彼が探偵社へ単独で向かう。医師(せんせい)の命令。任務の内容は伝言人だそうだけれど、彼が大人しく伝言だけして帰ってくる可能性は限りなく低い。否、もしかすると伝言人という医師の指示自体が建前で、隙あらば殲滅して来いということなのかもしれない。
探偵社が一か所に固まって守りに入っているとは考えにくいので、恐らく彼一人で探偵社全員を相手にする事は無いだろう。だが、心配なものは心配である。

「…怪我して帰ってきたら、私が治してあげる」

にっこり笑ってそう言えば、彼がひくりと頬を引き攣らせた。私が如何やって傷の確認をするか、彼はよぅく知っている。

「…心配すんな。危険な任務じゃねえよ」

其の危険でない任務に、刺激を求めて自ら喧嘩を吹っ掛けていくのが彼のスタイルである。
私がため息を吐くと、彼は不思議そうに見つめてきた。
彼は血の気が多いのだ。そして喧嘩好き。傷は勲章か何かだと思っていても可笑しくはない。まあ、そんな勲章を作ってきたらすぐに消すけど。

「…一緒に行くとは言わねえのか」
「一緒に? 私が? 何故? “危険な任務ではない”から?」
「……太宰は今、探偵社員だ」
「……へえ…?」

…残念ながら、私には彼が云わんとしていることが全く理解できない。抑も今の会話は成り立っていたのだろうか。私の問いに対する彼の返答は、噛み合っていたとは言い難い。そして何故太宰さんが出てきたのだろう。できれば私は、彼の人には会いたくない。

「…太宰が好きなんじゃねえのか」
「……え、?」

低い声で忌々しげに言う彼に、言葉を失う。
一寸待て。彼は何時からそんな思い違いをしていたのだろう。私が、太宰さんを、好き? ……なんて、突拍子もない言葉。どんな難解な数式より理解不能な一文。──冗談じゃない。

「…昔からよく太宰と一緒にいたじゃねえか」
「…太宰さんが良く医務室に来てただけ、」
「4年前、太宰が来たことを黙ってた。庇ってたんだろ?」
「…言ったら、中也さんの機嫌が悪くなるでしょう。あの時私が持っていた情報は“太宰さんがマンションに来た”それだけ。そして其れを私が口にすることで齎すのは、“中也さんの不機嫌”だけだった。太宰さんが不利になるような情報を持っていたなら、直ぐに言ってた」

…真逆。4年以上一緒に住んでいるのに、彼は今までずっとそんな風に思っていたの…? 私がどんな思いで彼の傍にいたかも知らず、に…?

「…本気で、言ってるの。私が…太宰さんを、好きって、本気で…?」
「…違ェのかよ」

彼は先刻からずっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。──冗談を言う顔ではなかった。

「……信じられない」
「…雪、」

…信じられない。あの日――彼が私を抱いたあの日から、ずっと。私がどんな気持ちだったか。どんな思いで、彼の傍で4年以上も過ごしてきたか。

「知らない…中也さんなんかもう知らない! 莫迦!」

持っていたテディベアを彼に投げつけて、部屋を飛び出す。行く当てなど無いけれど、走り続けた。長い長い廊下を走って、幾つも階段を下り、また廊下を走る。

「…雪さん…?」
「…樋口さ…」
「ど、如何されたのです…!?」

偶然会った樋口さんがおろおろとハンカチを差し出してくれる。…ああ、私、泣いてるのか。
だって、そんなことに気づける余裕なんて無かった。悔しくて、悲しくて。私が彼と過ごした時間は、何の意味も持たなかったのだろうか。全て、無駄だった…?
──太宰が好きなんじゃねえのか。
彼のその一言は、全てを無に帰した。それ程の破壊力があった。
嗚呼、本当に、この4年余りは何だったのだろう。私の信じていたものなど、幻想でしかなかった。

「…ごめんなさい、」
「雪さん、大丈夫ですか…?」
「…私、これから如何したらいいんだろう…」

気分は宛ら、親に捨てられた子供だ。此れが自分の世界の全てと信じていたものは、泡沫と消え去った。
涙は依然として止まらなかったけれど、そんなものは如何でもいい。樋口さんは未だおろおろしているけれど。

「…あの、とりあえず移動しませんか…?」

そう提案した樋口さんに連れられて、黒蜥蜴の事務室へ入った。手渡された紅茶が温かい。広津さんや銀さん達はいたが、芥川さんの姿は見当たらない。樋口さんによれば、芥川さんもまた任務に赴いているらしい。広津さん達だって忙しそうだ。…当たり前か。今は、戦争の只中なのだ。

「…中原幹部と、何かあったのですか?」
「…お互いが好きだって信じてたの、私だけだったみたいです。…中也さんは、私が別の人を好きだと思ってたみたいで、」
「そんな! お二人はあんなに想い合っていたじゃないですか! 何かの間違いでは──」

樋口さんが尚も言葉を続けようとしていたその時、背後で物凄い音が響いた。まさに轟音。室内の誰もが動きを止めて音のした方を振り向く。…其処には、破壊され修復不可となった扉が一つ(“枚”と数えられるような形状では、最早ない)。鉄屑と化した扉の向こうに、見覚えのあるシルエットが此れも一つ。

「…中也さん…」

…何となく、会ってはいけないような気がした。──否、会いたくなかった。
砕け散った幸福な時間。だけど未だ、其れ等を拾い集めて再形成することはできる。再形成して、一人で大事に抱え込むのだ。彼に貰ったテディベアのように。
今なら未だ間に合う。早く逃げなければ。
彼ともう一度視線を交わしてしまえば、きっと幸福の欠片は灰と化す。そうなれば二度と元には戻らない。
逃げなければ…いけないのに。

「──雪、頼む。少しで良い。聞いてくれ、俺は、」
「…あ、あの、中原幹部、」
「あ? 後にしろ。邪魔すんじゃねえ」
「いえ…。今、お話しすべきことなんです。雪さんのことです」
「…何?」

彼の言葉を遮った樋口さんは、震える声とは裏腹に真っ直ぐな目を彼に向けていた。

「雪さんが本部に通われるようになって直ぐ、私は雪さんが本当に中原幹部のことがお好きなのだと確信しました。でなければ…中原幹部の目と同じ色をした耳飾りを、毎日付けて来たりしません」
「な…」
「な、何で樋口さんがそれを…!?」

思わず叫ぶ。叫んでから慌てて口を手で塞いだ。やだ、これじゃ、肯定しているようなもの。しかし時すでに遅し。
確かに私は、彼に買って貰った菫青石の耳飾りを毎日付けている。…彼の目の色の石が付いた耳飾り。だから目に留まった。
でも、其れは誰にも言っていないのに。

「…本当、なんだな?」

私の目を覗き込んで、確かめるようにゆっくりと彼が言う。…ああ、この目を見たら、もう戻れなくなると思っていたのに。
いたたまれなくて、如何しようもない位恥ずかしくて、視線を逸らして小さく頷く。

「…そうか。…行ってくる」
「…え…?」
「任務だ。直ぐ帰るから、俺の部屋で待ってろ」

ニッと笑った彼は、するりと私の頬を撫で、耳飾りに触れて部屋を出て行った。


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title by ライリア