「おはようございます、中原幹部」
「おう。おはようさん」
「早速ですが明日の任務の件でお話があります。襲撃ルートと待機部隊の配置の変更について、より効率的な案を提示しておきました。詳細はデスクに資料がありますのでご確認を」
「ん。わかった」

挨拶の時に一瞬ちらりと見遣った以外、一度も此方に視線を向けることなく歩き出す彼。本部のフロントで彼が出勤してくるのを待ち、彼の執務室への道のりを半歩後ろからついて歩く。秘書であり部下、という肩書を私はちゃんと熟せているだろうか。彼に未だ嘗て秘書というものがあったかどうかは知らないが、彼には私がただの部下だと思い込んでいて欲しいのだ。
半歩先を歩く彼の外套がその歩みに合わせてゆらゆらと揺れる。嗅ぎ慣れた香りが鼻をかすめるたび、苦しくなった。姿勢も仕草も声も表情も、私が大好きな中也さんと何一つ変わらないのに。資料を捲る指先も、組まれた脚も、引き締まった身体も、大好きな彼のままなのに。私が愛していた中也さんは、ここにはいない。
…今目の前にいる彼には、私に関する一切の記憶がない。


始まりは二週間前。
任務で負傷した中也さんは、部下の人たちに二人がかりで支えられながら帰って来た。血に染まったその姿を見て、目の前が真っ暗になったのをよく覚えている。とうとう恐れていた事態が起こったのだと思った。いつかの悪夢が現実になったのだと。
…けれど違った。
数日間の昏睡の後、彼は目を覚ました。そして、「善かった」と縋りつく私を見て声を発した。

「……手前、誰だ…?」

…医師曰く、血を流しすぎたことで一時的に脳への酸素が不足したことによる後遺症、らしい。何だってよかった。彼が元気になったのならそれで。他に望む事なんて何もなかった。

「…なァ、一つ聞いていいか」
「はい。何か不明な点でもありましたか?」

資料に目を通していた彼が顔を上げる。見慣れた深い青の瞳に胸が痛んだ。…私は今、ちゃんと微笑を浮かべられているだろうか。

「いや。作戦の件は問題ない。これでいく」
「では、何か別の件で? 資料が必要でしたらお持ちいたしますが」
「いや、手前についてだ」
「私、ですか」

どくりと心臓が嫌な音を立てた。
ああ、何か変だっただろうか。彼に不信感を抱かせてしまった? 問い詰められたら、何と云おう。
じっとこちらを見つめる青の視線に冷や汗をかく。

「…手前、俺の秘書になる前は何をしてた。別の奴の秘書だったのか?」
「いえ、救護班に在籍していました。中原幹部の秘書への移動は、せ…首領の命です」
「そうか。ちなみにだが…昔俺と組んでた最年少幹部のことは知ってるか」
「はい。ですが、彼の人の直属の部下であったことはありません。存じ上げているのは顔と名前程度で、言葉を交わしたのも数えるくらいです」
「…そうか」

き、と彼が姿勢を変え後ろに凭れたことで椅子が微かに軋んだ。彼は何かを考えるように宙を見つめている。私に不信感を抱いたわけではないらしい。良かったと安堵すると同時に私は、彼が何を疑問に思ったのかに気づいた。

「私の立てる作戦が太宰さんの其れと少し似ているのは、当然かと思われます。師が同じですから」
「…何?」
「私は幼少の頃、首領に拾われて教育を受けました。私は太宰さんとは違い右腕としてではなく娘のように育てていただきましたので、甘やかされてはいたと思いますが、立てる作戦が似通うのは無理もないかと」
「そうか」

納得したように頷き書類仕事に戻った彼。私は彼に珈琲を淹れ直し、部屋を後にした。


「医師、人を構成するものは何だと思う?」

執務室に行くと、エリスちゃんがおやつを食べていた。私を見て目を輝かせた彼女に手を引かれ、椅子に腰掛ける。取り分けられた苺タルトは、大好物のはずなのに食べる気になれなかった。

