「…医師(せんせい)?」
「やあ雪ちゃん」

ひょこりと執務室に顔を覗かせると、医師はへらりと笑って手を振った。

「中也君を探しているんだろう?」
「!」

何も言わずとも私の用件を言い当てた医師に、驚きつつもこくりと頷く。
彼は夕刻、医師に呼ばれて行ったきり、姿が見えないのだ。
手招きされ部屋に足を踏み入れると、医師は何処からか部下も一人呼び寄せ、何やら耳打ちすると部下の人は頭を下げて部屋を出て行った。

「…中也君には任務を頼んだんだ。そろそろ終わる頃だろうから、彼の部下に迎えを命じたよ。一緒に行くかい?」
「行く!」
「恐らく太宰君もいるよ?」
「……行く」

一瞬躊躇ったものの頷いた私に、医師は少しだけ笑みを深める。
太宰さんに会うのは嫌だけど、何も言わずに行ってしまった分、彼を待つ時間が長く感じた。お陰で先刻からずっと落ち着かない。

「そう言うと思って、中也君の部下には君を連れて行くように言ってある。準備が出来たら呼びに来ると思うよ」

──コンコン

「…来たみたいだね。行っておいで」

扉を開けると黒スーツの人が一人立っていて、医師は私に手を振った。
黒スーツの人に付いて歩き、本部ビルを出たところでふと思う。
勝手に外に出たから、彼は怒るかな。

「…心配ですか?」

車を運転する部下さんに問われ、私はあることに気づいた。…此の人、良く彼の部屋に来る人だ。黒スーツにサングラスと見た目では見分けがつかなくとも、声で聞き分けることはできる。

「…大丈夫です。あの人は強いですから」

何処か自慢げに言う部下さんが少し羨ましい。今まで彼が積み上げてきた勝利をどれだけ見せられたとしても、私は自分の中に燻ぶる不安を消せはしないのに。
都心から離れ木々に囲まれた風景を眺めていると、遠くに大きな爆発が見えた。

「…今の、」

程なくして、走行している車にまで振動が伝わってくる。
何か、あったのだろうか。
いつかの夢に見た、光を失った彼の目が脳裏に浮かんで背筋が凍る。
車が止まると同時に飛び出し、制止の声も聞かずに駆け出した。
木々の向こうに古い小屋が見えたと思った瞬間、強烈な爆風に襲われ髪を手で押さえる。其れでも足は止めなかった。

「…中也さん?」

大きく窪んだ地面の傍に、彼の姿を見つけた。口から血が滴っていることに気づき、息を呑む。

「中也さん、」

もう一度呼ぶと、彼は此方を向いた。
乱れた髪に隠れていた瞳が、月光に照らされ鋭く光る。
顔にも腕にも、晒されている彼の肌の其処彼処に浮かぶ赤黒い模様。
…痣…?
それに、笑っているようにも見える。

「…中也、さん…?」

私を振り向いた彼の瞳に、私は映っていなかった。
弧を描く口元。私に伸ばされた手。其の掌中に、黒い球体が生み出される。

「──止めるんだ中也。その子を傷つけちゃいけない」

私に向けられた手を、太宰さんが素早く掴んだ。
消えていく彼の痣。彼の目が、私を映す。

「…雪…!? ……何で、此処に……」

驚く彼は咎めるような声を発するも、程無くして咳き込みながら地に膝を付いてしまった。血を吐き荒い息を繰り返す彼に、心臓が鷲掴みにされたかのように感じる。

「中也さん!」
「心配、すんな………太宰手前……終わったら直ぐ……止めろっつうの……」

私に微笑んだ彼は一転して太宰さんを睨みつける。尚も血を吐く彼に、如何しようもない焦燥が湧き上がってきた。
程無く意識を失った彼に、最早頭は真っ白。涙で滲む視界と震える手に苦戦しながら、何とか電話帳から医師の名前を探し、呼び出し音が途切れると同時に叫ぶ。

「医師、助けて! 中也さんが死んじゃう…!!」
《落ち着いて雪ちゃん。恐らく『汚濁』を使ったんだろうね。大丈夫、疲れて眠ってるだけだよ。その為に迎えに行かせたんだ。彼の部下と一緒に連れて帰っておいで》
「でも、血をたくさん吐いて、」
《大丈夫。少し無理をしたみたいだけど、今日が初めてじゃないからね》

そんなに泣かないでと宥められ、通話は切れた。

「…可哀相に、雪ちゃん。そんなに泣いて…矢張り私と一緒においで。私なら、君にそんな辛い思いをさせたりしない」

屈んだ太宰さんが私の髪を一房掬い、キスをする。髪を離した指先がそのまま私に伸びてきて、太宰さんの冷たい瞳に硬直していた私は慌ててその手を払い除けた。
咄嗟に彼の手を握る。予想に反して私より暖かい其れに、少しだけ頭が落ち着きを取り戻した。

「……太宰さんが、如何して私にそんなことを言うのか、知ってます。でも…太宰さんの求めるものを、私は持ってません…。私の中に在ったのは、空虚で……太宰さんの虚無とは違う。それに、私の空虚はもう、埋められたから……」

太宰さんは多分、私の中に虚ろを見た。でも其れは、私に感情が無かった故の空虚。太宰さんの、退屈な世を嘆く虚無とは違う。
太宰さんは私に、自分の孤独に寄り添って欲しいのだと思う。でも、私に其れは出来ない。

「…確かに、君は昔とは違うみたいだね。……君の穴を埋めたのは中也かい?」

私はゆっくり頷いて、立ち上がった太宰さんを見上げる。少し寂しそうに笑う瞳を見て、私を諦めたのだと悟った。「またね、雪ちゃん」ひらりと手を振って立ち去る太宰さんと入れ替わるように、彼の部下が走り寄って来るのが見えた。


     *     *     *

title by ライリア