あまりにも不釣り合いなのだ。

「如何しました」

亡霊男が言う。
私の視線が気になったらしい。
驚くほどこの場が似合っていないと、思っていたことを素直に伝えた。
少しだけ傷ついた顔をする亡霊男を、無感情に見つめる。
…この男は嫌いだ。
勿論、敵に好感など持てないが、それ以前の問題として、この亡霊男を見ていると彼の人を思い出すのだ。
底なし沼のように光を映さない目に、先を見通す思考。

「…行きましょうか」

席を立った亡霊男は、時折耳に手を当て何かを聞くような仕草をする。無線か何かで仲間と連絡を取っているのだと思う。

「やァ、善い喫茶処だね」

唐突に横からかけられた声に、亡霊男が目を見開く。私は自分の顔が引きつるのが分かった。
亡霊男の視線の先に、包帯男。…何故こうも妖怪みたいなやつしかいないのか。
中也さんに会いたい。

「雪ちゃん、おいで」

包帯男が言う。
店の奥から、全身黒の防護服のような姿の集団が押し寄せてきた。
ようやく私は、亡霊男の真意を理解する。
黒い集団は恐らく軍警と異能特務課。マフィアである私が捕まれば、処刑は免れない。処刑で済むならいいが、情報を探られるかもしれない。拷問なら耐えられるかもしれないが、政府がどんな異能者を隠し持っているか分からない。頭の中を覗くような異能があるかもしれない。
…医師に迷惑がかかるようなことだけは、何としても避けなければ。

「雪ちゃん、」

何か、自決できるものを。
ナイフも銃も、置いてきてしまった。
舌を噛んでもいいけれど、途中で押さえられては逆に怪しまれる。向こうはまだ私がマフィアだと気づいていない。今のうちに、口封じを。
中也さん。私の大事な人。守るためなら、何だってする。

「雪ちゃん!」

包帯を巻いた手に腕を掴まれ、意識をそちらに向ける。私と目が合うと、包帯男はにっこり笑った。

「落ち着いて。もう大丈夫だよ。…彼女は人質として連れまわされていただけだ。…だろう?」

私を自分の傍へと引き寄せた包帯男は黒い集団に言い放ち、亡霊男に視線を向ける。
両手を頭の後ろに回し膝を付いた姿勢のまま、亡霊男は「ええ」と淀みなく頷いた。

「彼女の保護及び早急な帰還を求める依頼を、探偵社が受けている。彼女の身柄はこちらで預かるよ」

有無を言わせぬ口調に、特務課の役人と思われる丸眼鏡の青年は口を開きかけ、噤んだ。

「…何の心算ですか」

ゆらりと睨みつける私に、包帯男は肩をすくめる。

「依頼があったのは本当だ。普段なら依頼をしてくることも、こちらが依頼を受けるのもあり得ない相手なのだけど、社長が恩は返すというものだから」
「……不愉快です」

探偵社に救われたことも。
この包帯男と顔を合わせることになったのも。
どこまで見抜いていたのかと、すでに連行されてしまった亡霊男に問いたかった。
軍警や特務課と鉢合わせしたように見せ、自分の道連れに私も捕えさせたかったのか。或いは、この包帯男が私を庇うという状況を作ることで、精神的苦痛を与えたかったのか。
…いずれにせよ、これは私への罰の心算だろう。二組織の長を潰し合わせるという計画を邪魔した私への、罰。

「帰ろうか、雪ちゃん」

洋館で亡霊男がやったのと同じように手を差し出してきた包帯男を無視して歩き出した。






「ごめんなさい」
「どうして謝るのかな?」
「…迷惑をかけたから」

医師の執務室に行くと、医師はいつも通りエリスちゃんを追いかけていた。
謝る私に、医師は首を傾げる。

「君は、私と福沢殿の両方の命を救い、二組織の衝突を止めた。今回の件の一番の功労者だ」
「でも、敵に捕まって医師に迷惑をかけた。…探偵社に依頼、だなんて」

私を連れ戻してほしい。
そんな依頼を探偵社にするのはマフィアだけ。

「依頼なんて大したことはしてないよ。私はただ福沢殿に、うちの子が攫われてしまったと言っただけだからね」
「…でも、そう言えば探偵社が動くと知っていたんでしょう」

私の言葉に、医師は何も言わずにっこりと笑った。
会話が途切れ、ほんの少しの間訪れた沈黙を、エリスちゃんが見逃さない。「もう話は終わり? 一緒に遊びましょう」と手を引かれる。少し考えてから、あれを着て見せて欲しいと医師の持っていたドレスを指すと、「雪が言うなら着るわ!」とエリスちゃんは頷いた。
医師の顔が気持ち悪いくらいに溶けた。



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title by ライリア