「紅葉さんが探偵社に捕まった…? 何で、そんなことに…」
「姐さんは探偵社にいる餓鬼を連れ戻しに行った。だが、組合の襲撃に遭って…」
「…医師(せんせい)は何て?」
「外部の殺し屋を雇って探偵社の社長を殺せと」
「暗殺なら、私が…」
「…雪、言った筈だ。外は危ねえ」

…それもそうだ。彼が私を外に出す筈がない。まして、彼は私が暗殺の訓練をしていることを知らないのだ。まあ、若し知っていたとしても許可はしないだろうけれど。医師だって、きっと私が暗殺に赴くことを良しとしないだろう。私の研ぐ刃は彼の為に使われるべきだと言われるのがオチ。

「…其の、子供ってどんな子なの?」

殺し屋は既に手配済みなのか、通常通りのデスクワークをしている彼に問う。
…よく考えてみれば、私ごときが探偵社──仮にもマフィアと対立している組織──の頭に敵う筈はない。彼ならばいざ知らず、暗殺しか出来ない私に戦闘力など皆無なのだ。

「俺も詳しくは知らねえ。唯、姐さんが可愛がってた奴だってのは知ってる。…そういや、姐さんが“騙されてる”とか何とかぼやいてたか…」
「騙す? 誰が、何で、」
「俺も善くは分かんねえ。大方、堅気の世界に憧れたんだろ。姐さんはそう云うの嫌うからな」
「…へえ」

彼の言葉に首を傾げると、彼も首を捻った。彼もあまりその子供と近しい間柄ではないらしい。
子供であれば尚更、外の世界に憧れるのも無理はない。ただ、実際に出られるかどうかは話が別だけれど。私は運が良かっただけだ。医師がマフィアの首領になった直後、私のいた殺し屋斡旋業は壊滅したと聞く。私を拾ったのが医師でなければ、斯うはならなかっただろう。

「…紅葉さん、大丈夫かな」

呟くように言って、彼に貰ったミルクティーに口をつける。ざわついていた心はすっかり元通りだった。膝を抱えて座る私のお腹には、先日彼がくれたテディベア。
…落ち着く。

「仮にも向こうは合法組織だ。無闇矢鱈に痛めつけるような真似はしねえだろ。いざとなりゃ、姐さんには『金色夜叉』もあるしな」

彼はコーヒーを口にしながら言うが、そう簡単にいかないのではないだろうか。以前樋口さんに聞いた話によれば、探偵社には、あの芥川さんを重体に追い込んだ人虎とやらもいるらしい。他の社員がどんな人かは知らないが、あの黒蜥蜴を──此れは広津さんが苦々しい顔で教えてくれたこと──返り討ちにしてしまった集団だ。一筋縄ではいかないだろう。

「…中也さん」
「ん?」
「私、中也さんが死んだら後追うからね」

ぽつりと言う私に、彼がペンを置く音がした。彼が眉間に皺を寄せているのが、見なくても分かる。

「…怖くなったのか、雪。矢張り、マンションにいた方が──」
「違うよ。そうじゃないの」

彼は何処か、私を閉じ込めておきたがる節がある。心配などしなくとも、私は十分に籠の鳥だというのに。
それに、私が怖いのは自分の死じゃない。私と彼が居るのがそういう世界だということは知っているし、彼が強いことも知っている。でも、時々想像してしまう。冷え切って、血の気の失せた、彼の体。変わり果てた姿の彼は、二度とその瞳に私を映してはくれなくなる。怖くて仕方ない、けれどもそう遠くないかもしれない未来。…そうして眠れなくなった夜は、彼が一晩中甘やかしてくれるけれど。
…マンションで一人、彼の帰りを待つ日々は、やり場のない不安との同居でもあった。彼はとても強い。医師だってそう言ってた。だから、大丈夫。無事に帰って来る。大丈夫、大丈夫。そうやって自分を宥めて、何とか平静を保つのだ。そうでなければ、壊れてしまうから。彼が帰って来るまで──或いは、“其の報せ”を聞くまで──私は、彼の生存する世界と命を落とした世界との狭間に立たされるのだ。まるで、シュレディンガーの猫。

「…中也さん。マンションだって安全じゃないでしょう? 太宰さんはあのセキュリティを簡単に破って侵入してきたし、若し敵に物質を透過できる異能者がいたら? 建物ごと爆破させられたら? 医師に聞いた。ビルが丸々一つ消えたって。同じことが起こらない保証なんて何処にもないでしょう? ──絶対なんて、この世に無いんだよ、中也さん」

…そう。絶対なんてない。紅葉さんが無事に帰って来る保証も、マンションが安全だという証拠も、彼が任務から無傷で帰って来られる確信も。全部、100パーセントじゃない。
当たり前だと云われるかもしれないけれど、とても恐ろしいことだと思う。

「…当たり前だろ。だから出来るだけ“絶対”に近い道を選んでる。誰だってそうだろ。それでも“万が一”が起こったら、そん時は10倍にして相手に返せば良い。マフィアってのはそういうもンだ」
「……でも、」
「ごちゃごちゃ考え過ぎんな。俺たちがいる“今”は絶対だろ? …それでも未だ不安なら、誓ってやる」
「…誓う?」

神への誓いなど、何の意味も持たない。何故なら、神なんていないから。
彼は首を傾げる私の前まで来て、片膝を付いて屈んだ。呆気に取られている私の手から、テディベアとミルクティーが奪われる。黒い革手袋をした彼の手が、私の両手を包んだ。

「…傍にいる。雪が望む限り、俺は必ず帰ってきて、雪の傍にいてやる」
「………ふふ、」
「おい、笑うな。俺は真剣なんだよ」
「…うん。ありがとう」

尚も笑う私に彼は拗ねたような顔をする。けれどその数秒後、彼も笑みを零した。
単純で、幼稚で、何の根拠もない。だけど、彼がそう言うのなら信じてもいいと思う。彼は、今の私の世界において、神なんかよりずっと絶対的な存在だから。


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title by ライリア