「おはよう、キティ」
「…おはよう…」
「オレはもう出るけど、朝食はちゃんと食べて」
「…うん、」
「…あ、もしかして、今日から実習?」
「…そう、」
「じゃあ病院で会えるね。行ってきます」
「…いってらっしゃい…」

起きてきたばかりのアリスは、ダイニングテーブルで朝食を口にしながらチシヤを見送る。チシヤも口数が多い方ではないが、極端に静かなアリスとの会話を聞くと、どうしてもチシヤが一方的に話しているように思えてしまう。
テレビもつけず黙々と食事を進めるアリスが一人残された部屋には、食器の音がたまに響くだけだった。


     *


「…ねえ、アリスの言ってた同居人って、苣屋医師?すごいカッコイイじゃん!優しそ〜!!」
「…優しくは…ないと思うけど、」
「え?」

実習先の病院でチシヤを見て騒ぐ友人に、アリスは聞こえないように呟く。なに?と首を傾げられ、苦笑しながら「何でもない」と首を振るアリスの視線の先に、ナースと談笑するチシヤの姿があった。今はよそ行きの笑顔と言葉づかいで猫を被っているが、チシヤの本性を知っているアリスからすれば、“優しい”という言葉は口が裂けても言えない。

「…、」

…アリスとチシヤが一緒に暮らし始めて7年が過ぎた。チシヤは医者になり、アリスは看護師を目指して医大に入学。アリスの信念は今際の国にいた頃となんら変わらず、その中心には常にチシヤがいる。
アリスもチシヤと同じく命というものの大切さはあまり理解できなかったが、その能力は惜しげなく発揮され、チシヤも通った大学に合格。3年生の現段階で既にいくつかの病院から誘いが来ているが、アリスはどんな条件を出されても希望先をこの病院から変えようとしなかった。

「…やっぱり気になるんだ?苣屋医師、ナースにも人気あるらしいよ〜?」
「……私には、関係ない」

アリスの視線に気づいた友人がからかっても、アリスは眉一つ動かさず仕事に戻る。
7年という月日は様々なものを変えたが、アリスは自分の心とチシヤとの関係だけは変わっていないと信じていた。


     *


「可愛い子ですね、黒澤さん…でしたっけ。苣屋医師、一緒に住んでいらっしゃるんでしょう?」
「はい、まあ。最初の頃は何をするにも後ろをついてきたのに、最近は一人で行動することも多くなって、少し寂しいんですよ。親心ってこんな感じなんですかね」
「まあ、可愛らしいですね」

ナースに話しを合わせつつさりげなくアリスを見遣るチシヤ。アリスが友人や他の看護師と話しているのを見て、小さく息を吐いた。

「(…ちゃんと上手くやれてるみたいだね…)」

口数の少なすぎるアリスが自分のいないところでどんなふうに過ごしているのか、チシヤは少なからず気にかけていた。しかし、数人の友人たちと談笑し仕事をこなすアリスは、特に困ったことはなさそうだ。
…そこまで考えて、チシヤは自分の思考に嘲笑した。人の命にすら関心のなかった自分が、他人の心配をすることになるとは。
誰にでも配慮をするような善人になったというわけでもないが、アリスと過ごした時間は確実にチシヤを変えた。
流れていく歳月の中で変わらないのは心臓の細胞くらいだと、チシヤはもう一度自嘲の笑みを浮かべた。


     *


「ただいまキティ。遅くなってごめん……キティ?」
「……チェ、シャ…」

予め遅くなるとは伝えてあった。伝えたのがまだ実習の時間内であったため、アリスの友人がその会話を聞きそのまま一緒に夕食を食べに行くことになっていたのを、チシヤは知っている。現在の時刻はかなり遅いためアリスが家にいるのも想定内だったが、チシヤはアリスの姿を見てひどく驚いた。
最初に目を惹いたのは、その服装だった。チシヤはアリスの持っている服を全て把握していたが、今の彼女は見たことのない露出の多い服を着ている。チシヤの密かな独占欲が、今までその肌を無駄にさらけ出すのを許さなかったというのに、アリスはそれを嘲笑うかのように、些か寒そうに見えるほど露出度の高い服を着ていた。
しかし、チシヤが本当に驚いたのはアリスの表情だった。
目から大量の涙を流すアリスは、顔全体が赤い。酔っていることはその匂いからもすぐに分かったが、アリスが泣いているのを見たのは、今際の国で死にかけた、あの一度きり。アリスの涙の理由が分からないチシヤは、ただただ戸惑うばかりだった。

「キティ?何かあったのかい?」
「…チェシャ…、」

嗚咽を漏らすアリスの前にしゃがみこんだチシヤへ両腕を伸ばし…アリスはチシヤを押し倒した。抱きつかれるとばかり思っていたチシヤは、抵抗をする暇もなくアリスに組み敷かれる。床とチシヤの後頭部がゴン、という音を立ててぶつかった。

「……アリス?」
「っ、……チェシャは…私が、きらい?」

本名で呼ばれ一瞬その表情を強張らせたものの、すぐにまた悲しみを湛えた瞳でチシヤを見下ろすアリス。その目には、どこか不満げな色も見える。
チシヤはアリスの問いには答えず、観察するような目でじっとその様子を見守った。

「……道具に、心なんかいらない…のに、チェシャの役に立てれば、それでいいはず、なのに…!……あの国から戻って来て…チェシャの隣にいられなくなって…同じ景色を、見られなくなって……チェシャが何を考えているのか、分からなくなった…!…っ、本当ならあの時、私は死んでいたはずなのにっ…なんで、こんなにモヤモヤするの…?心なんか、いらないのに……あの時、死んでしまえばよかったのに…!」

酔っている所為で順序はバラバラ。気持ちだけが空回り。感情をそのまま変換したような、そんな言葉の羅列。…それでもチシヤには、アリスが今どんな気持ちを抱えているのかが理解できた。

「……昔は人の心なんて理解したくもなかったのに…今こうして君の気持ちを知ることが出来て嬉しいなんて、可笑しな話だよね」
「…?」

一通り吐き出したのか、大人しくなったアリス。チシヤは自分の上に乗ったまま泣き続けるアリスの頭を撫で、自嘲的な笑みを浮かべる。

「…死を望まないで、アリス。明日にはきっと忘れてしまうから、今はあまり言わないけど…オレの望みは、君が傍にいることだよ」
「………うん、」

酒の所為か泣き疲れたのか――恐らくは両方だろう、アリスは既に眠たげに目をこすり、チシヤの話を聞いているのか定かではない。

「…眠いよね。寝ていいよ」
「…、」

いつかのように、アリスはチシヤに無言で訴えた。その目はあの時と同じ、寂しがり屋の子供の目だった。

「…いいよ。一緒に寝よう」

チシヤの腕が背に回ったことで安心したのか、アリスは静かに目を閉じた。


   *   *   *

タイトルはお題botより。
Lead Endのその後の話。
少女と呼べる年でもないのでアリスと表記。
続くかもしれない。