「雪ちゃん。彼は太宰君」
「太宰治です。よろしく」

医師に手を引かれ連れていかれた部屋に、その人はいた。にっこりと笑みを浮かべて私に挨拶したけれど、その人の目は全く笑っていなかった。
第一印象から私は、太宰治という人が怖かった。
医師の護衛として付いて回り、時々エリスちゃんの遊び相手をしていた頃は、太宰さんとの接触を出来るだけ避けるということも可能だった。医師がマフィアの首領になり、私が医務室に常駐するようになってからは、そうもいかなかった。

「やあ雪ちゃん。今日もお願いしていいかな」
「……、」

太宰さんは毎日のように現れた。実際、出張や任務などどうしても外せないことがない限り、毎日来ていたのだと思う。
太宰さんは、その身体を覆う包帯の全てを巻きなおしてほしいと言った。本人は緩んだからと云うけれど、巻き直すために解いたそれを私が緩いと思ったことは一度もない。包帯の下にある身体を見るのも恐ろしかったけれど、何より私は太宰さんの目が怖かった。今まで何人も人を殺してきたのに今更傷を恐がるなんて可笑しなことなのだ。多分、太宰さんの全てが怖かった所為だと思う。
今まで恐怖など知らなかったのに。
包帯を巻き直す、この時間が早く終わることをいつも願っている。本当は別の人に頼みたいけれど、この人は私じゃなきゃ嫌だと言う。しかも、太宰さんは私と同じくらいの年の筈なのに既に部下が何人もいて、誰もが恐れるような人だった為、医療班の人は誰も口出しできなかった。そして申し訳なさそうに私を差し出す。
まるで、生贄のように。

「私が幹部に昇進する話があるのだけどね」

ある日太宰さんは世間話でもするように、そんなことを云った。

「もし私が幹部になったら、雪ちゃんを私の秘書にしてくれるよう森さんに頼んでみようと思うんだ」

底なし沼のような目でにっこり笑う太宰さんに、慌てて首を振った。こんな怖い人と四六時中顔を合わせることになるなんて、絶対に嫌だ。
…その日から私は、眠れなくなった。

「雪ちゃん、何だか最近顔色が悪いようだけど、大丈夫かい?」
「…眠れなくて、」

あの目が、夢に出てくる。
怖くて飛び起きるようになった。夢を見るのも怖くなって、最近は眠るのも怖い。

「……怖い夢を、見るの」
「“怖い”? …雪ちゃんは“恐怖”を覚えたんだね。けど…眠れないのは困ったねえ」

うーん、と口元に手を当てて唸る医師を、エリスちゃんが「リンタロウの役立たず!」と罵る。とりあえず、と医師は睡眠薬をくれたけれど、様々な毒に耐性を付けるために訓練された私にそれが効かないのは明白だった。



