「中也君から彼の異能について何も聞かされていなかったのかい?」

隣に立っている医師(せんせい)が言う。私はただ黙って首を振った。
本部ビル内の一室で、彼はベッドに寝かされている。その顔色は血を吐いていたとは思えない程で、呼吸も安定している。…というか、若干鼾すらかいている。

「…重力を操る異能だって…偶に壁や天井を一緒に歩いて遊んでくれた。でも…こんな事になるなんて、一度も…」
「普段使っている重力操作だけなら問題はないんだ。今回中也君が使ったのは『汚濁』と云ってね。使い過ぎればこうして躰に負荷がかかる。しかも、自分では制御が出来ない。異能無効化の異能を持つ太宰君が居なければ、死ぬまで暴れ続けることになる」
「…死ぬ、まで…?」

医師の言葉を聞いて、引っ込んでいた涙が再びじわりと滲む。心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
数刻前の彼を思い出す。――肌に浮き出た痣。私を映さない瞳。狂気に歪む口元。…太宰さんの手が、私に伸ばされた腕を掴む。
…そっか。あの時太宰さんは異能無効化を発動させた。だから、彼の痣が消えて瞳に私が映った。

「大丈夫。太宰君が居ない状況で中也君は『汚濁』を使ったりしないよ」

恐らく血の気が失せているであろう私の顔を見て、医師は眉を下げて笑う。
先刻からずっと握っている彼の手。革手袋を外している分、温度が直に伝わってくる。…彼の手は何時も温かい。季節が冬に近づけば自然と冷たくなる私の手を握って、彼はよく笑う。「…冷てぇな」そう言って私の冷えた指先を口元に寄せる。自らの吐息と指先の熱とで温めるように。――私はその時間が好きなのだ。じっと見つめては細められる菫青石の瞳も、時折私の指先を啄む形の良い唇も、彼の手に包まれた私の冷たい其れも。

「…雪ちゃん、ずっと此処にいるならせめて座って」

医師がそう言って部屋の隅に置いてあった椅子を一つ持ってきた。
本当は少しくらい寝て欲しいのだけど…。エリスちゃんの食べ過ぎを咎めるみたいに困った顔をする医師に、申し訳なく思いながらも小さく首を振る。それでも勧められた椅子に腰掛けると、少しだけ安心したように医師が頷いた。

「では、私は戻るよ。明日はお休みにしておくから、中也君にもゆっくり休むように言っておいてね」
「うん、」

頷いて、医師が部屋を出ていくのを見届ける。閉まる扉。視線を戻した先で、彼は相変わらず寝息を立てていた。
──結局私は、シュレディンガー博士と同じ。箱の中の猫に干渉することも、結果を見通すことも出来ない。可能性を一つ一つ挙げては憂いて、提示された結果を、ただ受け止めるだけ。…なんて無力で退屈なんだろう。……私は。ラプラスの悪魔になりたかった。彼の未来を見通す、彼だけの悪魔に。そうして、彼が傷つかない未来だけを選ぶのだ。
…彼の人なら或いは…そんなことが出来るのかもしれない。でも。彼の人は絶対にしない。異能無効化さえ、彼が倒れるまで発動させなかった。
その頭脳が、能力がありながら。

「──雪?…泣いてたのか」
「! …中也さん、」

私の頬に伸ばされた手に、滴が伝う。彼が私の目元を撫でると、私が瞬いた拍子に幾つも滴がシーツに落ちた。パタパタと音を立てて、白のシーツに斑の染みができる。

「心配すんなって言っただろ」
「だって……血吐いて…」
「ああもう、分かったから。それ以上泣くな。目ェ腫れんぞ」

体を起こす彼を止めようとすると、くしゃりと頭を撫でられた。菫青石の瞳に、私が映っている。──もう、怖くない。

「雪、来い。寝てねぇんだろ」

彼の両腕が此方へ伸ばされる。
──抱っこ?
そう思い彼の首元へ腕を伸ばしかけたが、彼の指先は私の耳元に向かう。

「っや、」
「…雪? んなモン付けてたら邪魔だろ」

耳飾りに触れた指先に驚いて思わず逃げるように身を引くと、彼が怪訝な顔をした。

「…それとも、俺が怖いのか、雪」
「…え、?」
「『汚濁』状態の俺に、何かされたか」
「…何も……違うの、怖いわけじゃ、」

…あの時彼の掌から生まれた黒い球体は、若しかすると地面を凹ませたものなのかもしれない。そうだとしたら、私など一瞬で消し飛んでいた。
でも。
それはそれでいいと思っている。彼はとても悲しむだろうけれど。

「何でもないの。吃驚しただけ」

血を吐いて倒れた彼を見たときの絶望に比べれば、そんなものは恐怖でも何でもないのだ。たとえ、彼の歪んだ口元が頭から離れなかったとしても。

「…寝ろ。体調崩すぞ」

大人しく耳飾りを外されて、彼の隣に潜り込む。彼は私の耳飾りを、ベッド脇に置かれた彼のジャケットの上に置いた。
ベッドは二人で寝てもまだ余裕がある。何サイズなんだろう…。

「落ち着かねぇか?」
「…平気。中也さんが居れば、眠れるから」

ぐりぐりと額を擦り付け、彼に抱き着く。
もう、大丈夫。
彼が私の肩まで布団を引き上げた。暑い。剥ごうとすると「大人しく被ってろ。風邪引いたら如何すんだ」と彼に固定され、仕方無く諦める。
腕枕してやると差し出された腕を両手で掴み、腕枕を拒否する代わりに抱き枕として抱え込んだ。

「おやすみ、雪」

何時もされるように彼に頭を撫でられて、意識は直ぐに無くなった。


     *     *     *

title by 誰花