「雪、いい子にしてたか?」

帰って来るなり彼は脱いだ帽子を置きもせず、一直線にこちらへ歩いてくる。私の座るソファの背凭れに手を付き、返事も待たず私に触れるだけのキスをした。

「…おかえりなさい」
「おう。何か変わったことは?」
「何も」

外套をハンガーに掛け洗面所へ向かう彼の後ろを付いて歩く。特に用はないけれど。手を洗いキッチンに移動した彼の横で、夕食の準備を始める様をただ眺める。…別に私だって料理くらいできる。一人暮らしをしていた頃は自炊していたのだから。ただ、彼と暮らすようになってからは一度もキッチンに立っていない。彼が嫌がるからだ。包丁にも火にも、近づくとやんわり怒られる。否、怒られると云うよりは懇願に近い。「頼むからやめてくれ」と眉をハの字にして言われれば頷くしかなくなる。不満はない。彼の料理の方が美味しい。本当は彼もそれが本音なんじゃないかと考えたこともあるが、私は彼に手料理を食べさせたことがないので其れはないだろう。

「昼飯は食ったみてぇだな」
「美味しかったよ」
「ならいい」

片付けられた食器を見て彼が言う。
…そんな訳で私は一切料理をしない。昼食は毎朝彼が用意して行ってくれる。
ならば料理以外の家事は私が、と云いたいところだが残念ながら此れも殆ど全て彼がやってしまう。何時やっているのかは分からない。気づいた時には服は畳まれているし、部屋は何時も綺麗に保たれている。辛うじて私がやるのは食器を片付けることくらい。でも此れも包丁に触ると怒られる。
仕事は辞めた。辞めさせられた、に近い。此れも彼が“懇願”するので仕方なく上司に辞表を出した。事情を知る上司は「何時でも戻って来ていいからね」と言ってくれた。
…つまり、日中の私は果てしなく暇である。以前彼にそう告げると翌日には猫を連れて帰ってきた。猫は確かに可愛いが、彼らは基本夜行性の生き物である。昼間は寝てばかりな上に呼んでも無視することもざらにある。結局、彼の連れてきた猫は私の暇つぶし相手をしてくれないままだ。
因みに外出は彼の同伴が無ければできない。曰く、「危ないから」だそうだ。彼と一緒に歩いているところや、以前仕事をしていた時に顔を見られているかもしれない、とか何とか。心配し過ぎな気もするけれど、此れで若し何かあったら、唯でさえ太宰さんによる心労が絶えない彼は本気で卒倒してしまう。私も彼の寿命を縮めるような真似はしたくない。

「…雪、」
「はい」
「俺のこと、恨んでるか」
「…ううん」

スープを飲もうとした手を止めて彼を見る。
顔が赤い。既に酔っているらしい。夕食と共に飲み始めたワインはまだ二杯目なのに。明日は休みと先刻云っていたような気がするから、未だ放っておいても大丈夫だろうか。

「俺の我儘に付き合わせて、不自由な思いさせて…悪いとは思ってる。けど、何かあったらと考えると、怖くて仕方無ぇ」

ずらずらと懺悔と謝罪の言葉を並べていく彼に首を傾げた。今日は何かあったのだろうか。今までも何度か斯うして謝られることはあったけれど、ここまで沈んだテンションになるのは珍しい。謝るのは何時も酔った時だけだから、ある程度情緒不安定なのは毎回同じだけれど。お酒の力を借りなければ言えないことなのか、酔った所為で思考が爆発するのか、どっちなのだろう。
ワインと謝罪を交互に口にする彼は、少しずつ目が座り呂律が怪しくなっていく。…大丈夫かな。もうそろそろ止めた方がいいのかな。

「なァ雪、俺は…」
「中也さん、そろそろ寝よう」

懺悔から次第に愛の言葉を吐き始めた彼に、そのうち先刻食べた夕食まで吐いてしまうのではと不安を抱く。彼が突っ伏す前にと食器を片付けた私は、席を立って彼の腕を引いた。彼が眠ってしまう前に寝室まで誘導しなくてはならない。彼は身長の割に──と云うと拗ねてしまいそうだけれど──とても重い。彼の意志で動いてくれなくては、私一人では彼を運べないのだ。実際にソファで寝る羽目になったこともある。彼には「そうなったら放っとけ」と素面のときに改めて言われたが、それは私が困る。
一人で眠るのは寂しい。彼がどうしても帰って来られない夜、私が彼のシャツに顔を埋めて眠っているのを屹度彼は知らない。
一人で暮らしていた時はこんなことなかったのに。其れも此れも彼が私を甘やかす所為だ。

「…雪、」
「中也さん、重い」

半ば引き摺るように彼を寝室へ連れていく。
千鳥足の彼が、譫言のように私を呼んだ。目は一応、辛うじて開いている。意識はまだあるらしい。ゆらりと持ち上がった彼の手が、指の背だけで私の頬を撫でる。
…手を動かすくらいなら自分の足で体を支えてほしい。でも嬉しいから許す。
そうして自分からも其の手に擦り寄る。彼も満足そうに笑った。
何とかベッドまで辿り着き放り投げるように彼を寝かせる。雑な扱いに不満げな色を見せることもなく、自分の隣をパフパフと叩く彼はひどく機嫌がよさそうだ。先刻まであんなに落ち込んでいたのは何だったのだろう。

「雪。来い」

やれやれとため息を吐いた私に、痺れを切らしたのか彼が言う。私はのそのそとベッドに上がり、タオルケットを肩に掛けてから彼に擦り寄った。
酔った彼はよく撫でてくれるが、普段の彼は私に触ることすら躊躇う。昔の過ちを未だに引き摺っているのは明らかだった。私はもう気にしていないと何度も言っているのに。それに、あの時の彼は酔っていたのだから、気にするのならお酒の量にすべきだと思うのだけど。
まあいいや。
私を撫でる彼の手が心地いい。
タバコと香水の匂いに擦り寄ろうとして、目についたチョーカーに手を伸ばす。此れを付けて寝るのは苦しそう。されるがままの彼から外した首輪はサイドテーブルへ。
今度こそと彼の首に手を回して、嗅ぎ慣れた匂いに顔を埋めた。


     *     *     *


title by コペンハーゲンの庭で