「炭素、水素、酸素、窒素、リン…と言うのを聞きたい訳じゃなさそうだね」

奥の机で書類に落とされていた視線が、ちらりとこちらに向けられた。少しだけ緩められた口元に、私の質問の意図するところをちゃんと理解していると知る。

「……中也君のことかい?」

少しだけ下げられた眉は悲しげに見えた。
秘書として、ただの部下として彼に接するという私の意志を、医師は尊重してくれた。

「…肉体、人格、魂…色々答えはありそうだけど…何を見て、聞いて、感じてきたか。記憶って、その人の為人を構成する大事な部分だと思うの」
「……そうだね」
「…今の中也さんには、私と過ごした全ての記憶がない。中原中也という人は今までと変わらずに存在し続けるけれど、私の好きだった――私を好きでいてくれた中也さんは、もう何処にもいないのかもしれない」

…憂いと愛情とを混ぜた瞳で、私を閉じ込めておきたがる彼は消えてしまった。いつか戻って来るのかもしれない。でも、もう二度と戻って来ないのかもしれない。
本当のことを言うべきだ、と樋口さんは目に涙を溜めながら言った。或いは、脳に衝撃を与えればそのショックで記憶が戻ることもあると聞くので、ちょっと殴ってくる、とも。彼女の首が物理的に飛ぶ可能性があるので全力で止めた。彼女は時々、恐ろしいくらいの行動力を発揮する。

「…人魚姫みたいね、雪。いっそ、王子様に短剣を刺してしまえばいいのに」

甘味を頬張り続けるエリスちゃんは天使の如きあどけない顔で首を傾げて言う。どうして我慢して押し殺すの、と。
…彼を困らせるくらいなら、苦しませてしまうくらいなら、私は何だって我慢する。人魚姫は自分の命よりも大切な人の幸福を選んだ。それは正しい。
真実は時に人を傷つける。本当のことを言ってしまったら、優しい彼は自分を責め悩むだろう。彼を傷つけるくらいなら、嘘で固めた世界に囲ってしまった方がいい。嘘と知らなければ、偽りの世界も真実と変わらない。
昔、何かの本で読んだ。"誰かを閉じ込めるなら、そこが世界のすべてだと思わせなくちゃいけない"私は、彼に本当の世界があるということに気づいてほしくないのだ。

「…そろそろ戻るね」
「雪、」

席を立った私を、エリスちゃんが呼び止めた。振り返ると、少しだけ不機嫌そうに沈んだ表情をしている。医師以外にそんな表情をする彼女は少し珍しい。一体どこまでが彼女の本当の感情なのだろうと、時々考える。
 
「…もし雪が泡になるようなことがあったら、その時は、私が雪の代わりにチュウヤに短剣を刺すわ」

止めたって無駄だからね。
にっこり笑う少女の瞳は、一切の光を映していなかった。


中也さんの執務室に戻ると、彼は一区切りついたのか伸びをしていた。

「戻りました」
「おう。遅かったな」
「申し訳ありません。首領の執務室におりました」
「首領の?」

ぴくり、と眉を動かした彼が真剣な顔つきになる。何かあったのかと問う彼に首を振り、エリス嬢の話し相手としてよく行くのだと誤魔化した。ならいい、とほっとした表情を見せる彼は、若し私が医師に叱られていたら庇うつもりだったのだろう。
上司として。

「…中原幹部」
「ん?」
「長時間の書類整理、お疲れ様です。可能なものは私が引き継ぎますので、どうか、少し休憩なさってください。どこか、お身体に不調などありませんか?」
「いや、ねえよ。つーか、手前の方が勤務時間長えだろ。今日はもう上がれ。顔色悪いぞ」

……顔色? 私の? ああそういえば、ここ最近ちゃんとした食事を摂っていないかもしれない。でも、お腹が空かないんだもの。苺タルトさえ食べたいと思わない程に。彼がいない夜はちゃんと眠ることも出来ない。よく考えれば、顔色が悪くなる心当たりしかなかった。
不健康になっていく私を心配する人はいる。医師や、紅葉さんや、樋口さん、黒蜥蜴の人たち。でも、誰も叱ったりしない。叱って、無理矢理にでも口にものを押し込んだり寝かしつけようとする人は、中也さんだけだった。
それももう、いないけれど。
身体に無理を強いているのを自覚した瞬間、世界がぐるりと回った。
暗転する視界の中で焦ったように伸ばされた彼の手を、私は掴もうとは思わなかった。
……さようなら、中也さん。


