「医師、私、黒蜥蜴に入りたい」
「……また随分急だね。その話はとっくに終わったと思っていたのだけど」

此処は医師(せんせい)の執務室。私の正面には医師。私の腰元にはエリスちゃんが抱き着いている。私が部屋に入るのとほぼ同時に彼女が飛び付いてきたこと、その時医師の手に真新しいワンピースが掲げられていたことを考えると、何時ものやつをやっていたに違いない。連絡も何もせず、彼が任務に出掛けたのを見計らって来たので、医師はワンピースを両手に持ったままの姿勢で固まっている。そんな医師に構わず、私は用件だけを告げた。
そして、冒頭に戻る。
…私が彼の秘書としてマフィアに復帰して早一週間。昨日偶々廊下で会った樋口さんと立ち話をした私は、彼女の口から芥川さんのことを聞いた。芥川さんは任務に失敗、重傷を負った挙句敵に襲撃され、医師に見放されたのを樋口さんが独断で救出に向かったらしい。
樋口さんは相変わらずの美人さんだった。

「…で、雪ちゃんはいざとなったら中也君を助けに行けるようになりたい訳だね?」
「そう」

流石は医師。話が早い。
私は元々殺し屋なのだ。ブランクが長いので腕はかなり落ちているだろうけれど、一から教わる必要はない。飽くまで腕が落ちた分を取り戻したいだけ。

「戦力が増えるに越した事は無いのだけどねぇ…中也君は絶対にいい顔をしないだろうし…」
「マフィアの首領が部下の顔色なんか窺ってどうするの」
「うっ…雪ちゃんは相変わらず手厳しいね。でも私も雪ちゃんを危険に晒すのは気が進まないな」
「…昔は用心棒にしてたくせによく言う」

確かに彼は私が黒蜥蜴に入るなどと聞いたらいい顔をしないだろう。私が秘書として同じ職場に通う事にさえ、未だに渋い顔をしている。
…でも、医師が反対する理由は分からない。此の人は、何処までも合理的に物事を判断する人の筈だ。

「…分かったよ。黒蜥蜴に君を指南するように言っておく。但し、指導だけだよ? 任務には行かせられない。雪ちゃんは傷の治療ができる数少ない異能力者だからね」

…そういうことか。
医師の言葉に納得する。正確には治癒の異能ではなく、結果的に傷の治療ができるというだけなのだけど。
何にせよ、鍛える許可を貰えたのだからそれでいい。

「ありがとうございます、医師。…あ、そうだ。今の服も十分素敵だけど、エリスちゃんならアリスの服も似合うと思うな」

恭しく頭を下げた私は、未だに腰にくっ付いているエリスちゃんに言う。と、見せかけて本当は医師に向けた言葉だ。

「雪がそう言うなら着るわ!」

案の定エリスちゃんは笑顔で言う。その笑みは最早天使。嗚呼、可愛い。鼻血を垂らして溶けそうなほどデレ顔で親指を立てている医師はちょっと気持ちが悪いけれど、エリスちゃんは間違いなく天使。

「また何かあったら言いに来るといいよ」

満面の笑みで私を見送る医師は、手を振りながらそう言った。すっかり上機嫌である。きっと明日には、溶けたアイスクリームのような顔でアリスの衣装を着たエリスちゃんをお披露目しに来てくれるだろう。
昇降機から降りて長い廊下を歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。

「中也さん」
「! 雪、何処か行ってたのか?」

振り返れば部下と話しながら此方へ歩いてくる彼。声を掛けると少し驚いた顔をして、足早に向かってきた。

「医師の処。エリスちゃんは相変わらず可愛いね。…今帰って来たの?」
「ああ。これから報告書作って出せば終わる」
「…あ、3日後の任務の図面、幾つか修正案を出したからあとで確認してくれる? …中也さんはゴリ押ししようとし過ぎ。暴れたいのは知ってるけど、支出は出来るだけ減らさなきゃ」
「…おう、」

部下に片手を上げ別れを告げた彼と共に執務室へ入る。
私が任務の計画に口を出すようになったのは、数日前、偶々私が彼の見ていた図面に改善案を出したのがきっかけ。其れでは効率が悪いと別のルートを提案し、採用された改善案は結果、普段より怪我人も武器の消費も少なく済んだ。其れからは医師のお墨付き。
…彼の人ほど、完璧な計画は立てられないけれど。

「…雪」
「! はい」
「今、余計な事考えてただろ」
「…余計な事?」
「此れは、十分俺の役に立ってる。勿論、首領にもな。他の奴と比べようとすんな」

…彼は何時から読心術が使えるようになったのだろう。普段は唯のヘタレの癖に、時々驚くほど鋭いことがある。
トントンと彼が指で叩いた図面には、メモが三つ付いている。私が書いたものだ。彼の仕事が少しでも減れば、一緒にいられる時間が増えると思った。私の行動の基準は何時でも彼だ。本当は、怪我人や武器なんて如何でもいい。
…だからこそ、樋口さんから芥川さんの話を聞いた時は久し振りに肝が冷えた。同じ職場にいる以上、同じ世界にいる以上、他人事ではないのだ。
若し彼が芥川さんのような事になったら、私は如何するのだろう。
若し、彼が死んだら、私は。

「…雪? 大丈夫か。顔色悪ィぞ」
「…へいき」
「具合悪いんなら休んでろ。直ぐ終わらせるから」

彼にソファを示され大人しく座ったものの、何だか落ち着かない。何だろう。…落ち着かない。
背凭れに掛けられていた彼の外套を引き寄せた。彼の匂いがする。
…でも何か違う。落ち着かない。
ソワソワしている内に、彼が椅子から立ち上がるのが視界の隅に映った。邪魔してしまっただろうか。…大人しくしていよう。

「首領に報告書出してくる。俺が戻って来る迄に何食いたいか考えとけ。今夜は好きなとこに連れてってやる」
「……もう終わったの?」
「あ? 悪いかよ」
「ううん。…お疲れ様」

首を振って笑みを浮かべると、彼は「おう」とだけ言って部屋を出て行った。


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title by ライリア