──霧。
自分の手元さえ見えないような、真っ白い闇のような霧に包まれている。匂いも音も感じない。ただ全身を包むひんやりとした霧の湿っぽさと、果てしなく続く白だけがあった。……誰もいない。ここには、延々と広がる白と、私だけ。他には何もない。誰もいない。何故かそれを、悲しいと思った。寂しい、ではなく悲しい、と。
…これは、夢だ。
起きなきゃ、と思った瞬間に意識が浮上する。まだ外は暗かった。覗いた窓から見える街は、霧に覆われている。

「……中也さん?」

隣に彼がいない。
一緒に寝ていたはずなのに。
どの部屋を見ても、彼の姿はなかった。玄関を確かめると、彼の靴がなくなっている。念の為短刀と銃を持って、急いで外に出た。マンションを出た瞬間、人気のない霧の向こうから幽かな殺気を感じた。

「! …中也さん?」

何かの動く気配がして、後ろを振り向く。
彼は何処に行ってしまったのだろう。
これが件の「異能者連続自殺事件」の霧だとすると、中也さんだけでなく医師や紅葉さん、異能を持つ人全員が危ない。
早く中也さんを見つけなきゃ。
何かの気配がした方へ足を踏み出した、刹那。
だんっと横にあった無人の車に勢いよく叩きつけられるものがあった。

「チッ…遣り辛ェな」

霧の向こうからコツコツと足音が響いてくる。
舌打ちをしたその声に、ハッとした。

「中也さん!」
「! 雪、起きたのか」

良かった、会えた。
前方から現れた彼に飛びつく。私を軽く受け止めた彼は、私の頭を片手で撫でた。ちゅ、と音を立てて額に落とされた唇にほっと胸を撫で下ろす。その時、背後から強い殺気を向けられて振り向いた。そういえば、車に何かが叩きつけられていた気がする。
……“それ”は、淡く発光する影のようだった。人の形をした影が、殺意をむき出しにして短刀を構える。

「…下がってろ、雪。異能は俺が戻してやる」

私を自分の後ろに庇った彼が、影と対峙した。
私と同じ姿かたちで、私が使うのと同じ短刀を構えた、薄い水色の影。
彼は今、異能と云った…?
あれは私の異能? 「異能者連続自殺事件」は、自分から分離した自分の異能に殺されることで起こっていたのだろうか。
…だとしたら。
彼はなぜ無事なのだろう。いくら体術に優れているとはいえ、あんな強力な異能相手に無傷で済むものなのだろうか。…けれど、彼はその打撃に重力を乗せて繰り出している。つまり、彼は異能を使えるということ。
…否、今は彼の無事を素直に喜ぶべきだ。

「…終いだ。さっさと雪の中に戻れ」

打撃を何度も食らい動けなくなった私の異能の、額の部分にある紅い宝石を中也さんが拳で砕く。
光る影が、弾けて消えた。

「雪。…んな不安そうな顔すんな。姐さん達なら大丈夫だろ」

私の心を読んだように、彼が微笑んで言う。
…紅葉さんが大丈夫でも、医師はちょっとピンチな気がする。口には出さないけれど。
「戻るぞ」と彼に手を引かれ、マンションに向かって歩き出した。



中也さんに、一本の電話がかかってきた。内容は聞かずとも想像がつく。部屋に戻ってからずっと無言で彼にしがみ付いていた私は、殺処分を待つ犬猫の気分に近かったのかもしれない。
軈て通話を切った彼は、私の頭を撫で額に口付けをしてから静かに離れた。仕事着に着替えた彼の、すぐ戻る、といつも通りの声音で発された言葉を、微塵も信用できなかった。…彼の目は、戦いの前にしては静かすぎた。
マンションを出て行く彼を見送ってから、私もマンションを出てマフィア本部へ向かう。本部までの道程も、本部のビル内も、人の気配はしなかった。建物内を探せばもしかすると誰かいたかもしれないが、そんなことに興味はない。
ひたりひたりと、真っ直ぐに昇降機を目指して歩き、迷わず最上階の釦を押した。硝子張りの昇降機が上昇し地面が遠くなっていくのをぼんやりと見つめる。
───すぐ戻る、と彼は言った。その言葉が嘘になると分かった上で。そして多分、私がそれを理解していることも知った上で。それでも彼は、いつもと同じ真っ直ぐな菫青石の瞳で私を見ていた。