「悪ぃ、頼めるか」
「はい」

…綺麗な人だった。赤毛に、青い目。闇社会に生きる人間に相応しい雰囲気と、血の匂いを纏っていた。

「任務でやっちまったんだが、妙に痺れる。毒を仕込まれたのかもしれねェ」

彼が袖を捲ると、深い切り傷から出た血が服を濡らしている。黒い上着では判らなかったが、その下の葡萄酒色の服を見る限り、出血はかなりの量だったらしい。

「…毒の確認をします。少し、我慢していてください」

そう言って傷口に顔を近づけた私に、彼は「お、おい」と制止を掛けた。その鋭い目つきに似合わず、視線は宙を彷徨っている。

「…何でしょう」
「何でしょう、じゃねェよ。な、何する気だ」
「ですから、毒の確認を」
「そういうのは、何か検査をするモンじゃねェのか」
「この方が早いので」

致死性のものなら首領に連絡しなければならない。私が毒の判断が出来る事を伝えると、彼は渋々了承の意を示した。逸らされた横顔は耳まで赤い。毒の所為で発熱しているのかとも思ったが、腕に仕込まれたのは弱い麻痺毒で、時間が経てば抜けるものだった。彼にそれを伝え、傷口を消毒して包帯を巻く。「器用なモンだな」と彼は感心したように言うけれど、太宰さんに嫌々巻かされている所為で上達したスキルかと思うと嬉しくも何ともない。包帯を巻き終わったところで手当てが終了したと思ったらしい彼を引き止め、まだだと告げる。怪訝な顔をする彼の腕を片手で支え、もう片手を包帯の上からそっと添えた。
…彼は、怪我をしていたら早急に治してあげて欲しいと医師が渡してきたリストの中に写真があった。名前までは憶えていないが、顔は憶えている。
異能を発動させ傷が塞がったことを確認するために包帯を解く。「何で解くんだ?」と不思議そうにしていた彼は、跡形もなく綺麗になった腕を見て目を丸くした。

「…治りました」
「…! お前、異能力者か」
「一応は」
「…俺は中原。重力遣いの中原中也だ。お前は?」

ふわり、と解けた包帯を浮かせて見せた彼がニッと笑う。そういえばそんな名前だったっけと思いながら、宙を漂う包帯を捕まえた。

「…麻乃、雪。…あなたは、医師のリストに載っていました。優先的に治療するようにと。幹部クラスの方が名を連ねていたリストです」
「医師?」
「首領のことです。…私と同じくらいの年齢とお見受けしますが、期待されているんですね」
「っ…ま、まあな。……俺のこと、名前で呼べよ。俺もそうする」

傷、治してくれてありがとな。
そそくさと部屋を出て行った彼は、やはり顔が赤かった。熱はないはずだけれど…この部屋が暑かったのだろうか。

「……中原、さん」

ニッと笑った顔が忘れられなくて、また会いたいと思った。けれど彼がここに来るのは怪我をした時で、彼が傷つくのは嫌だとも思った。

「…?」

矛盾する考えに首を傾げ、「分からなくなったらいつでもおいで」と云っていた医師を思い出す。医療班の人に断りを入れてから医師の執務室を目指した。



「…そっか。雪ちゃんは中也君のことが好きなんだね」
「…好き?」
「“怪我をしてほしくない”とか“また会いたい”とか、そういうのは好きな人に抱く感情だよ」
「…好きな人、」
「まあ、“好き”にも二種類あるんだけどね。雪ちゃんのそれは、どっちの“好き”かな」

ふふふと楽しそうに笑う医師を、エリスちゃんが気持ち悪いと罵る。彼女は今日は折り紙をしていた。この前紅葉という綺麗な和服の女性に教えてもらった折り鶴を、二人で量産していく。半刻ほどそうしていると、執務室の扉を誰かが叩いた。

「お客さんだ」

医師が言う。
人が来るなら早く言ってくれればいいのにと思いながら帰ろうとすると、「雪ちゃんのために呼んだんだよ」と引き止められる。エリスちゃんは誰が来たのか分かっているらしく、客人が入ってくる前に私を部屋の隅へと引っ張った。「しーっ」と口に指を当て、悪戯っぽく笑う姿が可愛らしい。客人を驚かせたいようだった。

「…遅くなりました。お呼びでしょうか、首領」

恭しく帽子を胸に当て頭を下げるその姿には、見覚えがあった。先ほどよりもさらに鋭い目つきをしている横顔が、ちっとも赤く染まっていないことに安心した。どうやら私は、彼の体調がよくないのではないかと心配していたらしい。やはり部屋が暑かったのだろうか。

「早かったね。今日の仕事は終わったのかい?」
「はい」

静かな声で返事をする中原さんは、酷く大人びて見えた。ニッと笑ったあの顔が、頭を過る。
うんうんと満足そうに頷いた医師は、「君にお願いがあるのだけどね」とにっこり笑った。エリスちゃんが「胡散臭い!」と云いそうな笑顔だった。しかし彼は医師にそんな暴言を吐くことも無く、少し緊張気味に背筋を伸ばす。

「…エリスちゃん、そろそろかくれんぼはお終いにしようね」

医師がそう言うと、エリスちゃんが勢いよく赤毛の彼の背に突進していく。あっと思わず声を上げたが、彼女を止める暇はなかった。うっと小さく彼が呻く。よろけたものの膝を付くほどバランスを崩しはしなかった中原さんが、こちらを振り返った。…その青い瞳が少し見開かれる。