――雪。

…ああ、懐かしい。
私を名前で呼ぶ彼の声は、もう何年も聞いていないかのように懐かしく感じられた。柔らかく細められた目で、私にしか向けない表情で、黒い革手袋越しに彼が私の頬をするりと撫でる。
…夢なのは、分かっていた。
中也さんがこんなふうに私に触れることは、きっともうない。恐らく私は、自分にそう言い聞かせているのだと思う。いつか記憶が戻るかもしれない。いつかまた彼に愛してもらえるかもしれない。そんな“いつか”を待ち続けることに、耐えられないから。

――雪。

彼が愛おしそうに、だけど少しだけ困ったような顔で私を見ている。
苦しかった。
もう二度と、目の前にいる彼には会えないと思うと、苦しくて仕方なかった。彼が昏睡状態から目を覚ましたあの時、もう何も望まないと思った筈なのに。彼が生きていることが、私にとっての幸福だと。それなのに今更、何を願うというのだろう。

――雪、大丈夫だから。

ひどく落ち着いた声で言う彼は、自分の帽子を私の頭に乗せ、その黒い布越しに私の額へと口づける。帽子によって覆われた視界は暗く、彼の匂いだけが私の感じるすべてだった。
静かな声で告げられた「大丈夫」という言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。


「…夢」

醒めなくてもよかったのに。
口をついて出た言葉に、自分が現実に絶望していたのだと今更気づいた。
何も「大丈夫」なんかじゃないよ、と夢の中の彼に心の中で呟く。あのまま夢の中にいれば、もう苦しい思いをしなくてすんだのに。
胸元をぎゅっと握り溜め息を吐く。その姿を、丁度部屋に入ってきた人物に見られてしまった。

「っ、大丈夫か!?」

入ってきたのが中也さんだと気づき、少し表情が強張る。慌てて駆け寄ってきた彼に「大丈夫です」と返し、ここ数日ですっかり慣れた作り笑顔を浮かべると、彼が眉間に皺を寄せた。

「…悪い、」

これ以上ないほどに悲痛な表情をする彼に首を傾げる。無理をさせてしまったとでも、思っているのだろうか。

「中原幹部の気にすることではありません。私が体調管理を怠った結果ですので。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

ベッドの上で頭を下げると、彼はさらに顔を歪ませた。黒い革手袋を嵌めた手が、私の頬に伸びる。

「…あの、幹部…?」
「もういい」

ぐ、と何かを堪えるように唇を噛むその表情に、私は違う、と直感した。
…違う? 何が?
自分の中の違和感に問いかける。悲しそうに、苦しそうに、私を見つめる菫青石の瞳には見覚えがあった。
…ああ、そうか。彼は“中原幹部”じゃない。――“中也さん”だ。

「窶れたな。…悪かった。もう、大丈夫だから」
「……中也、さん」

記憶が戻ったのを悟った私に、彼は微笑んで見せた。
雪、と紡がれた名前が、音が、こんなに心地いいとは知らなかった。


私が倒れたと中也さんから医師に連絡が入った後、エリスちゃんは宣言通り彼に真実という短剣を突き刺したらしい。拳というおまけ付きで。武器を出さなかったのは彼女なりの慈悲らしいが、それでも中也さんは医師の広い執務室の端まで吹き飛んだという。結果的にその衝撃のおかげで記憶が戻ったため、彼はエリスちゃんに感謝しているそうだけど。
私は暫くの間彼のマンションから出してもらえなかった。三食きっちりと食べることを義務付けられ、私が眠るのを確認するまで彼は寝なかった。
記憶を失っていた間のことを、彼は覚えているらしい。自分を振り返って曰く「こんなに自分を殴ってやりてぇと思ったのは初めてだ」そうだ。

「…雪、」
「なに?」
「来い」

長椅子に座る彼に呼ばれ、傍まで行くと腰元を引き寄せられた。彼の上に座る体勢で抱き締められ、彼が私の耳元に口を寄せる。
雪、と何度も紡がれる音に、目を閉じて耳を傾けた。


     *     *     *

「誰かを閉じ込めるなら、そこが世界のすべてだと思わせなくちゃいけない」江國香織『ウエハースの椅子』

title by 誰花