「悪ぃ、雪。首領の命令だ」

鈍く光る銃を向けられても、雪は顔色一つ変えなかった。向けられた銃口をじっと見つめ、苦しそうに歪む中原の瞳を見つめ、静かに目を閉じた。

「──いいよ」

軈て開かれた目は、何処までも静かだった。絶望しているわけではない。助けて欲しいと縋るでもない。ただ純粋に、これから自分に訪れるであろう死を受け入れ、凪いでいた。

「…大丈夫。一瞬で終わらせてやる」

悲痛に歪む中原の表情に、雪は胸が痛む。自分の命を絶つのが中原の手によるものなのは嬉しいが、銃を握る彼の胸中を察すると苦しくて仕方ない。
雪は、中原が自分を愛してくれていることを知っていた。
せめてもの慰めとして、雪は薄く微笑んでから目を閉じた。大丈夫、私は幸せだった。そんな思いを込めて。
中原が嗚咽を抑える声がする。やはり傍まで行って抱き締めてあげればよかったと雪が後悔するのと同時に、乾いた破裂音が響いた。…続いて、何か硬いものに弾かれたような音がする。
…………硬いもの?
妙な音と、いつまで経っても襲ってこない衝撃を不思議に思った雪が目を開けると、見知った美少女が自分に背を向けて立っていた。

「雪! 怪我はない!?」

首だけで振り返り、エリスは言う。

「…エリスちゃん…? なんで…」

首領の命令だと、中原は言った。それなのに、その首領の異能であるエリスが自分を庇うのは可笑しい。
呆然とする雪を余所にエリスが睨みつける先で、中原が中原に殴りかかっていた。その光景が、混乱する雪の脳に追い打ちをかける。
二人の中原の殴り合いは、一方的とも云えるほど、雪に銃を向けていた中原が不利だった。与えられる打撃の殆どを避け切れておらず、何とか繰り出す攻撃はいとも簡単に躱されている。その圧倒的な動きの違いに漸く、雪はあることに気づいた。

「…贋者…?」

雪が小さく声を上げたのを知ってか知らずか、防戦一方だった方の中原が距離を取りニヤリと笑う。

「…バレてしまっては仕方ない」

その笑みも声も、先ほどまでとはまるで違っていた。ぐにゃりとその姿を歪ませ形を変えたそれは、中原とは似ても似つかない男だった。

「…首領。麻酔銃です」

落ちていた銃を調べ、中原が言う。その視線の先に立っていた中年の男が、雪とエリスの横まで来ると口許に手を当て考えるような素振りをした。

「ふむ。やはり思った通りのようだね。…中也君、うっかり殺さないようにね」
「…善処します」

含みのある笑みを浮かべた森に頭を下げた中原は、余裕を持った足取りでゆったりと男に近づいていく。しかしその目は黒く燃え上がる殺気に満ちていた。
さて、と森は未だ状況を把握しきれていない雪を振り返る。

「…最近、とある実業家の男が成金の家の娘と政略結婚してね」

森が語った内容はこうだ。
大金を手にし調子に乗った男は裏社会の領分にまで手を出し、金にものを言わせて異能力者を集め特殊部隊を組織させた。勿論、そんなことをすればポートマフィアが黙っていない。既にその特殊部隊の半数以上はマフィアに取り込まれるか、消されている。焦った男はポートマフィアの首領である森の命を直接狙うことにしたらしい。このひと月だけで数えるのも面倒なくらい暗殺者がやって来た。けれど全て失敗に終わっている。そんな頃、頭を悩ませる実業家の男はある噂を耳にした。ポートマフィアの首領には秘蔵っ子の弟子がいて、しかもその弟子はあのマフィア一の体術使いと言われる中原中也の恋人らしい、と。

「……ああ、勘違いしないで欲しいのだけどね、私が雪ちゃんを囮にするために態とそんな噂を流したわけではないよ。ただ、一瞬で分かると思うけれど、これは明らかに内部の人間が流したものだ。だとしたらそれは裏切り以外の何ものでもない。…あの異能力者の喉笛は今すぐにでも掻き切ってやりたいのだけどね、裏切り者を突き止めるために情報を吐いてもらわないといけない。…中也君には、本当に申し訳ないのだけど…」

申し訳ない、と言う森の顔に申し訳なさは微塵もなかった。ただ愉し気に、口元だけが歪んでいる。
森の弟子であり中原の恋人である自分の前に現れた贋者の中原。向けられた麻酔銃。とある実業家の男の野望と企み。内部の人間が流したと思われる噂。
それらを総合して漸く、雪は答えに辿り着く。