「…雪、」

小さく呟かれた声が、やけにはっきりと聞こえた。「リンタロウのバカ、何で言っちゃうの!」と喚くエリスちゃんの声の方が、ずっとずっと大きかったのに。

「中也君にお願いというのはね、雪ちゃんのことなんだ。彼女は君を気に入ったみたいだから、一緒に気分転換をしてあげて欲しい」

今日はもうお休みにするように、紅葉君にも言っておいたしね。
笑みを浮かべたままの医師が何を考えているのか、中原さんはじっとその顔を見つめ読み取ろうとしているようだった。…これは、そんなに深いこと考えてない顔だと思うけど…とは言わないでおく。
結局その意図を読み取ることを諦めたのか、「頼めるかい?」と首を傾げた医師に「はい」と静かな声で返事をし、彼は私の手を引いて部屋を出た。
首領の命令だから素直に従ったのかもしれないと思うと、何だか申し訳ない。彼には彼の仕事があるのに、私が医師に彼のことを話したから、今日の予定が変更されてしまった。

「…さっきのは、本当なのか?」
「さっきの…?」
「……お前が…その、俺のことを、気に入ったって…」
「あ、はい。…医師に、あなたのことを…中原さんのことを話して…そうしたら、“そういうのは好きな人に抱く感情だよ”と、」
「……そうか」

私の手を引いたままずんずんと廊下を歩く中原さんは、また顔が真っ赤だった。医師の部屋とこの廊下の室温はそんなに変わらないはずだけれど、また暑いのだろうか。気温に敏感なのかなぁなどと考える。

「…そういや、仕事は忙しいのか?」
「……いえ、それほどでも…」

急に仕事の話になり、少し不思議に思う。
首を傾げると、私の疑問が伝わったのか彼は「首領が言ってただろ」と言った。

「気分転換っつーことは、仕事で参ってんのかと思ったンだ」
「ああ、それは多分…私が最近、ちゃんと眠れてないからで、」
「何だ? 不眠症か?」

中原さんが首を傾げた。医師から貰った薬が薬物耐性の所為で効かないのだと話すと、「そいつぁ厄介だな」と顔を顰める。
そういえばどこに向かっているのか、先ほどから迷いなく歩く彼に訊いてみると、ニッとあの笑みを浮かべて「俺の部屋」と答えた。

「気分転換って言っても何していいか分かんねェからとりあえず俺の部屋で相談しようかと思ってたんだが、そういうことなら昼寝でもするか」

一つの部屋の前で立ち止まった中原さんは、扉を開けて私を先に通してくれる。執務用と思われる机や高級そうな長椅子の前を素通りした彼が、「こっちだ」と部屋の奥にある黒い扉を示した。扉の奥にあったのはその他の家具と同じく高級そうな寝台で、彼は本当に昼寝をする気なのかと思う。

「雪、ほら、」

先に寝台に腰掛けた彼がぱふぱふと隣を叩くのでそのに腰を下ろすも、あまり寝たくはなかった。また、夢を見てしまう。あの、冷たい目が出てくる悪夢を。

「…雪?」
「……怖い夢を、見るんです。だから…寝るのが怖くて、」
「なら、魘されてたら俺が起こしてやる。それならいいだろ」

中原さんはタオルケットを持ち上げ、「早く横になれ」と促してくる。仕方なく彼に従い横になると、上からそっとタオルケットを掛けられた。

「何か要望は?」

欲しいモンがあったら持って来てやる。
そう言われたが特に何も思い浮かばない。首を横に振りかけて、少しだけわがままを言うことにした。

「────」

それを聞いた彼は少しだけ目を丸くしたけれど、「お安い御用」と微笑んで頷く。そして私の髪を梳くように撫で、「おやすみ雪、いい夢を」と額に口付けた。
その時は不思議と、あの悪夢を見ずよく眠ることができた。


     *     *     *

title by 虹色えそらごと。

雪ちゃん13歳、中也さん15歳くらいの話。