「……もし戻らなかったら、その時は、」

私が言い終える前に、彼は私の口を掌で塞いだ。ふ、と口元を緩める彼が一言、「大丈夫」と言ってくれたら、どれだけよかっただろう。けれど、彼は私の欲しい言葉をくれなかった。ゆったりと、優しい色をした彼の目が瞬く。

「すぐ戻る」

彼はその一言を繰り返しただけだった。



最上階で止まった昇降機の扉が開き、廊下へ出る。足を踏み出した途端、幽かに地響きを感じた。ポートマフィアの本部ビル内、しかも首領執務室の部屋の前で震動を感じるということは、それなりの衝撃があったのだろう。目の前のドアを遠慮なく開け、医師の執務机を目指す。目的のスイッチを見つけ押すと、通電遮光されていた灰色の壁が一面の硝子窓へと変わった。
窓の外に見えたのは、霧に満たされた街並みと、その向こうに出現した赤く巨大な何か。部分的にしか見えないのと、距離と霧の所為ではっきりとは分からないが、あれは恐らく龍。とてつもなく巨大な、赤い龍の姿。彼は恐らく、あれの対処に向かったのだろう。
あれを止めなければ、やがて世界は終わる。けれどあれを止めたとして、彼がそのまま帰らぬ人となるのなら、それもまた私にとっては世界の終わりと同義。どのみち終わる世界なら、もう何もかも如何でもいい。
窓の前で手足を投げ出して座り込んだ私は、霧の揺れや震動が伝えてくる衝撃を、彼の鼓動のように感じていた。



……空が明るくなってきた。
龍が消えてからも街を覆っていた霧が晴れていく。部屋の外に、先程まで無かった人の気配がした。

「…雪ちゃん?」

帰還したこの部屋の主が、私の姿を見て声を発する。そんな処で如何したんだい、と。

「……待ってるの」

窓に目を向けたまま答えた。
彼がマンションを出て行ったあの瞬間からずっと、私は待っている。
彼が帰ってくるのを。私の世界の終わりを告げる、その報せを。彼に、お帰りなさいを言うために。

「中也君の部屋で待っていてあげなさい」

…何故彼の執務室で?
口には出さなかった私の疑問を知ってか知らずか、医師はにっこりと笑う。
行きましょ、とエリスちゃんが私の手を引いた。
もう二度と主の戻らない部屋で、何を待てばいいのだろう。彼の訃報を、彼本人の部屋へ伝えに来る者などいないだろうに。

「…?」

首を傾げる私のことなどお構いなしに、エリスちゃんは私を彼の部屋まで送り届けた。「ちゃんとチュウヤを待っててあげるのよ?」とそれだけ言い残し、美少女は部屋を出て行ってしまう。
言われなくとも、私はずっと待っている。だけど…ここにいて、誰が来るというのだろう。
ぼう、と宙を見つめる。
何も感じなかった。
世界が崩壊の危機を免れ、私の世界は終わった。それらの事柄に何らかの感慨を覚えるべきで、普通なら何らかの感情を持つはずで。
けれど、私は何も感じていなかった。
何も。
背後で、カチャリと扉の開く音がした。

「…雪? 一人で本部に来たのか?」

当たり前のように響いた声は、もう二度と聞くことは無いと思っていたものだった。

「……、」

振り向いてその姿を確認するも、言うつもりだった言葉は出てこない。目を幽かに見開いたまま何も言えずにいる私を見て、察した彼がニヤリと笑う。

「すぐ戻るッて言っただろ」

ゆっくりとした足取りで距離を詰めた彼が、私をふわりと包み込んだ。

「…大丈夫。もう、大丈夫だから。泣いちまえ。全部吐き出せ。ずっと此処にいてやるから」

彼の匂いがする。
彼の温もりを感じる。
彼の声が鼓膜を震わせる。
それらをはっきり感じているのに、頭は今の状況に追い付いていなかった。
彼は、生きて、私の目の前にいる。
冷たい身体じゃなく。
自らの足で立って。
その瞳に私を映す。
ゆっくりとそれらの事実を噛みしめていくうちに、じわりと視界が滲んできた。喉の奥が熱い。
…おかえりなさい。
漸く言葉を紡いだ私の背中を撫でながら、おう、と彼はいつも通りの返事をした。



     *     *     *

title by コペンハーゲンの庭で

生きて帰って来ることを信じてあげて欲しい。