「…つまり…その実業家の人は、私を人質にしたかった、のね。でもただ普通に攫おうとしても上手くいかないことも多分、分かっていた。情報を流したのがポートマフィアの人なら、私が黒蜥蜴と訓練していることや、昔暗殺者だったことも一緒に流している可能性が高い。だから、私に抵抗されずに攫う方法を考えなきゃいけなかった」
「その通り。流石雪ちゃん。…そしてその計画を遂行するにあたって、実業家の数少ない手駒の中で一番適任だったのが、あの異能力者だったという訳だ。彼の異能は対象の姿と声、そして記憶をコピーするものだ。潜入や短時間の掏り替わりにとても向いている」

マフィアの首領らしい不敵な笑みを浮かべる森の興味は、現在中原の手によって半殺し状態になっている男に向けられていた。その眼差しを見て雪は、きっとあの男は殺されずにマフィアの傘下に入るのだろうなと思った。諜報活動に向いているその男を見る森の目が、新しい玩具を見る子供のそれとよく似ていたからだ。或いは、画期的な台所用具を発見した主婦の目。
…最悪、彼は命令を聞き組織に貢献するだけの肉人形になり果てる可能性もある。組織にとって都合のいい下僕を作り上げる方法も、人としての心を奪う方法も、雪はよく知っていた。

「中也君、そろそろ帰ろう。続きは紅葉君がしっかり引き継いでくれるよ」

哀れな男の末路を想像していた雪は、森が手を叩く音で意識を引き戻される。未だ消えない殺意を滲ませ乍らも、中原はぼろぼろになった男を部下に引き渡した。

「……お前はもう少し…俺を信用しろ」

雪の傍まで来て、中原は傷ついた顔で言う。これ以上ないくらい信用しているけれど、と首を傾げる雪に「そうじゃねェよ」とその赤い髪を揺らした。

「…俺がお前を殺すわけねェだろうが」
「確かにね。私が雪ちゃんを殺すような指示を、よりにもよって中也君に出すわけがない」

森もまた寂しそうに笑って雪を見た。
二人がそんなことをする筈がないと食って掛かればよかったのだろうか、と雪は思う。そしてその姿を想像し、それは出来ないと結論付けた。

「だって、医師は合理を優先するでしょう。それが最適解だと判断したら私を殺す指示を出す筈だし、そうすべきだもの。中也さんが医師からの指示を絶対としているのも知ってる。私はその邪魔をしたくない」

事も無げに雪が言うと、中原と森は何とも言えない顔をした。雪の考え方は組織の下僕としては模範的だが、一人の人間として見るには明らかに何かが欠けていた。

「……お前は……俺がお前より仕事を選ぶと思ってンのか。首領の指示なら、何の迷いもなくお前を殺すと」

低く唸るような声からは、ほんの少しの怒りと多分な悲しみが滲んでいた。中原の青い目が、ゆらゆらと揺蕩うように揺れている。

「…そう思っている、というよりは…そうあるべきだと、思ってる」

雪が言うと、中原の険しい顔は苦虫を噛み潰したようにくしゃりと歪んだ。見かねた森が、まあまあと割って入る。

「私には今のところ、雪ちゃんを殺すのが最適解、という状況が思いつかないし、もしそんな状況になったとしても他の道を考えるよ。それと、雪ちゃんはもう少し自分の気持ちを大事にしなさい。いいね?」

森の言葉に何度か目を瞬いた雪は暫し何かを考えこむような素振りを見せ、やがて真っ直ぐな目で中原を見つめた。

「…私の考えは変わらないけれど…でも、あれが本当の中也さんじゃなくて良かったとは、思ってる」

記憶をコピーできるのなら、銃を向けてきた中原の表情はきっと本人の感情に基づくものだったのだろう。悲痛に歪む中原の表情にこそ、雪は最も胸が痛んだ。あれが中原本人でなくて良かったと、雪の心にあるのはそれだけだった。

「…中也さんが悲しんでなくて、良かった」

すっと伸ばした手で雪が中原の頬を撫でると、やっと普段の柔らかい色をその瞳に宿した中原が眉を下げた。自分の頬を撫でる手を掴み、雪の身体を引き寄せ腕の中に閉じ込める。

「……すげー心配した」

深く深く、長い溜め息を吐いた中原に、雪は黙ったまま擦り寄った。

──後日、雪の予想通り、一切の感情を失ったような例の異能力者がマフィア内で目撃されるようになる。実業家の男は表社会からも裏社会からも姿を消した。数日前から、その実業家の男と情報を流した内通者の、死を乞うような声が地下の拷問部屋から聞こえると、専らの噂である。死ぬより辛い拷問を受けているのだろうか。指を一関節ずつ切り取っていく様子を思い浮かべる雪は、噂の真偽の程を知らない。


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title by 誰花